『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』感想(2023年5月記)/『15時17分、パリ行き』感想(2018年3月記)

子と『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』。開始1分でクッパ登場、5分で主人公たちは配管工という説明が終わり、7分でこれは元来横スクロールアクションゲームだったのだと明示する、早い、偉い。ビデオゲームに関心がありプレイする環境がある小学生は鑑賞中たいへん愉快な気分になれるだろう。子が観ているあいだじゅう愉しんでいたのと、映画館・スクリーンの外に興味関心が沸いた(後述する)ので100点満点中、超辛口で100億点。

舞台が80年代の(テレビがブラウン管だ)ブルックリンで、ビースティー・ボーイズ「No Sleep till Brooklyn」が流れたりするのだ。それほどNYにアイデンティティがあったIPだったろうか?とは感じつつも93年実写版『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』の舞台もNYだった気がするのでアメリカのひとにとっては配管工といえばNYというイメージがあるのだろうか(後記:観たあとにインタビュー記事などを読むと宮本茂氏自身が初期からマリオはNYにいるというイメージを抱いていたことがわかった)。

ビースティーズだけでなく往年のヒットナンバーがいくつか挿入されるが、既存曲の使い方は……正直なところこれほどの大ヒット作にも関わらず、いや、だからこそなのか、近年稀にみるほど驚くべきダサさである。流れてほしいところできっちりかかるゲーム音楽やSEの心地よさとの落差が激しい。

劇中でかかるA-ha「Take On Me」はリリース84年だけれど、あのMVは85年だから、ファミコン(NES)の『スーパーマリオブラザーズ』発売年か。NESで「パルテナの鏡」をプレイしている場面があるので、作中の具体的な時代設定は86年以降だろうか。ビースティ・ボーイズ「No Sleep till Brooklyn」 収録アルバム『Licensed To Ill』は、そういや86年リリースだ。私が学校帰りに同級生のTくんのうちでスーパーマリオを初めてプレイした年にビースティーズがデビューアルバムをリリースしてたのか。Tくんの家の居間にあるテレビの前に座ってるときに窓から射す夕方の光をくっきりと思い出す。Tくんのお母さんが「みんなお腹へってたらおにぎりつくろうか?」と言ってくれたのを思い出す。Tくん、タカディーいまも元気でやってるかい? あの頃おれらの田舎まちは学童なんかなくって、鍵っ子のおれらたちは放課後は誰かの家にみんな集まっていた。おれんちは狭い団地でブラウン管テレビは少し壊れかかっていて画面の左側1/4が見えないから友達は呼べんくて、いま子の友人を家に呼びたがるのは私のその頃の記憶が深く根ざしてしるのかもしれないな。最初の『ドラゴンクエスト』を初めて目にしたのはYくんの家だったな。Yくんのお母さんから「あんまりバカって言葉を使っちゃいけませんよ」と私は叱られて、叱られた次の瞬間に「おまえそれバカだろー」と私は口に出してしまって恥ずかしかったな、ヤマちゃん元気でやってるかい?『ゼビウス』の無敵モードを教えてもらったあの子の家や、ファミカセをたくさん持っていて気軽に貸してくれてハイパーオリンピックで鉄定規を使ってたあの子の家のことを思い出す。甘い甘い記憶。バイ菌とされ〇〇菌と避けられていじめられていたあの子に接した際の自分の罪の記憶も思い出す。苦い苦い記憶。子連れで観にきた保護者の、心の中のやらかい部分にときおり触る映画だ。

マリオとルイージの兄弟が、単なるマリオブラザーズではなく何故「スーパー」なのかというくだりはなるほどそういう工夫をしたのであるかと感心した。独立起業して会社を立ち上げた二人がローカルCMを作った際に「配管工事はなんでもおまかせおれたちスーパーマリオブラザーズ!」とキャッチコピーをつくったのである。自称したのである。起業精神に溢れる人物というのはみずからをスーパーだと名乗るくらいでなくては成功しないのだ。または、自身の年齢の前に10万をつけるようなものである。


