段落の一行目、頭ひと文字は空ける/惣領冬実『チェーザレ 破壊の創造者』

惣領冬実『チェーザレ 破壊の創造者』(講談社)をようやく読み始めたのだ。普通の会話場面のカット割りが衝撃だった。あまりにも映画的だ。しかも気を衒っているわけでもなく、演出的効果として映像的なルックを使っているのではなく、ごくごく自然に。

・ここから始まる一連のシークエンスが何処で行われるのかをアオリ/横打ち/など複数のアングルで捉えたコマ割り
・ドラマが起きる部屋に駆け込んでくる人物を俯瞰で捉えたカメラ
・その走る人物の顔の表情
・部屋のドアを開けるフルショット
・部屋の中からドアの方を向く人々の様子
・部屋の中にいる人物の表情をクロースアップ
・部屋の中に駆け込んだ人物の表情をクロースアップ
・部屋の中の広い画(各人物の位置関係)
・イマジナリーラインを意識した切り返しでの会話、クロースアップとバストショットの使い分け

……と、そのまんま実写の絵コンテ/カメラワークにつかえるくらいのコマ割りが頻発する。しかもマンガとしてのリーダビリティを壊さずに。これ、もんのすごいことをやってるのね……。しかも各カメラアングルからの背景とかちゃんと描いてるのよ……。

で、気になって検索したら、こんな記事がありました。


さらに、「チェーザレ〜」を読んで、なぜダンテ『神曲』がその内容だけでなく、古典として名声が高いのか理解した。あれはそれまで多くがラテン語で書かれていた当時のヨーロッパの書物の中で、まだイタリアがひとつの国家としてまとまる前に、各地方の方言として文法体系がバラバラだったイタリア語を「共通語」としてまとめて記述されたのも評価軸としてあるのだ。正直なところ、永井豪が大きく影響されたというので、子供の頃に『神曲』を図書館で借りて読んで、ぜんぜんピンとこなかったのである。

 (余談だが、ニッコロ・マキァヴェッリによる『君主論』──実際のチェーザレ・ボルジアについて君主の理想のかたちのひとつをある時期に体現した人物として取り上げている──は、普遍的なものではなく「当時のイタリア」の情勢と不可分であることにも実感が湧いた。これは、カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』が執筆当時、ナポレオン戦争終結後のプロイセン王国という時代と不可分なのと同様である)

閑話休題

以前に、ブックデザイナー祖父江慎さん(&コズフィッシュ)の大掛かりな展示を観にいったときのことを思い出した。祖父江慎さんは夏目漱石「吾輩は猫である」の初版から版を重ねた刊行物のコレクターでもあるのだが、展示の一角が「吾輩は猫である」コーナーになっていたのである。

 そこで私は衝撃を受けた。いまでは当たり前の「章が変わって段落一行目、頭ひと文字は空ける」などなど、日本語文章の・書籍の・組版のルールが、「吾輩は猫である」が版を重ねるごとに、形作られていくのであった。あれはちょっとショックだったな。アニメーション監督・高畑勲氏が『赤毛のアン』をアニメ化する際に、まず「原作は英語なので、それを日本でアニメでやるときに、どう身振り手振りをするのか」から考えたという逸話があって、私は「そこから始めるの!?」と驚きがあった。それと同様に祖父江氏に対しても「そこから考えてブックデザインをするの……!?」と畏怖の念を覚えた。

 なお、惣領冬実氏も「チェーザレ〜」監修者に「当時のベルトのかたち」を確認したが詳細まではわからず、「当時描かれた絵画」から推察するという「そこから始めるの!?」という驚嘆すべき創作姿勢である。

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