今更ながらアナ雪
ディズニーのアニメーション映画『アナと雪の女王』('13)。2014年の日本公開時に劇場で観たときは正直いうとピンとこなかった。この作品は物語の完成度の是非を重視するのと、キャラクターの在り方を積極的に評価するのと、二つの評価軸があるだろうと感じ、私は前者の立場だった。ミュージカルシーンは楽曲も歌唱も素晴らしいし、3DCGIの美術もキャラクターたちのアクションも美しい。しかしどうにもストーリーの構成がとっちらかってるように思えてならなかった。制作途中に「Let It Go」という楽曲が生まれたことで、企画開発当初は悪役だったエルサをアナとのW主人公にして物語を大幅に変更したと知って、散漫な印象はそれが原因だったかと腑に落ち、作品自体への自分内評価はそこで終わっていた。
ハロウィンで女児がエルサのコスチュームを着ているのを目にしても、バッグや靴にアナ雪の絵柄があっても、「白雪姫やシンデレラに連なるプリンセスたちのニューカマーは人気があるんだな」と、それくらいの捉え方だった。映画として『プリンセスと魔法のキス』('09)や『塔の上のラプンツェル』('10)といった傑作に並び称されるどころかキャラクター人気や知名度が遥かに上であることに納得がいかなかったのだ。
時は流れて2021年。ある夜に、様々な童話の主人公たちが描かれている絵を子と眺めながら「これは桃太郎やろ」「これは浦島太郎」「こっちは長靴を履いた猫、アニメもあるで」「これは?」「それは人魚姫やな、アリエルは知っとるやろ? リトルマーメイド」「うん、(保育園の)◯◯ちゃんがめっちゃ好きやねん」「そうか、他のディズニープリンセスだと誰が人気あるんかな、ラプンツェルは知っとるか」「ラプンツェルは◯◯ちゃんがいちばん好きなキャラクターやな」などという会話をしていた。なんとなく話しの流れで、『塔の上のラプンツェル』の予告編を観て、それから『アナと雪の女王』本編から抜粋して公開されている「レット・イット・ゴー〜ありのままで〜」が歌われる場面をYouTubeで観た。
その瞬間、いまの自分は児童向け作品において何を重視しているのかを再確認することになった(ここに書いた『鬼滅の刃』においても、それを思い知った)。
作品が放つメッセージだけでなく作中の登場人物の態度が「生きる道を照らす」という役割における—— 先に書いた「キャラクターの在り方を積極的に評価する」ということだ——『アナと雪の女王』への高評価が言葉としてではなく、心で理解できた。二年ほど前にTV放送を録画したのを見せたときはまったく興味を示さなかったが、異様に画面に集中して、歌のところどころを口ずさむ。「すこーしも寒くないわ」。あら、文字にすると関西弁みたいやわ。
たとえそのおはなしが道徳的で健気で健全であってもマジョリティがマイノリティを居ないものとして踏み潰す物語だったなら、迫害された弱者が強者を切り刻みまくるスラッシャー映画のほうがまだしも「教育的」で「政治的に正しい」側面があるだろう。
日本の教育アニメのトップランカー「しまじろう」において新型コロナウイルス感染症に関して「罹ったひとは悪くない」「周りに罹ったひとがいたら非難するでなく心配しよう」と強くメッセージを表明していたのには感服した。しかし観ていて「危ういな」と私には感じられる場面がある。公共スペースでのマナーやルールにおける強迫めいた教条主義(特に「マナー忍者」は醜悪だ)、周囲に迷惑をかけない良い子は保護者にとってのみ都合の良いスタンスに見える。勿論すべてが危ういわけではないが、特にジェンダーロールが硬直していて古い。
たとえ反社会的だったりエロティックだったり、オモチャの販促メッセージが過剰であっても、そこにバイオレンス描写やゴア表現が含まれていても、つまるところは観ている幼年者に多少なりともエンパワメント・生きるよすが・を与えてくれるだろうか? いまの私の「幼年者も視聴想定層にある作品」への評価軸は、そこに尽きる。
「エルサというキャラクターの在り方は映画作品のひとつの要素でしかなくてそれで作品自体への評価を決めるのはどうなのだろう?」と考えていた私のほうが「映画作品のひとつの要素でしかない物語構成の完成度」で目を曇らせていたのであった。私が手に持ったiPhoneを見ながら子が「ありのままのじぶんになるの」と口にしたのを横で聴いて、今更ながらアナ雪に感動しているのである。
——とはいえ、教育上望ましいと「自分が」感じるから良い作品であるというのはどこか映画への冒涜の匂いがするし、児童向け作品は道徳的であるべきだというグロテスクな欲望の変奏曲だろう。どうしようもなく軽薄で果てしなく無意味であってもそれを観ることで昨日の傷口がふさがれ明日への恐れが少なくなればいい。重力の枷を振り切る翼の一枚の羽になればいい。
