袋麺ミッドナイ丼
「くくく……そう構えることはないだろ、そこいらのスーパーで売ってるただの安物の冷凍キハダマグロだよナ(笑) 値段も質もどうってことない、せいぜい1パック280円から420円ってとこだろう。生鮮売り場の冷蔵ショーケースに並んだパック、それぞれ大きさは違うがグラム単位での値段は一緒。でも形と色をよく見れば中にはごく稀にアタリがある。それを冷蔵庫のチルド室で半日かけてナラしながらゆっくり解凍する。ただし八割まで。残りの二割は実戦、白飯の上で仕上げるんだ」
「ガスレンジで慎重に炙った焼き海苔を散らした白飯、そしてチューブのホースラディッシュを溶いたヒシクのさしみしょうゆで仕立ててやる。酢飯でもないし一般的な丸大豆醤油でもなくワサビですらない。だがうまい。丼に正解はない、好きか嫌いかだけだ。くくく……わかるか、こいつにはその域に達した者だけが感じる雰囲気がある」
「サッポロ一番 塩らーめんってそんなに凄いんですか……」
「くくく……たとえばメーカーのつくりかた説明通りにつくるだけで、もっとうまい袋麺はいまどきいくらでもあるわけだろう。技術の進化、市場の成熟と要求というわけだ。ノンフライ麺、粉と液体で分かれたスープ、油分の別添付、生麺かのような食感、全粒粉、煮干し出汁、アゴ出汁、激辛、全国のご当地ラーメン、レトロ感をウリにした中華そば……袋麺に限らずカップ麺なら具材も選り取り見取りだ。チューニングなど必要なく、メーカーの指示通りにつくるだけで完成する。もちろん料理人がプレゼンする一品ではなく、どこでも安く手に入る量産品なのだからそれは正しい」
「たしかに新製品で売れているのはどれもうまいです。広告費だけの力じゃないというか……」
「くくく……そいつらと比べたら、こいつはとっくに時代遅れのモンスターだ。油あげ麺は鈍重で縮れ過ぎたそれは細かく散らばり丼の底に溜まる、サッポロというがつくったのはそもそも群馬の会社でいまは東京が本社だ──でも、だからどうした? 料理には正しいと間違いがあるだろう。素材の処理、旬の時期、切る焼く煮る……数えきれないほどのノウハウの塊だ。でも食べ物に正しさはない。そこにあるのは好きか嫌いかだけだ。スーパーの棚には昔からずっと並んでいる定番品の袋麺が他にもある。でもその味が懐かしさだけじゃなく現役なのはサッポロ一番 塩らーめんだ。現役として最新鋭袋麺と同じステージで戦うなら茹で時間はきっかり2分半。それが多くても少なくても容易に破綻する。デビューした1971年の状況とは違う。70年代なら3分でもよかっただろうが、いまは2分半だ。卵を入れるなら溶いて入れるのではなく、残り時間90秒のところで鍋に《落とす》んだ」
「もちろん食べ手の好みはあるだろう。だが横に添えた一杯の氷水や麦茶でこれほど気持ちが高揚する袋麺が他にあるか? たとえばジップロックに入れて水から沸騰させて火を消し鍋に蓋をしてゆっくり調理した鶏モモ肉。そのまま食べたってうまいよな(笑) その肉から出た肉汁を麺を茹でる鍋にすべて入れてしまう。これが最新鋭の袋麺だとどうなるか」
「まずくなってしまうんですか?」
「違う。〝うますぎる〟のさ。強い味に強い味を重ねると力の逃げ場がない。まるで生麺のようなコシの麺、しっかりと出汁が感じられてコクもあるスープ、そこにきっちり優しく火を通した鶏モモ肉と肉汁を入れる──それなら別に袋麺じゃなくたっていいだろう。インスタント食品、特に即席麺なんてのは、本物の料理をいかに再現するか? という食べ物だ。袋麺ではなくカップ麺ならさらにその傾向は強くなる。もっと正確にいうと料理そのものに近づけて再現するのではなく、その料理を〝食べる気分〟を再現する。まずそこが違う。スタートラインから別物なんだ。それが意図したものなのか偶然の産物かはわからないが、サッポロ一番 塩らーめんは、最初っからラーメンの紛い物ではなかった。最新鋭の技術でつくられて大ヒットしているカップ麺がある、価格も300円近くと一般的なエントリークラス袋麺の実に3倍だ。だがそれがいくらうまくったってラーメン屋のラーメンの紛い物だ。サッポロ一番 塩らーめんは、サッポロ一番 塩らーめんなのヨ。そしてサッポロ一番 塩らーめんこそが袋麺なんだ」
「北見さんはラ王 ゆず塩を食べたことがありますか」
「くくく(笑) あるよ。オレが古い定番品しか食べない奴に見えるか。昔ほどじゃないが、スーパーやコンビニに新しい袋麺があればそれを試したい、パッケージングそのままでうまくともさらにチューニングして次のステージに持っていきたい、限られた金と時間内で生み出すモアテイスト、手間を省くモアスピード、これはチューンドメンに魅せられた者ならあたりまえだ。袋麺の二大メーカー日清と東洋水産、それぞれラ王とマルちゃん正麺、どちらもとんでもなくうまい。大メーカーの最新技術とそれを量産する商品開発の力に正直いって圧倒される。しかしその中でもラ王 ゆず塩、あれは──サッポロ一番 塩らーめんに近い。味はまったく違うが、チューンドメンを意識している。向いている方向は同じだ」
「ボクはサッポロ一番なら、しょうゆ味やみそも好きだったりして(笑)」
「サッポロ一番はしょうゆ味もみそラーメンもいい。ごま味もだ。味に背骨が通っている。具材や薬味でハードにチューニングしても、ああ、塩と同じメーカーがつくっているんだなと感じられる。だがやはり塩らーめんは特別だ。しょうゆ味やみそラーメンと塩らーめんのいちばんの違いがわかるか?」
「えーっと……《しょうゆ味》は醤油ではなくラーメンとは書いてなくって、《みそラーメン》は味噌ではなくみそでラーメンで、《塩らーめん》は塩でラーメンではなくらーめん……とか?」
「名は体を表すというからな。偶然だがオマエのその指摘は本質を突いている。だがオレがいま言った違いというのはそこじゃない。しょうゆ(66年発売)、みそ(68年発売)、それぞれ長く売れ続けているが時代にあわせてほんの少し味が変えられている。だが塩だけは、《サッポロ一番 塩らーめん》だけは、1971年の発売当時から麺もスープも味が変わってないのヨ。高度経済成長の最末期、団塊ジュニア世代が世に生まれた頃からずっと同じ。ポルシェ911ターボ(75年)のデビューより古い恐竜時代の化石なのに、肉でも魚でも野菜でも慎重に火を通された具材からでた出汁であれば、つくるときに麺を茹でる湯に混ぜてしまっても添付された粉スープの素とまるで最初からそのバランスでつくられたかのような調和を見せる。ウェルバランスというやつだ。なにも具を入れず少しの刻みネギや焼き海苔すらもない素の状態でもいいし、どんな具材をのせても食い手の姿勢に応えてくれる。あのCMソングを耳にしたことがあるだろう、ハクサイ、シータケ、ニーンジン。袋麺それ自体がもっと弄れとこちらを急き立てる。食べるためじゃない、つくるための袋麺。こんな袋麺、他にありはしねーってヨ」