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【実家の話】記憶その3 - 連絡先電話番号についていた(代)は、先祖代々でなく代表という意味だったね。
縁側に広げて干した布団の上、僕は姿勢悪く座ってゲームボーイカラーで遊んでいた。セミも静まるほど暑い夏だった。
エアコンも扇風機もないわが家は、信金や工務店でもらって使い古したうちわか、自然の風のみが頼りだった。夏が近づくと祖母は、自分の部屋からうちわを数十本束ねて持ち出して居間にまとめて設置した。親戚一同集まっても使いきれないほどのうちわを、だ。
なかにはもうボロボロの満身創痍で、セロテープで雑に補修されたものも少なくなかった。経年劣化で乾燥して茶色くシミのようになったセロテープは汚らしい。それでも捨ててしまわないのが、まったく、本当に祖母らしかった。
同じく祖母が自室から持ち出してきてうちわ立てに使っていた、花瓶のような植木鉢のような陶器も僕は嫌いだった。
そんなわけで夏は自然の風のみが頼りだった。
しかしながらゲームボーイで遊んでいる最中はうちわを使えない。
そんなふうに過ごしていた繰り返しの夏のある日。縁側に広げて干した布団の上、やはり姿勢悪く座ってチキチキチキとボタンを押し込んでいた僕のすぐ脇に、一匹の虫が飛来した。
カナブンかと思ったが違っていた。カナブンより細長く、大きく、そして金属のように緑や紫に光っていた。カナブンでなければコガネムシだろうか。
おそらく僕は反射的に捕まえたのだと思う。
その虫は「玉虫」と呼ばれる珍しい虫で、自分は生まれて初めて出会ってしばらく虫かごで飼って、あっという間に死んだあとは綿を詰めたマッチ箱にキッチリと納められた。
すべて母親の主導による対応だったと思う。
おかげで僕は比較的若い年齢で「玉虫厨子(たまむしのずし)」という国宝の存在を知ることができたし、ポケモンの世界に登場する「タマムシシティ」という街の色彩をありありと思い浮かべることができた。
めでたく標本ケースとなったマッチ箱は高本商店という味噌屋のものだった。
わが家に古くから行商に来ていた老舗だったらしく、僕の時代には幌付きの青いトラックで2ヶ月に一度くらいのペースで現れた。
それが来ればエンジンの音でなんとなくわかる、僕は縁側から背伸びして様子をうかがう。いま思えばサイドブレーキの、いつものギッという音が短く響く。
口髭を生やした赤チェックシャツのおじさんが表門から調子良く入ってきて庭に立つ。
「高本味噌屋でーす!」と、意外に高い声で挨拶をしてくる。
その時にはもう、恥ずかしがり屋の僕は奥の4畳半か台所に隠れて息を潜めている。
祖母が「はーい、待ってちょうだいね〜」と返して、鈴のついたがま口財布を持って出ていく。しばらく世間話などして、いつもと同じ乾物類を買って戻ってくる。味噌を買って戻ってきたことは一度もない。
それで高本味噌屋は買い物のたびにオリジナルの、当時にしてもレトロな箱マッチをたくさんくれる。本店と支店の住所と電話番号が書かれた朱色の箱。それらはいつも、台所の食器棚の真ん中の引き出しに詰め込まれていた。居間のテーブルの上にも、いつもあった。
誰も食器棚の引き出しの整理などしないから、箱マッチはうわずみから使われていく。母はタバコの点火に100円ライターを使っていたし、せいぜい祖母によって仏壇でしか消費されないから、朱色の箱は約2ヶ月後にまたその上に並べられる。
引き出しの下のほうに入れ込まれたマッチは。火種でありながら永久凍土のようなポジションを担っていたに違いないのだ。
(つづく)