以下は『アナと雪の女王』 について2014年8月9日に書いた文章だ。書いた時点では作品がもつエンパワメントに関して、言葉や理念としては理解していたつもりだったが、まだ心や肌で実感はしていなかった。
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「Wicked, glee and Frozen」
(2014年8月9日 記)
日本でも大ヒットしたアニメーション映画『アナと雪の女王』('13)。この映画は、ブロードウェイのミュージカル『Wicked』('03)とテレビドラマ『glee』('09〜)の延長線上にある作品だ。
『Wicked』は『オズの魔法使』を西の悪い魔女エルファバの視点で前日譚から語り直した物語である。もしテーマを一行で表せと問われたら、こう書くだろう。「正しさはひとつじゃない、正義は多面的なものだ」。日本では「ああ、劇団四季が公演をしてるアレね、広告をみかけたことがあるヨ」くらいな感じだけれど、北米では2003年の初演以来、ブロードウェイのみに留まらず各地で上演され続け、映画、小説、音楽などさまざまなジャンルへ多大な影響を与えた歴史的な傑作である。
高校の合唱部を舞台にした学園ミュージカル『glee』は近年の北米ポップカルチャーにおける最重要作品だ。観ていない人向けに(あまりに乱暴に)紹介すると「いろいろなひとがいて、さまざまな幸福のかたちがある。たとえ多数派じゃなくとも自分を肯定しよう」という強いメッセージを持った作品だ。もっとシンプルに書くと——そう、《ありのままで》。
さて、なぜ『アナと雪の女王』を『Wicked』『glee』という文脈の延長線上として位置付けたのか。実はこの3作品には同じキャストが出演している。それは『アナと雪の女王』主人公のひとり、エルサ役のイディナ・メンゼルだ。
群像劇である『glee』だが、ほとんど主役といってもいいキャラクターとして、ミュージカルスターを目指し自室には『Wicked』のポスターを貼っているレイチェルという高校生が登場する。レイチェルが「Defying Gravity」という曲を歌う場面がある。これは『Wicked』第一幕終盤のクライマックスで主人公エルファバが歌う曲だ。『Wicked』を象徴する曲と言ってもいいだろう。レイチェルと共に「Defying Gravity」を歌うのは、ゲイをカミングアウトしているカートというキャラクターだ。レイチェルの両親はゲイカップルで、本人は代理母出産により生まれたのだが、その遺伝上の母を演じたのが『Wicked』のエルファバ初代キャストであり、その後に『アナと雪の女王』のエルサを演じることとなるイディナ・メンゼルなのだ。
メガヒットしている『アナと雪の女王』の主題歌「Let It Go」は、実のところ『Wicked』の、そして『glee』の「Defying Gravity」を継承した曲だ。歌っている人や登場するキャストが同じのみならず、劇中での扱いや歌詞の主題が、はっきり『Wicked』と『glee』の影響下にある。以下に「Defying Gravity」の歌詞を引用しよう。
"Defying Gravity"(重力に逆らって)
Something has changed within me
(私の中で何かが変わってしまった)
Something is not the same
(いままでと同じでいられない)
I'm through with playing by the rules of someone else's game
(誰かが決めたルールでやるのはもう終わり)
Too late for second-guessing, Too late to go back to sleep
(もう迷ったり黙ったままではいられない)
It's time to trust my instincts. Close my eyes and leap!
(いままさに 本能のまま目を閉じて飛翔する!)
It's time to try Defying gravity
(飛んでみせるそのときが来た)
I think I'll try Defying gravity
(重力の枷を振り切ってみる)
Kiss me goodbye, I'm defying gravity
(さよならのキスを)
And you won't bring me down
(私の飛翔をあなたには止められない)
"Defying gravity" (2003) / from the musical "Wicked" 拙訳
ね? まるで『アナと雪の女王』のエルサが歌っているみたいでしょう?