何かあるたびに劇伴が流れて、「まるでスター・ウォーズみたいだな」と感じていたら、カートが並ぶ工場場面がモロに「ジェダイの復讐」だったり、そのあとすぐにピーチが乗るバイクによる同作のスピーダー・バイクでのチェイスシークエンスが出てくる。直後、斜めワイプで場面が変わることに気がついたろうか。私が本作で一番笑った箇所だ。

圧縮ノイズ?と感じるほどフィルムグレインが濃厚で驚いた。強い光源はカメラレンズにソフトフォーカスフィルターをかけているかのような柔らかさがあり、まるで光学性能の低い古いレンズをあえて選択したかのようなルックである。配管の金属や水や帽子の布など実在の物体はリアルな質感、架空のキャラクターであるクッパはムービーモンスターシリーズみたいなソフビ(PVC)だしドンキーコングはフェルトと化学繊維のぬいぐるみだしピーチ姫の目はドールアイの質感だ。それらを違和感なく同居させるのに「なまらせる」ための画調だろうか。3DCGI的なツルピカな部分と写実的レンダーとの違和感がない。

細かいとこだと、ピーチの目玉のアニメートは素晴らしかった。目玉の黒目、虹彩と瞳孔が、グニッではなく、ピッピッと動くんだ。あれはめっぽう格好よかったな。

余談ながら──吹替で観たのだけれど、三宅健太氏演じるクッパのピアノ弾き語りからは靖幸こと岡村ちゃんこと岡村靖幸氏のソウルを感じた(本当)。これは原語版で声を当てているジャック・ブラックもプリンス調で歌っているのだろうか。

帰宅して子が寝た後にiPhoneのニンテンドーアプリを使ってSwitchにマリオやキノピオやカービィが登場するいくつかの任天堂のゲーム体験版をダウンロードしておく。遊んで気にいるものがあるといい──とはいえ、子には覚えゲーで繰り返しプレイして先に進むには繊細なスティック操作が必要なスーパマリオは少し難しくて、星のカービィに夢中になるだろな。映画館・スクリーンの外に興味関心が沸く映画はいいな。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は、まるで任天堂ゲームのようによく整頓され優れた製品だ。でも私はトンチキで常軌を逸した映画も好きでして。たとえばこんな──

以下は、クリント・イーストウッド監督作品『15時17分、パリ行き』感想(2018年3月記)。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(93分)と、『15時17分、パリ行き』(94分)って、ランニングタイムほとんど同じなんだ。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の印象を書くために、過去にメモした『15時17分、パリ行き』の感想を掘り起こしてくるという奇妙なことをやったのである。

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『アメリカン・スナイパー』('14)には大ブーイング、Bombの私ですが、『15時17分、パリ行き』はアリもアリ大アリ。凄い。普通に撮ってるはずなのに実験映画にしか見えない、自分が期待するイーストウッド作品。悪い意味で予想通りの部分と、良い意味で期待を上回る部分が混在して興奮する。

「事なかれ主義はよくねぇな!」「男の子ってこうだよね!」「自分の中に神を持て!」の三つをScene1、2、3...…はい次の場面、はい次の場面……と、わんこ蕎麦のように映画のランニングタイム94分間中で70分過ぎまで延々とやり続けるという異形のフォルム。

カモ柄Teeで戦争マニアでサバゲ好きで「戦争には何かがあるんだ!」と言う子供のベッドルームに『フルメタルジャケット』のポスターが貼ってある場面では、まるでSF短編にあるような価値観がまったく違う異世界に迷い込んだみたいに眩暈がした。回想場面で主人公のひとりが念願の軍隊に入るために猛特訓のダイエットと筋トレをするモンタージュがあって、自分はそこで『チーム☆アメリカ/ワールドポリス』のモンタージュを思い出して少し笑ってしまうタイプの(この映画にとっては)タチの悪い観客だし「まるでぜんたいが鶴田浩二が唄う特攻隊の歌みたいだ」と感じたのは事実だけれど、凄い映画なのは間違いない。凄い映画というかとても奇っ怪な映画というべきか。

(いま「回想場面」と書いたけれど、はたしてこの映画に回想という概念は成立するのだろうか?)

