24条「両性」問題の、別の問題
よくこの方「裁判所」っていう銘板を撮影できたな。霞ヶ関じゃまず無理(阻止される)。13日の「結婚の自由をすべての人に」訴訟、福岡高裁判決について、非常によく現場のライブ感を味わわせてくれる記事があった。
ここからは、「そこらのおっさん」である私が語ることなのだが――
いわゆる「同性婚」をめぐるこうした一連の動きについて、危機感をもつ人たちがいる。「両性」という表現をいかに解釈するかにポイントをおき、「結婚の自由は異性間のものと定められている」と主張する人々だ。
だが法の解釈という話であれば、なぜその法が作られたのかという歴史的背景をふまえて考えるべきだろう。
「24条」の草案作成に携わった人々には、日本で子ども時代を過ごした若き女性、ベアテ・シロタ・ゴードン氏がいた。日本を愛する彼女が当時の日本社会の事情で胸を痛めていた点が、「女性の社会的立場が非常に低く」、結婚に際しても女性の意思が全く尊重されないまま、親たちが決めてきた嫁ぎ先に嫁がされていたという状況だった。だからこそ24条には「両性の合意のみに基づいて」という文言がある。人の尊厳が蹂躙されないために必要なのだ。結婚する二人の合意/自由意志を守るために「24条」は書かれた。
「(男性側だけでなく)女性側の合意も」という部分を確実にするため、当時はどうしても「両性」という文言でなければならなかったのだ。
「そうだとしても24条は同性婚を認めていない」という意見はあるだろう。当時、同性カップルが結婚することを認めた法律など世界中のどこにもなかったわけである。ずっと後になってオランダで法制化されるまでは。私も、2012年までご存命だったベアテ・シロタ・ゴードン氏に聞いてみたかった――「当時もし同性愛者たちの存在が可視化されており、結婚を望んでいたなら文言は変わったでしょうか」「例えば『両性』が『両人』と書かれていた可能性はあったでしょうか」と。それを質問したインタビュアーはいないのだ。――しかし私の話でポイントは必ずしもそこではない。
「両性」と書くしかなかった背景を、片時も忘れるなと言うのだ。
痛み多き歴史を忘れることも人の世であるかもしれない。しかし女性の(そして配偶者となる男性の)婚姻の自由を守るために作られた法を、いま「あたかも異性婚を唯一絶対のものとして崇めるため書かれたように」「まるでゲイを排除するため書かれたように」解釈しなおすことが、正しいだろうか。当人たちの意思が無視されて結婚させられていた時代があったことを忘れ、婚姻における当人たちの意思を守るために作られた法律であることを忘れることが、どれほど危険なことなのかを、人々は胸に刻むべきだ。
同性婚に反対するとしても、既存の権利まで失うようなマネはするなという話なのだ。一度でも「でも憲法には『両性の』と書いてあるよね」と考えた人は危険なのだ。自分が何を守られていたのか分かっていないからだ。あえて「たかが」と書くが、たかが同性婚に反対するために、法の意義を言い換えるようなことがあってはならないのだ。24条は同性愛者から社会を守っているのではなく、「誰も望まない結婚をさせられないように」あなたの自由を守ってきたのだ。それを忘れた途端、あなたの権利は危うくなる。
あの時代から100年も経ってないんだ。昔話というほどじゃない。
たとえば安倍内閣時代、改憲されようとしていたのは憲法9条だけではない。この24条もそうだったのだ。自民党草案では「両性の合意のみ」という現行法の文言を「両性の合意」とする、「のみ」を外して書き換えることが検討されていたのだ。少子化を結婚しない若者たちのせいにして苛立つ国民は、いっそ「のみ」を外すことを歓迎し、親が子らに結婚を強制できる社会の復活を夢見るだろうか。……その可能性は常にある。苦しくなれば、人はどんな愚かなことでも言うからだ。だからこそ、考えなきゃならないのだ。
ここで「同性婚に反対するな」とは言わない。結婚の自由を守れと言うのだ。私は「同性婚に賛成することで」国民の「法の下の平等」を完成に近づけるつもりだ。それでまたひとつ、人は強くなる。
ああ、注釈もリンクもなく、論拠を示す義務なく放埓にものを書けるって楽だなあ。この記事はとても楽に書けた。「そんなものに読む価値はない」と言うなら、浮ついた人々が縋ってきた思想こそ、そういうものだろう。「こんなもの」と思うなら、しっかり自分で裏を取り、自分の頭で考えることだ。「どんぐりたべたい」さんみたいに、自分で傍聴して考えるとかね、あれが在るべき姿勢だよねえ。私は自分の頭で考え、自分の言葉で書く。