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ディープなどと

過去には迂闊にも書いたことがあるはずだが、他人はどうあれ私自身は、ひとが住むまちや居る場所や暮らす家を昭和だとかレトロだとかディープなどと評してシャッターを切ることは、もうないだろう。深海探査艇の耐圧殻に守られているわけでもないし、そこに泳ぐのは深海魚ではない。私が私のすむまちをディープと称するのは勝手にやらせてもらうことがあるにしても。

あと、これは他人がやってる分には気にならないし楽しく見るときもあるけれど、私は、ひとが人生をかけて一念発起して開業したかもしれない「店名」を茶化して写真に撮ることはできなくなってしまった。私の中に『宝島』誌「VOW」からの影響が確かにあるし、過去にそういう写真を撮って揶揄うようにしたこともあった。重ねていうとそういう写真を撮るひとを非難しているわけではなく、私は、ということ。この一年、商店街でシャッターが降りたままになり、そのうちに「テナント募集」と不動産屋の札が下がった場所をいくつも目にするようになってその傾向は更に強まった。

他人からしたらどう感じるかは別にして、私自身としてはまちや建物や店構えを撮るときには、色の配置・情報量の密度などなど……美しさを撮っている心づもりで、錆びた鉄や経年劣化したままの壁や日に焼け色褪せた看板を美しいと感じることはあっても、そこに昭和だとかレトロだとかディープだとかいう言葉を添える必要は感じない。

東日本大震災は天災だがそれによって起きた原発の電源喪失は人災だろう。邪馬台国の時代じゃあるまいし疫病自体はもはや天災ではないわけだ。これはCOVID‑19が生物兵器だとかの与太話ではなく、感染症対策の不備や経済政策の失敗は失政・人災だろうと……ふと考えて「人類がコロナに打ち勝った証に」だとか「聖火」だとか……いや、ひょっとして、現・政権与党なり一部地方自治体の首長は、もしかしていまだこのコロナ禍が天災だとでも思ってるんじゃないだろうか。これは安全圏からの物言いで大変に恥ずべきことだが、この一年で店の閉店を余儀なくされた(失政によって潰された)ひとは腐った卵くらいは投げつける権利があると思う。

先日子供を後ろに乗せたまま、誰もいない場所へ行きたくなって自転車を走らせ続けた。密を避けるとかではなく、ただひたすらにひとに会いたくなかった。子以外と会話をしたくなかった。気をつかうのもつかわれるのも疲れていた。地図は見なかった。いつのまにかこんな場所に出た。美しい。


この光景を美しいと感じてシャッターを切る行為と、ひとが住むまちや居る場所や暮らす家を昭和だとかレトロだとかディープなどと評すること、店名を茶化して写真に撮ること、そこに違いはあるかと問われたら——別にないよ、そんなもの。と答えるだろうし、撮ってる人間が違うんだからまるで違うよ。とも答えるだろう。

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