raindrops-『ブレードランナー 2049』感想-
『ブレードランナー 2049』。いくつかポイントをしぼって自分の理解/解釈を。
(2017年11月18日 記)
【ATTENTION!!!ご注意を!!!完全にネタバレで物語の展開をラストまで触れています】
《自身の記憶が偽物だということが判明したKが、激情にかられ、そして絶望した理由》
・Kは自身の子供の頃の記憶がただのプログラムだというのは知っていたし、そのことについてはなんとも思っていませんでした。「最高の思い出かぁ‥‥子供時代がないのに子供の頃の記憶というのも変だけど(苦笑)あの思い出かなぁ」という場面がありましたね。ただ、その記憶が「もしかして本当にあったことかもしれない」になったとき、Kは初めて自分のためだけに行動をしました。しかし誰かの掌の上を駆けずり回っていただけだったのです。Kは絶叫しました。怒号は「希望を抱き夢を見てしまった自分」への絶望でした。
《街中で巨大なホログラムのJoiを見かけたKの心境》
・あの場面でKが頭に思い浮べていたのは「Joiはいくらでも代わりがいるコピーなんだッおれは女に騙されていたァ……」ではありません。巨大なホログラムのJoiは両目が真っ黒に塗りつぶされていました。「2049」劇中でレイチェルの模造品を見せられたデッカードは「レイチェルの瞳は緑だった」と言いました(レイチェルの瞳は鳶色です)。
以下に、アルベール・カミュによるドストエフスキー評を引用します。
〈ドストエフスキーの小説では、人生の意義如何という問いは、極限的な解答、——人間の生存は虚妄であるか、しからずんば永遠であるか、そのどちらかだという極限的な解答しかありえぬほど激烈な調子で提起される〉
〈この創造者が、みずから創造した作中人物たちにあたえる驚くべき回答、ドストエフスキーのキリーロフ(引用者注:『悪霊』の登場人物)に対する回答は、つぎのように要約できるのだ、——存在は虚妄であり、しかも(傍点)存在は永遠である、と〉
(新潮文庫 カミュ『シーシュポスの神話』所収「キリーロフ」清水徹 訳より)
クラウド上からデータを携帯端末に移行することで、消失の危険を冒してでもKに寄り添いたかったJoi。Kが巨大ホログラムのJoiの前に立ちすくんで考えていたのは、永遠の命を放棄した結果、消え去ってしまった「あの」彼女が自分にとっては「複製された模造品ではなくなったこと」についてです。
余談ながら、JoiがKを「Jo」と呼んだのは、自身の存在がJoのidentityになって欲しかったということだと私は感じました……が、これはこじつけです。
《Kは人間になりたかったか》
・Kは自身が肉体的にレプリカントだろうがヒューマンだろうが、終始、気にしてはいなかったでしょう。彼は、複製された模造品で〈虚妄〉だったJoiの行動を目の当たりにして、儚く失われてしまうかもしれないことが、同時に生きる駆動力を得るかもしれないと感じたのです。人間になりたいのではなく、自分が在ることの確信を欲したのです。街中に溢れる複製品では代わりにならず、傍らに寄り添った「あの」Joiだけが自分にとって唯一無二の存在になったのと同様に。
《前作ロイの最期、その反復》
・前作に登場するレプリカント、ロイのラストを反復しているのは、ラストシーンのKではなくラブです。彼女は最期の瞬間に水中で水面を見上げ、光の中で揺らめくKの姿を見ます(それは実際の光景ではなく幻想だったかもしれません)。前作でロイが逝ってしまったあとに鳥が羽ばたいた空にも似た光です。
前作でロイが寿命の尽きる直前で語る「雨の中の涙」のように、ラブは水中で「もしかすると」涙を流したかもしれません。雨の中では頬を濡らすのが雨粒なのか涙なのか区別がつきません。彼女が最期の瞬間にいたのは、ロイがいた雨の中よりもさらに他人に推し量ることが困難な水中です。私は前作の名フレーズ「雨の中の涙」の解釈が変わりました。
All those moments will be lost in time, like tears in rain——その刻はすべて雨の中の涙のように失われてしまう。(映画『ブレードランナー』より)
それまでは、大切な想いも流れ消え去ってしまう……つまり、諦観か感傷なのだと受け止めていました。しかし「2049」以降は「頬を濡らすそれが雨粒なのか涙なのか他人にはわからない、これは自分だけのものだ」という認識へと更新されました。物語が続き共通する人物が登場するから続編なのではなく、前作の問いかけのさらに先を見せてくれるから「2049」は続編なのだ、と。
前作でロイが死ぬ直前に頬を濡らしたのが雨粒だったのか涙だったのか、デッカードにも観客にもわからなかったように、ラブがその命を終えるときにどんな感情だったのかは他人にはわかりません。ただし、彼女の表情は水の中で少し微笑んでいたように自分には思えました。それは感情や行動を操作されてきたラブが両手で掴み取ろうとした彼女のためだけの感情——人生です。
《記憶を創作する博士と、ラストシーンについて》
・「免疫不全で部屋の外に出られない(=自分で目に映してきた思い出がほとんどない)博士がレプリカントのために記憶をつくっている」という舞台装置。これは前作でロイが、いままさに死の淵に、我が目で見てきた光景——”Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I've watched C-beams glitter in the dark near the Tannhauser Gate”——を思い浮かべる、それこそが、他人に定められた人生ではない自身の存在証明とした先の物語を見せるための装置です。
たとえそれがプログラムされた偽の記憶であっても、Kには(ひとときでも)自身のための人生を切り開く駆動力となったし、記憶が偽物だったことがわかったあとには、今度は自分が生きる証のために、何かを成し遂げようとします。命令や大義のためではなく、誰のためでもなく、こんどこそ自分だけのために。
博士の元に辿り着いたKが満足げな顔を浮かべ空を見上げると、降っていたのはこれまで都市を濡らしていた雨ではなく雪でした。ロイの命が尽きるときにビルの屋上に降っていた雨ではなく、Kが初めてJoiと一緒に部屋の外に出たビルの屋上で降り注いでいた雨ではなく、雪でした。
時を同じくして、博士が建物の中で雪を降らしていました。レプリカントに模造記憶を植え付けるための装置でつくったプログラムの雪。建物の外にいるKの上には本物の雪が積もります。もし、舞い降りた雪が頬についたなら、溶けて涙にみえるかもしれません。そのとき雪を溶かすのは自身のぬくもりです。