その日、鈴木茂『BAND WAGON』と、はっぴいえんど『風街ろまん』を初めて聴いた

 岸野雄一氏のこのツイートで思い出したこと。 

 あと五年十年たったらディテールが曖昧になるかも知れないので自分のために書き留めておくが、記憶というのは不思議なもので、時間が経つと脳の何処からか明瞭なディテールが呼び出されて急に蘇ったりもする。

 その日、さっき会ったばかりの、名前すらうろ覚えのひとの家に行きリラックスしたいくつかの経験で真っ先に思い出す出来事──

──二十代前半に派遣のバイトをしていた時期。毎日別の駅で集合してその度に集まる面子はバラバラで、仕事内容も仕事のキツさも違う。そんな日々。様々なひとがいた。自分も親も健康保険証を持っておらず歯の治療に25万円かかるので金が必要だと言っていたひと。週末は代々木公園で楽器を習っているのでシフトを入れられないと言っていたひと(どこかの街中で偶然会って、そのときは背中にジャンベを背負っていた)、政治活動をしているので所属組織に納める金が必要だと言っていたひと、演劇をやっていて公演のたびにフライヤー代などで貯金がすべてなくなると言っていたひと、ひと、ひと、ひと。

 私は高校を卒業したあとにそれまでやっていたアルバイトを辞めて、割りの良い深夜の工場で七八ヶ月ほど働いて少しばかりの金を貯めて実家を出た。そのときの深夜バイトは農閑期に来ているひとや大学生がほとんどで、私がどこかで期待していたバンドマンや俳優を目指しているひとなど「なにかの卵」はひとりもいなかった。私以外の全員がもう「何者」かになっていた。それもあってか、東京に出てからの派遣のバイトで出会うひとたちと休憩時間や帰り道にする話──それは「夢」というより境遇という言葉のほうが正確なように思う──はバリエーションに富んでいて、いまは何者でもないが、いつかは何者かになることを目指しているひとも少なくなくて、話を訊くのが楽しかった。いまいるこの現場仕事以外の時間に何をやっているのかを話したがらないひともいて(後ろ暗かったり後ろめたかったりというよりは、こんな場所で気軽に話してしまうと、やっていることが「擦り減る」という感覚だったのではないか)、それも都会っぽいと感じて新鮮だった。

 どんなきっかけだったのかは忘れてしまったが、その日は倉庫整理の仕事が先方の都合により午前中で終わり(なんと日給は全額でた)、十人ほどいる中で最寄駅までのバス賃がもったいないからと歩き出したのは二人だけで、その二人、彼と私はなんとなくいい雰囲気になって、互いに自分が飲む分の缶ビールを何本か途中で買って(なにせ日給は全額でたのだ)彼の家に行ったのだ。東京都内の、どこか私鉄沿線沿いのまちのアパート。たしか二歳上のひとだった。帰り道は当時私が居候していた新中野の友人の家まで電車で帰ったはずだが、暑い日で陽射しが強くて白い団地のあいだをフラつきながら帰った記憶しかなくて、地名や駅名を思い出せない。

 玄関で靴を脱ぎながら「◯さん」と声をかけたときに、「俺のことは◇◇でいいよ、連れはそう呼ぶから、むしろそっちがいいわ」と言われた。それはワタナベをナベと呼んだりヤマモトをヤマちゃんと呼んだりするのとは違って、午前中に名札についていた名前とはまったく関係のない文字で、部屋に入れてくれたということと、気の置けない呼び方が同時にやってきたと感じて嬉しかった。彼の家にはDJ用のターンテーブルではないレコードプレイヤーがあって、ペイズリー柄の布が部屋の仕切り替わりに吊るしてあって、蚊取り線香の豚がいて、ビール瓶に砂が詰めてあって、道路工事のカラーコーンがあって、天井からはモビールがぶら下がり、本来の用途ではない使い方をされた──わかりやすくいうとコンクリートブロックをスピーカーの下に置いたりといった──箇所がいくつかあって、私はそのことを格好良いなと思ったのを強く覚えている。私はガラス製のレモンスクイーザーを灰皿代わりに使っていた時期があるのだが、いまにして思えば彼の部屋からの影響だったのかもしれない。部屋の一角に赤いストラトキャスターと赤いセミアコがきちんとギタースタンドに立て掛けてあって、その一角だけは道具が本来の用途どおりに使われているように感じた私は、乱暴でもいい部分は乱暴でいいし、大事な部分は大事にするのはいいな、と思う。最初の缶ビールのタブを開けたあと、すぐにレコードをかける。A面最初の「砂の女」が流れ、私は「これカッコいいすね、誰すか」と言う。彼は意外そうな顔をして「知らんの?」と言う。「初めて聴きました」「鈴木茂っていう凄いギタリスト。はっぴいえんどは知ってる?」「名前は知ってる」。

