アーンじゃなくて/考えたことその1〜3
〈2022年9月28日(水)〉
歯磨きのとき、たまに「今日は疲れてしまったからトットにやって欲しい」と子は自己申告する。
洗面所の照明をつける→まず歯磨き用のコップをいちど洗う(手洗い石鹸の泡が飛び散って入っているかもしれないので)→コップに水を注ぎ口の中を濯ぐ→濡らした歯ブラシに歯磨き粉をつける→上の歯を磨く→口内に溜まった唾を吐く→下の歯を磨く→口内に溜まった唾を吐く→開けていた口を閉じて頬袋の内側の歯を磨く→口内に溜まった唾を吐く→歯ブラシを縦と横と回転させて前歯を磨く→蛇口の水を出し歯ブラシをいったん洗う→蛇口の水を止める→歯ブラシ置きに歯ブラシを立てる→コップの水で口を濯ぐ→再び歯ブラシを手に取りフッ素ジェルをつけて軽く歯をブラッシングする→歯ブラシを洗って歯ブラシ置きに立てかけコップを濯いで所定の位置に置く→洗面所の照明を消す──までの一連を少しずつ自分だけで出来るように練習してきた。
それで練習のかいがあって一連をすべて自分でできるようにはなっているのだけれど、冒頭に書いたようにたまに「やって欲しい」と言う。それを言うタイミングは、ちょうどしっかり汚れが落ちているか確認しなきゃな、フロスもやらなあかんと私が感じているタイミングと合致する。なので自己申告したときは、私が磨く。
洗面所の前に置いた台の上に立つ子に「じゃあアーンして」と伝えると、子は「トット、もう赤ちゃん言葉は使わんでいいで」と私の顔を見上げて「アーンじゃなくて、『口を開けて』といえばわかるんやから」と言った。私はシパシパと瞬きしたあとに「わかった」と言う。そして上の歯と下の歯を磨き終えたあと「イーッてして、というのは赤ちゃん言葉じゃなく大人も使う言葉やな、イーッてして」と私は言う。こないだ子が指で触りながら「ほらグラグラしてる」と見せた下の前歯の一本。次の日に念のため歯医者へ行ってレントゲンを撮って、大人の歯──ちゃうわな、赤ちゃん言葉ではなくきちんと書くとまだ埋まっている永久歯の位置を確認して「いまは抜かなくていいですよ、先走って無理に抜くと左右の歯が寄ってきてかえって歯並びが悪くなります」と言われた一本のすぐ隣の歯もグラグラしてきたことに気がつく。
〈別の日にひとり考えたこと その1〉
未就学児と話していて「危険だな」と思うことのひとつは「いうことをきかない」と自分が感じる場面だ。三〜六歳くらいの子は語彙が急速に増え「会話はできる」ように見える。しかし実は「論理的思考はまだできない」状態にある。つまり「いうことをきかない」と状況を錯誤しているのは保護者のほうではないのか(仮説1)。はっきり書くと未就学児相手に「舐められている」と感じたならそれは認知が歪んでいるか、大人のほうが状況を把握できていないのではないか。児童虐待の報道で「舐められていると感じた(から折檻・体罰をした)、しつけだ」という加害者の証言を目にしたことは何度かある。
付け加えると「この公園から車道に出てはいけない」と伝える際に、
(A)「コラァ!ええかげんにせえよ?オマエ!コラァ!」と大声で語気を荒げる
(B)「それはやっちゃいけない、なぜなら~」と普通の調子で言いきかせる
A、B、二つにおいて経験則ではいまのところ結果に有意差を見出したことはない──実のところ未就学児相手にはBのほうが有効な局面のほうが多いと「個人的には」感じている。Aが通用し結果を伴うのは十歳~四十歳程度までなのではないか(仮説2)。
自分の場合は、四十過ぎると大声で怒鳴られるとむしろ頭の芯が冷たくなって瞬時に冷静になるようになった。「相手は頭に血が昇ってるから、相手がドン引きするほどこっちもキレ散らかしたほうが相手はキレてるのは自分だったはずなのに……?とビックリして話し合いになるわな、そんなんキレたもん勝ちコンテストやんけ、退屈やわ」などと思うようになる。
仮説1、2、共に「いっつも見かけるたびに保護者から怒鳴られてる子がおるんやけれど、いうこときかんから怒鳴られているのではなく、怒鳴られるから、何を求められているのかわからぬ状態なのではなかろうか。私がその子と話すときは別に利かん坊とは感じないんやけど」という場面が過去にあり、そのときの疑問から生じたもので、児童心理学的な裏づけはない。
〈また別の日にひとり考えたこと その2〉
公園で怒鳴り声が聴こえて「(ずいぶんと子へのあたりが強いな)」と振り返ると、その保護者は二人や三人の未就学児や小学校低学年児をひとりで見ている大変な状況で。そこから私が得たのは「他の保護者はこれくらい強く叱っているから自分もやっていい」などと判断することはまるで意味がないということだった。
以前、マクドで液晶モニタに映る番号を眺めながら出来上がりを待っているとき、横にいた幼児が受け取りカウンターに歩き出したのを「(番号が)違うやろ」とその子のケツを脚で蹴った保護者を目にした。私はいったい何が起こったのかわからなかった。
ガツンと蹴飛ばしたわけではなく「ツン」と軽く当てた。それでも意味がわからなかった。子を叱るとき、話すとき、「もし目の前の子が、親戚から預かっている子でも同じことをするか」が基本ラインとしてある。「自身の子だから(こういうやりかたをしてもいい)」と自らへの甘えがないか?ということだ。
児童を怒鳴ったり手をあげたりする自身の行為を「これくらい普通」とするときの、「普通」の基準などない。状況も状態も違うのに同じ土俵では語れない。6時間とか12時間ワンオペのあとの保護者の苛つきと、30分面倒みてたあとの保護者の苛つきの基準が同じわけがない。公園で遊ばせる1時間と、部屋でYouTubeを見せる1時間が同じわけがない。
保護者に「しょうがないやつだなあ(笑)」と軽く小突かれてる子が、保育園や幼稚園では他の子を叩いたり突き飛ばしたりする子だという例をいくつか見た。未就学児は保護者にやられたことは「やっていいこと」だと判断するとしか捉えようがない例を。四〜五歳くらいの、特に女児が、一〜二歳くらいの自分より小さな幼児を抱っこしようと懸命に抱える微笑ましい場面は見たことがあるだろう。保護者に小突かれてる子が他の子を叩くのは、その変奏曲だ。
〈さらに別の日にひとり考えたこと その3〉
公園の地面に絵を描く幼児がいる。それを脚で片っ端から消してゆく幼児もいる。経験則と観測範囲でいうと2〜3歳の子は脚で地面の絵を消すのがとても好きだ。それを止める気はないし私自身も過去に子と一緒に公園で遊んでいたときに子がやっているのを目にしたし楽しそうに脚で絵を消してゆく幼児の姿は好ましく感じる。しかし自分が描いた絵を消されて泣く子もいる。泣いているのは、いま私が監督保護している子だ。
自身が監護する児童が他の子の絵を消すのを止める保護者もいれば、それを気にしない保護者もいる。児童が地面に描いた絵の上をまったく気にせず自転車で走る大人もいるし、踏んじゃあかんと絵を避けて自転車を走らせる大人もいる。そういう光景を見て、どんな場でも壊す側にまわるひとと創る側にまわるひとがいるんやなと私は感じている。