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どんなラララ(週記:2025/03/01)
いや、別に美味しくなかったですよカレーなら。雑でした。そんなラララ。
よく許してたなオイ。
月極駐車場で、自分の場所じゃなく隣に停めていたことが発覚。いや最近クルマを手放す人が増えたのか(免許返納かも)目印にしてた他所様のクルマも置かれなくなってガラガラだった上に表示も薄れてて、「隣に」停めていたのだった。一週間くらい? よく管理人黙ってたなあ。めっちゃ監視カメラあるし、管理人自身ウロウロしてるのになあ。ガラガラだから別に構わなかったのかな。しかし気づけよ自分。いつもと風景ちがっただろ。
東京でクルマは要らないと思うのだが(からのバイアスの話)。
東京住まいなのにクルマを買ったのは、コロナのせいだった。将来のある若者たちは自宅待機、未来のない(死んでもいい)おっさんたちのみ出勤。「スクーター買ってそれで通ってくれないか」と上から言われ「二段階右折とか意味分からないんで、それならクルマにします」と安い中古車を探し購入。しばらくそれで通勤していたのだが、コロナが多少落ち着くと――なんやかんやあって、電車通勤に戻った。維持費もかかるし手放せばいいのかもしれないと思いつつ、踏ん切りがつかない。なぜ愛しちゃうもんかね。と、それはともかく。
これはコロナにワクチンもなかった当時の話でやむを得なかったのだが、それでも「非常時に」子なし単身者の中高年で男性が「将来がある人や女性を待機させるため」休まず業務に出てた構図ってあったなと思って。やっぱりそういうことや、根深いジェンダーバイアスやヘイトなんかも社会にはあるので(いかちい男は懲らしめに体当たりしていいとかね。ゲイだっつの)ジェンダーバイアスの記事を貼っておきます。
相手方が女性の調停とか出頭すればめっちゃ実感できますよ。DV/性暴力被害者支援に携わっていたときに、おれ「被害者男性のための窓口や、性暴力に遭った当人だけでなく家族や伴侶への支援も必要」って発言して、めちゃくちゃ敵視されて執拗なイジメを受けたことあったんすよね(希死念慮まで行って飛び降りそうだったので8階の部屋から1階の部屋に越した)。昔の話ね。今は「女性からの暴力で死ぬ男性がいる」という事実が記事にできるだけマシな時代になったということですかね。
おれ「逆DV」「弱いものイジメ」って言葉が大嫌い。暴力は暴力だよ。
日光を浴びて石化する
ダーウィンでも来たのか、ボスがトンボの話を始める。おもむろに。
「トンボって雨後の水たまりにも産卵しますよね」
「ああ、チョンチョン産んでますねえ。くすくす。浅慮くすくす」
「卵がかえってもさ、……食べるものがないんだよね」
「うわあああ聞かなきゃよかった! 聞かなきゃよかったああああ!」
「共食うんだよねえ」
「ぎゃああああああああああ」
「サメにもいるよね。胎内でほかの子を――」
「なぜだよ! きょうだいは愛し合い、助け合うものだろ!」(←フリ)
「ご自分のきょうだい関係を考えてみよっか」(←フリを受けての返し)
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!」
ゲラゲラ。
おれはトラブルに備えて仕事関係には問題のある肉親については全部話してある。まあ、おかげでワンオペ介護とかに理解あって、ものすごく協力していただけました。なんでも話しておけると楽だよね、ネタにして笑えるし、問題のある肉親とかその周辺に殺されたときなんかの備えにもなるし。
そしてその報告を受けて爆笑する、我がパートナー。
「とうとうボスがそこまで降りてきてくれたんすよ!」
「そこまで両腕広げてカモンされりゃあねえ。せざるを得ないだろ」
愛って(よく分からないケド)傷つくカンジが素敵。
Rena さんが「Woman」聴き比べの記事をアップされてて、池田イライザ(だれ?)の歌唱が最高で、ピロ子ブーム到来。スーパーで「大葉の醤油びたし作ろ。お弁当に最高だし」とか考えながら歩きつつ、「メイン・テーマ」を歌ってた。何人かこっち見てた。かわいいって思ったんすね。テレるぜ。笑っちゃうテレるのの止め方も知らない。50年も生きて来たのにね!
