2016年に映画『この世界の片隅に』公開直後に観て書いた感想
2016年に映画『この世界の片隅に』公開直後に観て書いた感想をそのままnoteに転記します。公開日ではなく先行上映で観てるので、他の人の感想や批評なんかはほとんど意識してないはずです。本作は「戦時下でも懸命に生きている姿を丹念に描く」という話ではないと思うので「そこには欺瞞がある」とは私は感じません。(他のひとがどう受け取るかはさておき)私は怒りの映画だと思います。もっというと『火垂るの墓』よりも〈反戦映画〉だと思います。いうなれば『ホーホケキョ となりの山田くん』を戦時体制という舞台でやって、その状況の異常さやストレスを浮き彫りにするかのような。『翼賛一家大和さん』とは違う。でも、もしいま書くとしたら「生活」や「暮らし」という言葉は違う書き方にはなるでしょう。
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まったく尋常ではない作品です。そこには《感動》も《泣ける》もあるけれど、むしろ見ること聴くことの《快楽》が2時間続くローラーコースターです。映画自体にはまったく難解なところはないけれど、観終わって自分が受けた感銘を書こうとするとこれが途端に難しい。万人にお勧めできる裾野の広さと懐の深さがある——いわば大きな作品であり、でも同時にどうしてこの形で成立できているのかが不思議なほど先鋭的で異様な作品でもあります。その異様について少し書きます。うまく言葉にできるとよいのだけれど。
『この世界の片隅に』(以下、本作)が物語や場面として主に描いたのは、普通の暮らしや市井の人の日常ですが、観客の映像体験としては《普通》ではありません。そこにあるのは特異・非日常です。膨大な資料収集と取材の積み重ねによってしかなし得ないであろう舞台の実在感、細部まで完璧に目配せされたキャラクターの演技、画面に映るあらゆるオブジェクトと音楽と効果音を総動員して目指される精密な演出、この映画を観るということは、それら異常なまでの情報量が常軌を逸して奔流のごとく溢れるクレイジーな映像体験です。
例えば、アバンタイトルで金属の手摺りに寄りかかる主人公からカメラがティルトアップすると鳥が二羽電線にいて→その二羽の鳥が空を飛び→タイトルバックにタンポポの綿毛が2つ飛んできてそこへ1つ加わる……といった画による暗示や類推。はたまた戦況悪化前に着ていた美しい洋服をタンスから取り出して眺めている場面では家の外を飛ぶ軍用機の音が聞こえている……といった映像的な演出。それら《意図》はいたるところにあります(本当にあらゆるところにある)。
私は常々「優れたマンガや小説というものは、その多くがマンガや小説というメディアの利点を最大限に生かしていて、だからこそ秀でている、よって映像化する際には映像メディアの利点を生かすために原作から《変更》しないと優れた映像作品にはならないのではないか?」と考えています。しかし、むしろ本作は物語も人物もセリフも原作からさほど変えられた印象はなく、原作のマンガがそのまま動き出し映画になっているかのようです(きっとそういう評価も多いはずです)。でも実のところ本作には、画と音と時間のあるメディアの利点を生かしたクリエイションが山のようにあります(本当に、あらゆる、あらゆるところにある)。そのクリエイション=映像的な演出は、原作マンガを読んだときにはあまり意識しなかった、もしくは気がつかなかった、様々な暗示や類推を明示します。画と音と時間と物語が重なり合うことによって、1000の言葉を1秒で見せる、ひとつの短いセリフが10000ワードに等しい、それは物語映画の醍醐味です。原作はマンガでしか到達できない域の作品だったし、本作は映像でなければ到達できない域の作品です。