 私はその日、鈴木茂『BAND WAGON』と、はっぴいえんど『風街ろまん』を初めて聴いた。1995年あたりの出来事だ。彼の家にはウオッカやバーボンの瓶が並んでいて、ズブロッカを初めて飲んだのもその日だった。彼のアパートの部屋は一階にあり奥に小さな庭がついていてそこには原付のタイヤが置かれており他にも何に使うのかよくわからないモノが積んであって開けたサッシから陽が射し込んできてツマミもないのに缶ビールはあっという間に空いてしまい「アブサンも試して欲しいけど、いま切らしててな、ゴールデン街とかいってみたらええわ」と彼は言う。音楽が流れている。いまこれを書いていて、彼が関西弁のイントネーションだったことを急に思い出した。いま私が覚束なく話している関西弁と記憶の中の彼の言葉や声が急に結びついた。記憶は不思議で時間が経つと忘れてゆくだけでなく逆に明瞭なディテールが急に蘇ったりもする。彼は何処のまちからあのまちへやってきたのだろう。あの日、私はまちの名前を訊いただろうか。彼は生まれ育ったまちのことを話したがったろうか、話したがらなかっただろうか。音楽が流れている。

 レコードを聴かせてもらっただけでなく、私の好きな音楽の話もして、いくつか名前をあげたミュージシャンやバンドには彼の知っているものも知らないものもあった。いまならスマフォでその場で聴かせることもできるだろうけれど、当時はCDやMDプレーヤーなど音源と再生機器を持ち歩いてでもなければどうにもできない。他人を家に呼ぶというのは自分のライブラリにアクセスしてもらうことでもあった。四半世紀も前の出来事だと、開けた缶ビールのタブがまだ取れるやつだったか、もう取れずに残るやつになっていたか、調べてみないと思い出せない。取ったタブを缶の中に入れた最後の記憶はどんなだったろう。吸ったタバコの吸い殻をそこらの地面に投げ捨てた最後の日はいつだったろう。彼からレコードや本は借りなかった。「こんど来たらなんか貸してやるわ」と彼は言った。とはいえ私はレコードプレイヤーを持っておらず、彼の音楽ライブラリはアナログ盤がほとんどだったので── CDよりレコードのほうが安いからな、と彼は言った。そういう時代だった──実際には借りたところで聴けなかっただろう。その日に会ったばかりの相手を家に入れて酒を飲むほどには気が合ったが、物の貸し借りをするまでには至らなかったということだ。別の場所に集まり、そのたびに集まる面子はバラバラで、あえて名乗らなければお互いの名前を知らなくともそのまま別れられる中での最大限の距離の縮めかただった。

 あの日に私が持っていた折り畳み式ですらなかった携帯電話には彼の電話番号を入力したはずだが、彼とはその後に派遣の現場で一緒になることはなかった。いちど彼から連絡があったが予定が合わなくて──それっきりになった。これまでに使ってきてスマフォに至るまでの何台もの古い携帯電話は付属充電器もないしバッテリーもダメになってても確固たる理由もなく携帯電話本体だけはなんとはなしにとっておいたが、数年前に部屋の片付けをした際にぜんぶ捨ててしまった。そのうちの一番古い機種には、せっかく教えてくれた呼び名すら忘れてしまった彼の電話番号が入ったままだったなと、いまこの文章を書いていて想った。

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