見出し画像

ツッコミ、が多すぎる。−嗚呼、そこを責めないで−

いつの頃からだろうか、とにかくツッコミの多い世の中になった。この世相を少し面倒だと感じたりする。なにしろツッコミというのは、頭脳戦であるだけでなく、スピードと精度が求められる業であるから、これにかかるエネルギーというのは相当なものだ。これに晒され、これを求められ続ける世の中というのはなかなか面倒ではないだろうか。

とにかく、なんでもかんでも、粗を見つけては我先にとツッコむ。一番槍大好物、という次第だ。人間なんてエラーの生き物だから、ツッコミどころなら事欠かない。

たとえば、こちらはボケてもいないのに、思っていたことと違う答えを返すとボケだと思って間髪入れずツッコんでくる。先日、ある人に卒業式の写真を送ったら、お祝いの言葉より先に「上履きが汚いね」とスタンプ付きで返事がきた、という話を聞いた。なるほど、そういう貧しい人もいるのかと驚いたのだが、聞けばこの人はいつもそうなのだという。自分ではうまく笑いが取れたと思っているのだろうが、対面でない、文字だけのやりとりだけにその自己満足が一層寒い。世にいうイタイ、というのはこういうことなのだろう。

門外漢がこのようなことを説明するのもおこがましいのは承知であるが、ツッコミやボケというのは、プロの芸人たちが技芸として磨き上げてきたテクニックなのだ。そこに芸としての極みがあるから笑えるのであり、美しくさえある。何より、安心して観ていられるのだ。
間もなければ技倆もなく、ただ何を見ても悪いところや至らぬ点ばかりを探してツッコんでみせる様には、「拗ね」しか感じられない。それこそ、コミュニケーションの大きな上滑り、みっともないスベリ芸擬きである。

そもそも「意図せざるズレ」というものは、ツッコまれることに耐性がない。そこは、差異の領域であり、正誤や善悪の埒外であるからだ。「意図せざるズレ」は想像力の土俵である。無防備な場所には、想像力を働かせて応じなければディスコミュニケーションに直結する。

あたかも、まだ誰も見つけていないツッコミどころを最初に見つける一番手柄を競うように、ツッコんでツッコんでツッコんでツッコんでツッコんで。そのツッコみが、もしかしたら誰かの人生に影響を与えている、その責任を背負えますか?(了)

Photo by johnhain,Pixabay


いいなと思ったら応援しよう!