原作も片渕監督の過去作品も好きだったこともあり、先行上映のチケットを発券した時点で早くも「あの場面やあのセリフ……いつでも泣く準備はできている……」とばかりにジーンと目が潤んでいたのですが、物語の節目やクライマックスでの悲しさや美しさが溢れ出す箇所ではなく、中盤のごく普通の日常的な暮らしの光景を描いた場面でいきなり自分が泣き始めてビックリしてしまいました。あらかじめ「泣いてしまうだろうな」と先入観があった作品を観て自分が泣き始めたことにビックリするとはまったく奇妙ですが、実際そうだったのです。
アニメを見て「すごい演技だなあ!」と思うときは、声を演じた方の巧みさ、もしくはアニメートの巧みさを指してすげえ!と感じています。でも本作は、観ていてごく自然に「動き」「声」を含めたまるごと全てを「この人の演技すげえ!!」と感じていました。それほどにキャラクターがあの世界の中で生きて・暮らしている。なんというか、「生きることは暮らすことだなあ」とつくづく思い至ったのです(絵で描かれた人物を観て!ですよ!)。画面の中で年月が経ちそこには暮らしがあったのです。そう感じたときに涙が頬を伝っていました。泣ける映画かって……? 私は《泣いてる場合じゃない》とは思えました。涙を拭いてスクリーンを凝視しなくては。そこに何が映っているかを、画面の中で生きている人の暮らしをこの目に焼き付けなくては、と。
本作の予告や宣伝を目にした方は、戦時モノのアニメ映画ということで、例えば高畑勲監督作『火垂るの墓』を連想するかもしれません。でも高畑作品ならば、圧倒的な技術で描かれたアニメーションのキャラクターが醸し出す生の息吹、人の営みへの賛歌、『ホーホケキョ となりの山田くん』のほうが雰囲気は近かったりします(むしろ映画としては『火垂るの墓』にはぜんぜん似ていません)。更にはそこに加え『かぐや姫の物語』での疾走と飛翔のエモーションも同居するという凄まじさです。
いまエモーションと書きました。しかし本作には「もう少し余韻があればもっと泣けるかも……」なところでバッサリと暗転し、次の場面に移る箇所がいくつもあり(その非・エモさは完全に意図的なのです)、場面転換の独特なリズムは、続いてゆく日常/積み重なる喜怒哀楽の表現へと化すのです。そのリズムはまるで、どんなことがあっても日は暮れ腹は減り眠りにつき日は昇る日々の普通の暮らしかのよう。余韻は、映画の中ではなく映画が終わってから観た人の心の中に響いてゆくかのよう。
もう少しエモく・エグくやればもっと泣けるであろう場面を、完全に意図して・慎重に抑制して・感情曲線が映画の終わりとともに途切れるのでなくフィルムの外に映画の完成をもってゆく、観た人の心の中で完成するような繊細極まりない味付けをする……そんな映画って恐ろしいですよね。私は恐ろしい。難解なところがなく多くの層に開かれた大きな作品だけれど、同時に異様とするのはこの恐ろしさです。
先行上映の舞台挨拶で片渕監督が「自分たちには絵と音をつくることしかできなくて、映画は観た人の心の中にある何かと出会ったときに完成する」という意味のことをおっしゃっていました。そう、《この描写がよかった》や《あの演出が巧みだった》や《精緻な舞台づくりが凄かった》だけではなく、《あのマンガが本当に映画になっている》だけでなく、この作品がはたして自分の心の中にある何と出会ったのか。その《何か》を考えなければ言葉にできないと思えたのでした。そこが冒頭に書いた〈自分が受けた感銘を書こうとするとこれが途端に難しい〉点です。
