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「サンタクロース、どうしてます」
「サンタクロース、どうしてます」という会話が公園の保護者のあいだで交わされる時期だ。「うちはもうバレてますよ」「いちおういるってことにしといてますわ」などなどと。苦笑や喜びや色々な感情が混じり合った会話。私の場合は、「サンタさんに何を頼むか、お店にいって探して決めてみよう」と、去年も今年もオモチャ屋で2〜3時間かけてどれを頼むのかを子に決めさせた。オモチャの写真を撮って「サンタさんに送っておくわ」と伝えた。去年はそこで会話は終わっていたが、今年は「写真をメールで送るの?」と訊かれた。その日に買って帰るわけではなく別日に入手して100均で買った袋とリボンでラッピングをしてクリスマスの朝にテーブルの上に置いておく。「良い子にしてないとサンタさんが来ないよ」と子に言ったことはない。言わないと決めているから。
子に対して別にサンタクロースの存在を信じさせたいわけではなく、世の中には説明のできぬ存在・想いがあって、ときにはそれの為す善き行いのかたちが世を見る理になり同時によすがになることもあると心の底のほうに横たわっていて欲しいだけだ。『ゲゲゲの鬼太郎』に触れたときの「妖怪」に似ている。
私自身は幼児の頃から妖怪の存在は信じていなかったように思う。怖い妖怪もいるし、絵が恐ろしくて開きたくない妖怪の本のページはあったけれど、それでも実在を信じてはいなかったように思う。心霊写真やら守護霊やら地縛霊やらは信じていた時期があったけれど、妖怪に初めて触れたのが『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメだったこともあるのか物語の中にいる存在だと認識していた。いまは逆だ。心霊写真や守護霊や地縛霊はタワゴトだと考えるが、妖怪「的なるもの」はあるだろうと感じている。説明のつかない怪異に名と姿と物語を与えたのが妖怪ならば、説明のつかない何某かに名と姿と物語を与えたのがサンタクロースだろうと。
コロナ前だからあれは2019年の9月とかだったと記憶している。ベビーカーに子を乗せて須磨の海、須磨海浜公園に行っていて細かい経緯は忘れたが友人と落ち合おうということになって、で、向こうも子連れなので適当にやろうというかタイミングがあったらというようなユルめの感じで(私見だが──お互いに子連れで落ち合うタイミングのとき「子の気分次第なので」と、時刻や場所の厳密な設定が無理であることをはっきり明言するひとのほうが楽である)。
それで須磨の砂浜で合流して、そこから須磨海浜水族館まで移動しようということになって。で、ベビーカーの移動速度って意外と速くて、殊更ゆっくりを意識しないと未就学児が歩いてついてくるにはペースが上がり過ぎることがある。そして目的地まで少し距離があるかもしれないとも感じた。友人が連れて一緒に来ていたお子さんに、ふと「ベビーカーに乗ってみる?」と訊いた。とはいっても私のベビーカーは後ろに立つ用の台座はついてないので、「こうしてみたら二人乗りできるで、歩くより楽かもしれん、怖かったらしんどかったら降りたらいいわ」と、前方の足乗せ台に後ろ向きになって乗ってもらいベビーカーのフレームに手をつかせる。ベビーカーにかぶさるような姿勢(説明がしにくい)。二人乗りさせたベビーカーをゆっくりと押し始める。
子はいつもは空ばかり見えるところに歳上の子の顔が見えてそれが嬉しくて笑っているし、ベビーカーにかぶさっている相手も面白がっている雰囲気で(本人に気持ちを訊いたわけではないのであくまで私の主観)、慎重にベビーカーを押しながら私はなんだか楽しくなってしまった。あれからもう二年以上もたっているし、子はまだ三歳だったし、相手も当時四歳か五歳だったので、二人とも200メートル程度の遊びみたいなベビーカーでの移動をもう覚えていないかもしれないけれど私はその光景があんまり他の体験では替えが効かない感じがして、忘れられなくて。映画でも音楽でも文学でも自分にとって替えが効かない作品というのはあって、その替えの効かなさは普段の生活の中にもたまに紛れ込んでいる。それを「世の中には説明のできぬ存在・想いがあって、ときにはそれの為す善き行いのかたちが世を見る理になり同時によすがになる」と、この文章の途中で表現した。この文章は「サンタクロースは本当はいるんだ」ということを捻った理屈で主張したいわけではなくて、あの光景は二人の子供たちにとってではなく、私にとってのよすがになっているということ。