キャリー・ホワイト
2013年11月に書いた文章が出てきた。高畑勲『かぐや姫の物語』公開11/23を間近に控え、監督キンバリー・ピアースト/主演クロエ・グレース・モレッツによる『キャリー』(原作スティーヴン・キング)再映画化の公開が11/8だったので、ブライアン・デ・パルマ監督による76年公開版『キャリー』を見返していたときに書いた文章だ。
〈2013年11月 記〉
ブライアン・デ・パルマ『キャリー』を20年ぶりに観た。冒頭のバレーボール〜シャワー室から名作の風格が漂う。もう少しジャンルムービーらしさのある雰囲気だと記憶していた。
いじめっこクリス役のナンシー・アレンが例のシャワー室でのシーンについて「本当に彼女(キャリー・ホワイト/演シシー・スペイセク)を憎い気分になった」とDVD特典映像に収められた01年のインタビューで発言しているのは痺れた。なぜならシャワー室で女児たちがタンポンを投げつけている相手はキャリーではなくティーンが畏れる「性」だから。正確には、畏れているのを隠蔽していることに自覚的だから憎悪するのだ。
突発的に燃え上がった憎悪は、教師やクラスメイトのスー(エイミー・アーヴィング)にキャリーへの贖罪の思いを抱かせる。スーはボーイフレンドのトミーにキャリーをプロムへ誘うことを頼み込み、教師はキャリーを気にかける余りにクラスメイトたちへ罰を与える。いや、それは贖罪というより憐れみだったのかもしれない。
教師はキャリーに「あなたはかわいい」と言うが、人気者のトミーがキャリーをプロムに誘うはずはないだろうとも考えている。学校ではキャリーを苛めているクリスも、デート中には恋人のビリー(ジョン・トラボルタ)に「バカ呼ばわりするな」と頬を叩かれた直後ですらオーラルセックスで彼の気を惹こうとする。
トミーの車はプロムパーティーが行われる体育館に横付けする。助手席に座ったキャリーは「しばらく車内にいていい?」と不安を漏らす。「会場に入るのが怖いのかい?」とトミーは優しさをみせる。「みんないいやつさ」。キャリーは意を決して車から降りるためにドアを開けようとするが、あることに気がつき動きを止める。トミーが先に車から降りて助手席側に回り込んでいるのだ。彼女は生まれて初めて、車のドアを開けてもらいエスコートされるのだ。そのことに気づき微笑むキャリー。この映画でいちばん安らかなシークエンスだ。
プロムの会場でキャリーはバンドが演奏するための手作りでちゃちな舞台のセットをみて「きれい──」と漏らす。パーティーにもレストランにも行ったことのない彼女は心の底からそれを美しいと感じている。ボール紙に銀紙を貼った星とやぼったい緞帳を見て「──まるで星にきたみたい」という。彼女が美しいと感じた舞台の頭上には、ボール紙で出来た星を貼られたバケツが揺れている。この映画は、スーパーナチュラルなホラー映画にはまるで見えない。キャリー・ホワイトは超能力をもつ特殊な子ではなく、ただ幸せになりたかっただけだ。
周囲が善かれと思ってしたことが因果となりプロムに企みは実行され、髪の毛一本から小指の爪から心臓に至るまでティーンネイジャーという地獄のすべては呪われ破壊される結果を招く。可哀想なキャリー・ホワイト。
まいった。ほんとうにまいった。これをリメイクするのってすごい判断だ。だってこのまんまやるしかないではないか。ああ、やっぱり大破壊シーンを作り直したいか。デ・パルマ自身ですら「スプリットスクリーンは失敗だったと思っている。アクションが嘘っぽくなりエネルギーが伝わってこない」と言っていることだし。
デ・パルマ版『キャリー』見返して感じたのは(原作を再読しようと思ったが部屋から見つからなかった)、これはイジメの話でもなく、スクールカーストの話でもなく、超能力魔女っ子の話でもなく、イジメっこですら被害者で、敵があるとすれば「抑圧」で、抑圧を象徴するキャラとしてはキャリーの母親よりトラボルタ演じるビリーが的確だってことだった。そのビリーですら、この田舎町の、社会の、時代の、男性的であることの、目に見えない何かにがんじがらめにされているかのようだ。
キャリーが鏡の前でプロムに行く準備をしているシークエンスで、キャリーのドレスは薄いピンクなのに母親は「やっぱり赤ね」と言う。だからあの場面は異様なシーンになっている。DVD特典映像収録のインタビューで、母親役のパイパー・ローリーが証言していたのだが、実のところあれは衣装が変更されたのに脚本のセリフがそのまま残っていたものらしい。デ・パルマは「あっしまった忘れてたわ」とセリフを変えようとしたのだが、パイパー・ローリーは「絶対に、このままでいくべき」と意見した。すばらしい判断だ。なぜなら次にキャリーが母親の前に表れる時そのドレスは血塗れで赤なんだ。母親は「目の前のキャリーのことなんて見ていない」とも解釈できるし、スーパーナチュラルな予知と解釈できなくもない。混乱の中でスケジュールとバジェットに追われて皆が疲れている撮影現場にだけ舞い降りる特別な瞬間の寒気すら感じさせるエピソード。
デ・パルマ版『キャリー』編集のポール・ハーシュによれば、当初は幼児のキャリーが隣家に住んでいて日光浴をしている早熟そうな16〜17歳の少女の胸の膨らみを「それはなに?」と問いただして、あげく初めての念動力発現で石を降らすシークエンスがあったそうだ。