先日、原作者こうの史代さんの新作ショートエッセイ『呉紀行』を読みたくて「漫画アクション No.22 2016年11/15」を入手しました。漫画アクションは『この世界の片隅に』連載時の掲載誌であり、この号には「波のうさぎ」回が再掲されています。「波のうさぎ」は単行本でいうとプロローグ3話+45話の収録順で3番目のエピソードです、単行本で何度も読んだはずなのに、雑誌サイズで読むと予想していた以上に胸を打つ。それどころか、「あーっ!鉛筆をなくしてまた手に入れた話って、そ、そ、そ、それってよく考えたらさあ!!!!ちょっとした学校の思い出的なほんわかエピソードではない!鉛筆をなくしてまた手に入れた話だけど鉛筆をなくしてまた手に入れた話じゃないよ!」と作品に込められた意図を再認識することと相成ったのでした。うわぁ。
【ATTENTION! 以下、物語の終盤について部分的に触れています ご注意を! 原作既読の方はそのままお進みくださいませ】
もう少しだけ説明すると、私にとってのマンガ『この世界の片隅に』は、主人公「すず」がフィクションを創る力(=絵を、物語を描くこと)をいちど失って、そして喪ったフィクションを取り戻して救済される・もしくは自らの世界を救う話でした。だから「鉛筆をなくしてまた手に入れる」というエピソードが序盤にすでにあったのを再認識してひっくり返ったということです。
主人公がある出来事によって喪失するのは、フィクションを創る力です。そして物語の終盤で彼女を救うのもまたフィクションの力です。冒頭の謎めいた人さらいの怪物、海苔で夜になる望遠鏡、挿入される座敷童子のエピソード、なくした鉛筆、波のうさぎ、仕立て直した着物の端切れから生まれる巾着袋、「さよなら」と帳面に描いた廣島の風景、防空壕に再利用された柱に残っていた傷、地面に描かれたスイカとキャラメル、羽ペン、教科書の落書き、左手で描いたかのような歪んだ世界、舞い降り飛び立つ鷺、優しく頭を撫でる右手、鬼イチャン冒険記、しあはせの手紙、これらは全て繋がっています。この作品も『シン・ゴジラ』と同様に現実と虚構の物語であった、虚構の持つパワーの物語であった、物語が回復させる現実の話であった、現実が物語の居場所を見つける話であったと。
「映画は観た人の心の中にある何かと出会ったときに完成する」。映画『この世界の片隅に』は私の心の中で何に出会ったのか。
映画化された本作が凄いのは、物語映画としてあからさまな寓話としてはつくっていない(むしろその逆ですよね)のにも関わらず、観た人の心の中で寓話と化すところなんです。
本作はまったく寓話的な構造をしてはいない。プロローグで昭和8年から13年、そして昭和18年から21年のあいだに主人公の生活で起こった出来事を描く、そのために丹念に世界を作り繊細に場面を描く、主題や寓意が垣間見えたとしてもそこにあるのは世界と場面の積み重ねでしかない。あまりに徹底していて狂気じみたそのストイックさからは、観客(の心の中での化学反応)を信じているけれど、観客(の解釈)に寄りかかってはいない硬派でハーコーな姿勢を感じます。
主人公の《絵を描く》という行為は、ある人の心の中では「アニメ」や「自由」かもしれないし、別の人の心の中では「物語る行為」や「本作がここに存在すること」かもしれない。それは「歌」「文章」「ラップ」「料理」「ダンス 」……そして「演技」かもしれません。作品が寓話としてつくられていないがゆえに、作品は観た人の数だけさまざまに変化をしてゆきます。
その物語の主人公を演じるのが、現実世界のショウビズでフィクションを創る力=演ずる場所を奪われたことのある、のん(a.k.a能年玲奈)さんというのは、必然としか言いようがない。のんさん凄すぎでしょう。あの奇跡のような「あまちゃん紅白」に続いて、これで2度も(かんぽ生命CM「人生は、夢だらけ」を入れたら3度も)、のんさんは現実と虚構のあいだに横たわるザワザワした部分を飛び越えてしまいました。
そう、いまの私の心の中を占めるのは、現実と虚構のあいだに横たわるザワザワしたそれの行方。それに如何ほど振り回され、導かれ、苦しめられ、失い、手にし、救われるのか。映画『この世界の片隅に』が私の心の中で出会った《何か》とはそういったものでした。