マガジンに追加していただきました①
K P 6 1 様が運営されているマガジン「BREAK THE BORDER」に、記事「私が制作に【関わらなかった】本」を追加していただきました。ランディングしている書籍の企画から離脱した過去の経験を書いています。離脱の理由は自分の傲慢からです。性的少数者の顕在化や発信はしばしばカウンターカルチャーの役割が期待されますが、そうした文化的なアプローチとは別の生活に即して政治的な掘り下げこそが必要な現代に、「LGBT本」はいかに在れるか、在るべきか、非常に気負っていたのだと思います。体裁としてブックリスト(ガイド)であるその本はまさに対抗文化そのものの見せ方になる――性質上そうなるわけですからね。しかしそのイメージも超えたい――関わりのなかで自分がその本に何をできるのか悩み「できない」と投げ出した、苦い(苦い思いを周囲にさせた)思い出です。ただし私が離れた後に完成したその「にじ色の本棚」というタイトルの本は当時の私の焦燥をよそに、温かく良い本だったのです。いま思うことは、「文化的牽引者から市井の生活者へ」という転身は部分的に必要でも、同時に私たちは文化的成熟を望み格闘する者でいてよいということです。そうした貪欲さもまた忘れてはならない――書けば当たり前のことですが、文化的成熟は政治的前進と引き換えではないのですから。
マガジンに追加していただきました②
K P 6 1 様が運営されているマガジン「BREAK THE BORDER」に、記事「ハートをつなごう『ゲイ/レズビアン』」を追加していただきました。ありがとうございます。性別不合(性同一性障害)は医療化――それは病理化の一面ももっていたわけですが――という側面があり、福祉系からの流れで作られた番組には恐らく馴染みやすかった。法整備も進んでいた。他方同性愛はもともと病気や非行と見なされることからの脱却が90年代までの歴史では重要だったことがあって、脱・病理には成功したものの、世間は彼らに「どのように心を寄せたらいいのか」分からなかった。殺人も自殺もあったが、憎悪犯罪さえ然るべき重みをもって扱われていたとは言えない。社会は生活者としてのゲイ/レズビアンを知らずにいた。人々のなかで彼らは「自由意志で特別なライフスタイルを選択する成人」というイメージで見られていた。日本人の誰もが「ゲイがいたら判別できる(所作や言葉遣いで)」と考えていたし(たぶん社会は今も後遺症に悩まされている)、それだけの根拠で「自分の周囲にはいない」と感じていた。家庭内マイノリティであり教室でのマイノリティである子どもたちによるカミングアウトの物語は、それら先入観を打ち砕き時代をこじ開ける力をもっていたのだと思います。そうして福祉番組である「ハートをつなごう」から15年後、本好きな人たちのための「理想的本箱」で取り上げていただいたことでは、社会/時代におけるテーマの受け止められ方についてひとしきり考えさせられたといいますか、汽水域みたいなタイムラインで一冊の本が全く異なる視点から取り上げられたのは社会の変化がやはりあったのかもしれないと。「理想的本箱」のなかでも「同性を好きになった時に読む本」から「愛」という、より広義なところへの移行もあって、海に出た感じ。面白い旅をする本だな、と思っています。
マガジンに追加していただきました③
K P 6 1 様が運営されているマガジン「BREAK THE BORDER」に、記事「ゲイである大学非常勤講師のキモチ」を追加していただきました。「ペニスを失っても自分は男性としての自認を失うことができない」という気づきについて書いています。私はゲイというマイノリティではあるものの、身体的性別と自認性別が一致して揺るがないシスジェンダーでもあって「他の属性も併せて全体的にはマジョリティ自認」なのですが、やはりそこにはマイノリティとしての経験も色濃くあってのマジョリティなので、他者を押し出し切り刻む「ノーマル」という表現で自称したくなかったわけですね。「工場出荷状態」という意味でも「正常(↔異常)」という意味でも自分を「ノーマル」と呼べない、「ノーマル」を名乗る他者から悪気なく自動的に「異常」に区分され続けた経験が消えることはない、だから自分がマジョリティの立場であるとき、どうしても公正で中立的で平熱な表現を必要とした。単に「解剖学的な性別と脳が知覚する性別が同じ」という在り方、それがトランスジェンダーの対置概念である「シスジェンダー」だった。その用語がなければ、自分のマジョリティ性が汚されていたんだろうなと思うんですね。
