岡本真帆『あかるい花束』評――【番外編】「遠い他人の素直さについて」
この文章は岡本真帆『あかるい花束』評のイントロダクションにあたる短い記事です。自分の歌含めた他の歌を引きながら書いているので、純粋な歌集評ではないため番外編としました。全文無料です。以下、どうぞ。
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岡本真帆『あかるい花束』という歌集を考えるうえで、一つの起点になっているのは上の歌です。「岡本真帆と自分はなんだか他人だな」と感じました。「他人だな」という言い方が大げさなら、「考え方が違うな」くらいでもいいかもしれない。距離をおいてみることで岡本真帆のことが考えやすくなった。
その「考え方が違う」ということについて説明するためにここで自分の歌を引きます。
歌の本質的な要素や歌のつくりは岡本のそれとかなり近いと思います。要するに「私はあなたで、あなたは私」くらいに通じ合った二人がいて、それを主語・述語みたいなものを入れ替えるかたちで歌の中で提示している。
岡本が「居場所」というところ、石井は「抱く」とかなり俗っぽい言い方をしている、というところはさておいて、比べるべきは「ありがとう」と「これぞ一石二鳥」でしょう。同じことを言うのにこんなに違うのかよ、というところがある。
石井の「一石二鳥」には、「なんか面白いことを言うぞ」という感じがある。この歌のそもそもの過剰な字足らずとか「これぞ」というわざとらしい大げさな言い方とかには「スベってもいいから言い切るぞ」という感じがある。「これぞ一石二鳥」という文言を誰に向かって言ってるのか、というと「おまえ」というよりは、読者に対してのほうが大きいでしょう。奇をてらっている、という言葉がぴったりです。
対して、岡本の「ありがとう」は、大切な相手に対してしっかりと言っているように見える。奇をてらってない故に、です。歌もほぼ定型で読みやすい。石井と比べると歌のなかの言葉が素直なのがわかりやすいと思います。
対照的に「この人は石井に似た人かもな」ということで、伊舎堂仁さんの歌を引きます(伊舎堂さん、巻き込んですまねえ)。
伊舎堂は「好き」みたいなことを言うのにわざわざ「単純接触効果」という心理学の用語を持ってきている。これは石井が「一石二鳥」ということわざを持ってきたところに通じます。やや特殊な言葉に言い換えることで面白を発生させようとする。ここで「居場所」という言葉は絶対に使わない。これが第一。
そのうえで、岡本が「ありがとう」と言うところ、伊舎堂は「勝負しようぜ」と言う。これが「これぞ一石二鳥」くらい、読者に向かってわざとらしく言っている感じがする。この「勝負しようぜ」が、読者に向かってわざとらしく言っているように見えるのは、たぶんこのフレーズが引用に近いものだからだと思います。世代的に思い出されるのは、ポケモンのオープニング曲だった松本梨香「ライバル」という曲で、この歌の始まりは「バトルしようぜ!」というセリフでした。ポケモンに限らず、遊戯王カードなりベイブレードなり、ゲームやら漫画やらで、この「勝負しようぜ」という言葉や感覚にはなんとなく馴染みがある。
馴染みがあるというのは、言い換えたらそれは、つくられたちょっと嘘っぽいセリフに響く、ということです。素直なセリフには聞こえにくくなる。短歌のなかで使えば尚更です。まぁ、こんな説明しなくても直感的に「勝負しようぜ」は、「ありがとう」より「これぞ一石二鳥」に近いのがわかると思いますが。
そして改めて、岡本の「ありがとう」や「居場所」という言葉遣いはやっぱり素直だな、と思います。素直に生きて、その素直さが受け入れられてきた人の言葉だな、と思います。ちゃんと愛されてきた人の言葉だなと思います(「考え方が違う」というイントロで始めたけれども、「育ちが違う」くらいの言い方でもいいな、と思ってきました。そして石井と伊舎堂はひねくれているな、と改めて思います。)。
何はともあれ、『あかるい花束』について語るときに石井が語ること、のその始まりは「岡本真帆が他人である」ということになります。
そんな話から始まる『あかるい花束』歌集評はこちらからどうぞ。
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