キャリー「dirtypillows(汚れた膨らみ)…」
ステラ(隣家の少女)「えっ?」
キャリー「ママがそれを汚れた膨らみと呼んでたわ」
ラストにスーが墓参りするカットはフィルムを逆回転させている。よくみると背景の車が後ろ向きに進んでる。夢っぽい幻想的な雰囲気を出すためのチョイス。ちなみにスーの母親は演じたエイミー・アーヴィングの実母プリシラ・ポインターが演じている。
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以下は2013年公開『キャリー』('13/監督キンバリー・ピアースト/主演クロエ・グレース・モレッツ)を観たあとの感想。
〈2013年11月 記〉
観た。酷い。「原点こそ至高!」などと言いたくないしリメイクでは良い部分を楽しみたいものだけれど、逆張りすらもできない。だってプロム会場に行くまでにキャリーが15回もPK(psychokinesis・念力)を使うんだよ(笑)。
PK使用個所。生まれた直後、シャワー室でタンポンを動かし&照明を割る、校長室でウォーターボトルにヒビを、車を覗き込む子どもを転ばせる、祈祷室の扉に亀裂、トイレの鏡を割る、授業中に窓の外の国旗を揺らす、部屋で本とベッドを浮かす、 包丁を落とす、部屋全体を揺らす、母親を空中に浮かす、ミシンを踏む、母親が頬を張るのを止めさせる、母親を祈祷室の中へ叩き込む、鍵を溶接する。以上、プロムまでに15カ所。映画館の席で指折り数えた。使い過ぎだろう。なんなんだ、PKでミシンを踏むって。便利か。エスパー魔美か。
なぜ15回もPKを使うのがダメかというと、キャリーは魔法少女が体育館を破壊する話「ではない」からだ。リメイク版ではずいぶん念入りに人を殺して復讐をするのだけれどこれも違う。キャリーはラストの大破壊で超能力を使ってるのではなく、それどころか人を殺すのですらなく、単に「世界と自分のすべてを呪っている」だけなのだから。豚の血を頭からかぶるのをカメラアングル変えて3回半繰り返したのはまるで「プロ野球 珍プレー好プレー」か「ドッキリカメラ」みたいだったが苦笑すらできなかった。
スティーヴン・キングの小説を再映画化ではなく、完全に76年のデ・パルマ監督作のリメイクだ。冒頭1分で「こりゃダメだ」と感じたのは、キャリーの母マーガレットがひとりで自宅出産をする場面から映画が始まるところだった。出生シーンから始まっては、まるでキャリーが特殊な子どもであるかのように見えてしまうじゃないか。そして次のシークエンスは学校。プールサイドが映る。デ・パルマ版は校庭でのバレーボールから始まるので、ここで「おお新しい」と期待すると、なんとプールの中でバレーボールを始めるのだった。中途半端なオマージュはいらない。
キャリーが鏡の前でプロムに行く準備をするシークエンス。母親がキャリーの薄いピンクのドレスを見て「やっぱり赤ね」と言う台詞はデ・パルマ版をそのままなぞるが、もちろん撮影現場でのミスに後から意味が降ってきた特別さはそこにはない。さらに母親がキャリーのドレスの胸元を指して言う'dirty pillows'を字幕で「谷間」と訳すのはよくない。母親が乳房を「汚れた膨らみ」と呼ぶ事に意味があるのだから。
いじめっこクリス(演じるポーシャ・ダブルデイが素晴らしい)が、プロム前日夜に会場へ忍び込む。これから豚の血を仕込む直前に(教師からの罰として)自分が出られないプロムの会場に心を奪われるシーン。あそこはすごく良かった。ちょっと感動してしまった。デ・パルマ版キャリーが会場を見て「きれい──」とため息を漏らすのと鏡写しのシーンだ。
キャリーの母親がスーの母親に「高校のプロムが懐かしいわね〜」なんて話をされて屈辱を味わい血の涙を流すという新要素もある。つまり本作はティーンの頃からずっと同じ地元にいる人たちの話でもあるのだ。いじめっこクリスが、事件直後に恋人と「知らない街に逃げて暮らそう」と言われて目を輝かすシーンなんてのもある。盗んだバイクで走り出すんだ、ミッドナイトの列車はノーリターンなんだ。そういう側面にフォーカスを定めてもっと強調してくれれば新たな傑作が生まれたかもしれない。いじめ動画をYouTubeにアップなどというネット世代な描写や、ヴァンパイア・ウィークエンドやパッション・ピットの曲を使う前に必要なことはあったのではなかろうか。
いろいろと文句を書いたけれど、ラスト近くにスーがキャリーに向かって言ったあるひとことでぜんぶ許せた気もする。いや、ほんとに。ただ問題なのはこのセリフがデ・パルマ版を観ていないとそれほど心を動かされもしないセリフであることなのだが……。
リメイク版では『キャリー』という物語が、母親からの抑圧への反発といじめられっこへの復讐譚であると、はっきり整理されていたのがツラかった。前述したように、私にとってのこの物語は、登場人物すべてが被抑圧者で、その中で弱い者がさらに弱い者を叩き、叩かれた者がみなの代わりに世界を呪い焼き尽くす話なのだから。そして高畑勲『かぐや姫の物語』は世界を焼くでなく自分を消した物語だった。