映画の50〜70分あたりで描かれるローマ、ベネチア、ベルリン、アムスの観光シーンが恐ろしい。イーストウッドが描く「自撮り棒」「インスタ映え」「クラブ」。恐ろしい。

ローマ場面のラスト。高いところに登って「最高だな」「じゃあホステルに戻ろう」と言う「だけ」の場面……や……ヤバイ。思いつきで撮った観光案内ビデオみたいな「3頭の馬の彫像」の場面……や、や、ヤバイ。ジェラート屋でアイスを買う「だけ」の場面……やややヤバイ……。ローマについて各都市を回ってアムステルダム中央駅からパリ行きの列車に乗りこむまでの、このシーケンスの20分間、ホームビデオかユーチューバーみたいな画で本当に観光するだけなんだ。なんにも起こらないのにここがいちばん面白い。脳内麻薬が出すぎて脳が溶けそうだった。

イーストウッドが描く自撮り棒!などと軽口を叩いたけれど、冒頭に少しだけ挿入されるパリ行き列車内で「Wi-Fiスペース」がやけに印象的に映っていたり、「あっちの車両にはWi-Fiあったよ」が事件の重要なキーになったり……と、他者と繋がる・または承認されることをSNSやWi-Fiに重ねているではなかろうか。

とにかく、どうにもおかしなことになっている映画で興奮するタイプにとっては、めちゃくちゃに面白い映画だった。おかしなことになっていない映画が好きな人にとっては……うーん……わからぬ。どのような感想を抱くのか、さっぱり見当もつかない。「事なかれ主義はよくねぇな!」「男の子ってこうだよね!」「自分の中に神を持て!」とタフに生きることに目覚めるのだろかしらん。スポ根マンガを読んで腕立て伏せと腹筋をするかのように脆弱な精神と肉体を鍛えはじめたりするのだろうかしらん。

ローマで泊まるホステルの受付、ベネチアで出会うツーリストなどなど、主人公たちが出会う女性たちが、本当に出てくる「だけ」で書き割りっぽく、序盤で家庭環境が描かれる中でしっかりと描かれる主人公たちの母親ですらどこか書き割り感がある。

だがしかし……照明も無し衣装もヘアメイクも華美でもない普段着なのに、やけにセクシーに映っていると感じてしまうあれはどういうことなのか。そりゃ監督がエロいのかもしれない。単に好色漢なのかもしれぬ。

『機動戦士Ζガンダム-星を継ぐ者-』(富野由悠季)で、女性キャラクターがコックピットに座っている場面──ただ単に、これから宇宙船を出発するというそれだけのシチュエーション──で、いきなり足元から胸まで舐めるようにカメラが撮る異様なカットがあった。あれを思い出した。

『15時17分、パリ行き』冒頭3分をちょっと書いてみる。どれほどこの映画が奇妙なのかを説明できるだろうか。

SE:騒めく駅の構内

シーン1:駅構内でキャリーケースをひく男のバックショット。切り返しでデニムシャツの胸元(髭とサングラスがみえる)。汚れたスニーカーの足元。エスカレーターでホームへ。

シーン2:オープンカーに乗ってはしゃぐ三人の男。助手席の黒人男性が観客に語りかけるモノローグ。「おれがこいつら二人の白人と知りあったのは中学の頃で……」

シーン3:学校の教室。教師に生徒の親二人(白人女性)が呼び出されている。「あなたたちのお子さんは問題児です」。

ね?  開始3分で、すでにおかしなことになっているでしょう。シーン1が「現在」かと思いきや、そんなことはなく(ええっ?)、シーン2は時制でいうと1のずっと後で、いきなり観客に語りかける男は全編の語り部「ではなく」ここにしか述懐のモノローグがない(ええーっ!)。

次のシーン3はその男の中学時代の回想かと思いきや、ド頭に登場するのは教室に呼び出された「オープンカーに乗っていた他の二人の母親」なのだ(うひーっ!)。

こういうなんだかよくわからない事態はこの後もずっと続く。とんでもなく謎めいたストレンジな映画なのがおわかりか。最高だ。

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