まあこういうことを書くと、非常に他者について目配りが行き届いた人であるかのようなご評価いただくことが多いのですが、私は特別な感性だの情緒で物を言っているのではなくて、多様性の話は学問なのであり、過去繰り返された数多の研究で得られた知見から、学んだことにすぎないわけです。ヒトは「工場出荷時に(出生時に)」シスジェンダーかつヘテロセクシュアルをデフォルトにしていない。にも関わらずシス‐ヘテロという在り方を「正常」とすることは科学的ではなく、ごく穏当な言い方に限定しても「個人の主観であり社会の慣例だった」としか言えないのですね。現在アメリカではここが揺らいでいて「LGBT」から「T」を外そうとしている――トランプ大統領はある日おしっこ中に自分にペニスがあることを発見して自分を男性だと判断したのでしょう。何かでペニスを失ったら自分がアメリカ初の女性大統領だと言い始めるのかもしれません。しかしそれは私の経験とは異なる。ヒトに自分が男性だと教えているのはペニスではなく、脳だからです。
記事をご紹介いただきました
アメリカ在住のねことくま。様が記事「安心なトイレって。」のなかで、「ごめん、そのビラはもらえない」という記事を紹介してくださいました。パートナー様とパナマからお帰りになったばかりでありがとうございます(死ぬまでにやりたいこと100選をバケットリストというのだそうです)。
サンフランシスコのトイレ事情について紹介されてますので、ぜひご一読ください。安全なトイレは構造を見直すことでしか実現しないと思います。
(せめて)誰が入り込んでも安全なトイレを造れよな
結局、女性用トイレの「トランス排除」騒動って、「トランス女性が女性用トイレを使わせろと求めている」という錯誤が社会的パニックを起こした(選挙の人気取りの材料になるまでに人々が冷静さを失った)という問題で、誰もトランス女性に謝りもせず、女性用トイレの安全化にもつながらないのだろうか。ひどく空しい。せめて女性用トイレの安全対策を始めろや。善意の第三者を誹謗中傷して会見まで開かせて終わりか。「ハートをつなごう」のときも触れたけど、「トランスジェンダー関連法案の法整備は20年以上前から始まっていて、その後の20年間もトランスジェンダーは多くを求めたりしなかった」。シス女性はどうして今になって排除(そこにいない人々の排除)を始めようとしたのか。じっくり冷静に考えたらいいと思います。そして何度も言うけど、シス‐ヘテロ男性が女装して女性用トイレに侵入する事件は、51歳のおっさんが子どもだった頃から度々ニュースになっていたし、トランスジェンダーとは無関係。何で誰も指摘しなかったんだろう。
おれは「結局、同性婚の邪魔をしたかったんだろう」と思ってる。もしかしたらそれは上手くいくかもね。今ヘイターは傷つきやすい被害者の顔をしている。「何でかんでも」「行き過ぎた」と繰り返す善人の顔をしている。
それはご褒美のような。
でもせっかくの休日。気疲れしたくないなあ。あした社会が変わってもいいのに。トランプに忖度した企業、誰かリストにしといてくれよ。おれ蕎麦のおだし作んので忙しいのよ。5分でできるけど。
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でも、生きてきたことは無意味ではなかったと、そう思う瞬間もある。
「ハートをつなごう」
これ。この番組でした!
18歳の時、この番組のおかげでやっと自分がゲイだと自認できたんです!
初めてテレビで同性愛者を嘲笑の対象としてではなく、真剣に寄り添った内容で放送していて、それがものすごく衝撃を受けたんですよね。
カミングアウトレターズの回とは別でしたが、スタジオの風景とかそのまままんまだ…
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ちょっと待っておれが34歳のときに18歳? それ今でもピチピチやんけ。
悲しみと希望で作られたものをこそ
子どもの頃、テレビには笑われるゲイばかりが映っていた。ピーコさんが亡くなったとき、おれが書こうとした記事のタイトルは、「ずっと、あなたが嫌いだった」というものだった――もちろん記事にはしなかった。自分が同性に惹かれることは5歳の頃から分かっていたのに、自分がゲイだと思えるまでにはひどく時間がかかった。ゲイが笑われる存在だったからだ。アイデンティファイできない問題。自分と同じ人間だとは思えなかった。彼らがテレビに映ると、家族が笑うのだ――安全な距離を保ちつつ侮蔑を露わにする、大げさな、あの最も醜い笑顔で。身を硬くして、おれはあの嘲笑のなかにいた。そんな子どもが「アイデンティティを得る」ということは決して世間で言われるような、身の程をわきまえない恥に満ちた行ないではない。カミングアウトすることは「声が大きいマイノリティ」と揶揄されることじゃないし、奪われた権利を求め尊厳を回復することは、人々が新しい時代を迎えるために必要だ。「なんでもかんでも」変わるはずもない。「行き過ぎているかどうか」判断するのなら、その会議にはおれも参加するわ。「仲良くしてあげないよ」と脅されて、おれが泣くとでも思った? 怯えるのは子どもの頃に散々やったんだ。もう平気だよ。平気じゃないのは、そっちだろ?
……さて、おれ大葉を醤油漬けにするんだよね。休日の残りを楽しむか。
「悲しみは正義の半身だわ」 「そして残りの半身は『希望』というの」
そう、正義が正しくあるときは。おれはその「眼」でいなきゃ。