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30年前、中国ひとり旅 其の一

皆さまのおかげ、連続投稿150日を達成することができました。ありがとうございます。それを記念して新しいマガジンを作りました。新しいマガジンは「ひとり旅」です。若いころにフラフラしたときの思い出をつづります。

一人旅、けして一人で行きたいわけではありません。ただ気がつくといつも一人になっています。

平成元年の2月、一人で中国を旅しました。場所は「中国福建省福州市福清県水南村南門外」たしか、こんな場所だったと思います。漢字から推測してください、かなり奥まったところです。

当初は仲の良い友人とアメリカに行くはずでした。母の妹(叔母)がアリゾナにいます。そこにホームスティをするはずでした。ところが叔母が入院をしてしまい急遽予定がキャンセルになってしまいました。

その頃、私は旅費を貯めることも目的で、中華のファミレスでバイトをしていました。そこで知り合った中国人の男性が「それなら家に来い」、と誘われて行ったのが中国でした。一緒にアメリカに行くはずだった友人は付いて来てくれませんでした。

まず、上海まで一人で行きました。そこで一泊し翌日に福建省に着きました。空港に中国の友人が迎えに来てくれました。そこから先、目の前に広がる景色は、昔の映画のセットの中にいるような感じでした。写真は約30年前の福清県の中心地の写真です。

彼の住む町に着くと大勢の人が私を歓迎してくれました。私が来たということでわざわざ、あいさつ(見物)に大勢が集まって来ました。日本人からすると、中国語はとてもきつく聞こえます。だから普通の会話でもケンカをしているように聞こえます。私はまったく中国語がわからないので私を囲んで老若男女がしゃべっていると怖くなってきました。あとから、そのときは私の歓迎会の打合せをしていてくれたことを知りました。

中国の友人の家ではまだ十分に電気が通っていませんでした。ガスもありません。ご飯は火をおこして調理をします。写真は友人のお母さんがご飯を作っているところです。それから約2週間、中国の友人は私のために時間を割きいろいろなところに連れて行ってくれました。私が衣装を着ているのもその一つです。

そのときに思いました。もし、彼が日本にもう一度来たとき、もしくは中国で知り合った友人が日本に遊びに来たとき、私はここまで歓迎できるだろうかと。絶対にできません。途中で、中国の友人に言いました。私のためにこんなにしてもらって申し訳ない。私は何も返せないと。すると中国の友人は言いました。「髙橋さんは私たちの所にきてくれたじゃないか。それだけで十分だ。

私がベッドに座っている写真があります。これは普段、中国の友人が使っているベッドだったということをあとで知りました。彼は私が滞在中、自分の部屋を私に貸して、自分は居間の床で寝ていました。

観光の途中で乗ったタクシーの運転手が、日本から来たことを知ると食事を一緒にしようと言い出し、運転手の家で食事をいただきました。出会った人は良い人ばかりでした。当時、優しくされすぎて不安になった自分が悲しくなったことを覚えています。


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