『Wicked』の主人公エルファバは、生まれつき強い魔力を持つが、入学した魔法学校では肌の色が緑であるため周囲から気味悪がられる。そんなエルファバが唯一心を開く相手が、ガリンダだ。『オズの魔法使』では善き魔女グリンダとして登場するキャラクターである。ガリンダは金髪のお嬢様で学校の人気者。
そんなエルファバとは正反対の境遇であるガリンダを『Wicked』は「クラスの人気者でリア充だが本当は厭な奴」などという描きかたはしない。1985年の映画『ブレックファスト・クラブ』で既に描かれていたように、人気者だろうがはぐれ者だろうが、みなそれぞれの立場で悩みや苦しみがある。
ガリンダとの友情、そして素晴らしい人物との出会いと恋。しかし楽しい日々は長くは続かなかった。オズの国に隠された重大な秘密と密かに進行していた陰謀を知ってしまったことが原因でエルファバは陥れられ、ついには石もて追われる身となってしまう。「あれが邪悪な魔女だ!」。軍隊や民衆に追いつめられたエルファバはある決意をする。他人に蔑まれたり罵られようとも、自分を信じることさえできれば他にはもう何も欲しくない。わたしにはそれを可能とする強い魔法の力がある。その覚悟を歌ったのが前述した「Defying Gravity」だ。
『glee』のメインキャラクターにはゲイやアフロアメリカンやアジアンといったマイノリティがいて、ポピュラーピープルとされる(または目の敵にされる)アメフト部員もチアリーダーもいる。ギークやナードといった属性だけでは正義にも悪にもしない、もちろんジョックスやクイーンビーといった《リア充》を属性だけで敵役にはしない。
物語の外側においても『glee』が持つ強いメッセージは貫かれる。一番人気のキャラクターであるブレインを演じるダレン・クリスはGLAADメディア賞に登壇して同性婚を支持するスピーチをする。カート役のクリス・コルファーは役柄の上だけでなく本人もゲイをカムアウトしている(『glee』は演じるキャストの人生をキャラクターに反映させて脚本が書かれているのだ)。2011年にはTIME誌で《世界で最も影響力のある100人》に選出されたクリス・コルファーは同年のゴールデン・グローブ賞で「君たちはいじめっこたちにNOと言われ続けている。でも君は君のままでいいんだ!」と助演男優賞受賞のスピーチをした——そう、《ありのままで》。
『アナと雪の女王』のエルサには子どもの頃から誰にも言えない秘密があった。それは魔力をもっていること。そのために自分を押し殺して生きて来たエルサだったが、周囲の人々は彼女を恐れる。魔力をもっているというだけで。ひとりになったエルサは歌う。
Let it go, let it go
(もうありのままで生きよう)
Turn away and slam the door
(ドアをバタンと閉めて 背を向ける)
I don't care what they're going to say
(彼等がなにを言おうと 気になどしないのさ)
It's time to see what I can do
(わたしになにができるのか それを知るときが来た)
To test the limits and break through
(許されるのかなんて 打ち破ってしまおう)
No right, no wrong, no rules for me, I'm free
(正しさや まちがいや ルールはない わたしは自由)
"Let It Go" (2013) / from the movie "Frozen"
以上、『Wicked』『Glee』そして『アナと雪の女王』の系譜について。
『Wicked』以降、そして『glee』以降、北米のポップカルチャーではティーンが望む物語における基準がガラリと音をたてて変わった。それが『アナと雪の女王』の登場に繋がる。
さて、ここでひとつその具体例を挙げておこう。
2012年に北米で公開された『21ジャンプストリート』というコメディ映画がある。残念ながら日本ではビデオスルーだったが、北米では国内興行だけでも1億ドル以上を稼いだヒット作だ。高校生の頃はモテ男だったモートン(チャニング・テイタム)とイケてなかった男グレッグ(ジョナ・ヒル)の組んだ警官コンビが、身分を隠して学生として高校に潜入捜査をする。
7年前の高校生時代にはモテ男だったモートンは、学校の人気者になるのが捜査の近道だと考えた。「高校生にモテるのなんて簡単さ、みてろ」とばかりに、障碍者スペースにわざわざ車を止め大声でゲイをdisって得意顔でマッチョぶる。しかしモートンの意に反して、周囲の高校生たちはドン引きするのだった。
グレッグ「いまはマンガ好きで環境意識が高く寛容な奴がモテるんだよ……」
モートン「……gleeのせいだな!」