ニコンをつなぐ - 50年の物語
Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの三部構成です。ⅠとⅡはフィクション。Ⅲはそれを受けての私小説です。
Ⅰ
1971(昭和46)年秋。ニコンから新製品のF2が発表になった。源田正平は株式会社サンフォト通信社の契約カメラマンである。得意分野は報道全般。愛用のカメラは2台のニコンF。1930(昭和5)年生まれで、この時41歳。社員カメラマンからも一目置かれる存在になっていた。
一眼レフと言えばニコンFの時代。それは永遠に続くかと思われたが、まさかそんなことはない。F2の発表会に向かいながら、期待と寂しさがないまぜになった気持ちになった。会場に到着する。ニコン使いのお歴々が勢ぞろいしていて、源田は気おくれがした。
綺麗な紫色のビロードの上にF2が並んでいる。ようやく源田の番が回ってきて手に取った。「丸い!角が手に当たらない!」やはりだいぶ変わっている。そして「え?レリーズボタンが、な、ない!」ニコンFのレリーズボタンはSシリーズと同じで後ろ寄りにある。源田は長年Fを使っているので人差し指が空振りしたのだった。新型のF2では、レリーズボタンの位置が他社のカメラと同じように前方へと移動していた。
「やあ源田さん。どう?良いでしょF2」ニコンの報道担当の藤井だ。長い付き合いである。源田は「良い、んだろうけど。これはなあ。俺の人差し指は、もうFに合わせて曲がってるんだよ!」隣に居合わせた知らないカメラマンも「そう!まさしくそう!俺もそう思った!」と同調した。
ニコンの広告などに出ている有名写真家のお歴々は、どうやら絶賛の嵐のようだった。源田は回れ右をして、そそくさと会場を後にした。帰りの銀座線の車中でも考え続けた。「Fをもう1台買おう。絶対に買おう」
源田の住まいは神奈川県横浜市の郊外にある団地だ。渋谷から東急電車に乗り、駅からさらにバスに乗り継ぐ。妻の綾子は3歳下の38歳。一人息子の進は1963(昭和38)年生まれで小学2年生。これからお金がかかる。契約カメラマンという不安定な働き方のため、マイホームの夢はあきらめた。妻の綾子もパートで働いている。進の帰りに間に合わない場合もあるので、カギを持たせている。昨今増えてきたいわゆる「カギっ子」だ。
最初はペンタックスで写真を始めた。当時はみんなそうだった。ニコンなど雲の上の存在だった。ニコンはカメラ店のショーウィンドウの最上段で威張っている。とてもではないが、気軽に「見せてください」などと言えなかった。最初のFを買ったときは嬉しかったな。シルバーのアイレベルに50mm。あれで何でも撮った。レンズを揃えて、2台目のFはブラックだ。それこそ肌身離さず持ち歩き、寝る時も枕元に置いた。
ベトナム戦争が始まり、グラフ雑誌もカラーページが増えた。カラー用に露出計の入ったニコマートを追加する。しかし新聞が主な活躍の場だった源田には、あまりカラー撮影の依頼はなかった。それでも今後は必要になるだろう。1970年10月。沢田教一がベトナムで死んだ。ピューリッツァー賞を受賞したスターカメラマンだ。同じビルに沢田が所属するUPI通信社があったので、何度か話したこともあるが無口な男だった。6歳下の沢田の死はショックだった。
それ以前から、妻の綾子とは「戦争取材には絶対に行かない」と約束を交わしていた。沢田には子がいなかった。源田には息子がいる。「あなたが死んだら、どうするの?」との綾子の訴えは当然のことだった。
自宅に着いて自室に閉じこもった。機嫌が悪いときの源田は急に話さなくなるので、綾子も声をかけない。本棚からニコンのカタログと、日本カメラの増刊「カメラ年鑑」を取り出して眺める。サントリーレッドの水割りを少し飲んで、その日は早く布団に入った。
F2が発売になる。カメラマン仲間もF2を使う人が増えてきた。しかし源田はそれを横目にFを使い続けた。源田のようなカメラマンも多く、ニコンはFも併売し続けた。2年後の1973年10月。通信社に出入りしている、ニコンの報道担当藤井が声を潜めて源田に言った。
「これは内緒なんですが、源田さんにだけ。ニコンFの製造がついに終わります。今のロットが最後です。おそらく製造は今月まで。あとは在庫のみになります」
最後期型のFは、巻き上げレバーとセルフタイマーレバーにプラスチックのカバーが付けられている。露出計が入ったファインダーもFTNになり小型化された。「あのブラックボディは良いなあ」と、源田はニコンのカタログを擦り切れるまで何度も見ていたのだった。しかも藤井を通せばプロ特価で購入できる。
その夜。綾子に相談した。綾子は軽くため息をついた。「あなたは、いっつもそう。素直に新しいF2を買えば良いのに」「でも買うんでしょ。どうぞ」
さっそく藤井に電話をする。翌週の月曜日の朝。藤井が満面の笑みで包みをもって会社に来た。最後のニコンFだ!その日はどこでどんな撮影をしたのか覚えていない。会社の暗室で現像とプリントをして、プリントの裏に赤のダーマトで丸印をつけてトレイに放り込むと、その包みを持って急いで帰宅した。
新品機材の開封は絶対に自室で一人っきりで行う。厳粛な儀式である。箱を開ける。真新しいニコン。フォトミックFTNブラック。手のひらの汗を部屋着のズボンで擦り落とし、うやうやしく取り出す。底蓋を引き抜きシャッター幕の前にあるセルロイド板を外す。そして鼻を近づけて匂いをかぐ。ああ新品のカメラの匂いだ。プロカメラマンとして長年やっているのに、この時だけは最初に親にカメラを買ってもらった中学生に戻ってしまう。43歳の源田はひとり微笑んだ。
翌1974年6月には正式に生産終了が発表された。それはなんと日本経済新聞の記事にもなった。源田はその記事の横に、自分のニコンFを3台並べて記念写真を撮った。
Ⅱ
それから47年の歳月が経った。源田は家族に見守られて2021年1月に90歳でこの世を去った。妻の綾子は87歳。息子の進は57歳になっていた。綾子「好きなことが出来て幸せな人生だったね」進「そうだね。でもベトナム戦争、撮影に行きたかったんじゃないかな」綾子「いや~意外と度胸ないからどうかな」穏やかな死に顔を見ながらの静かな時間が流れていた。
もちろん源田もFだけを使ったわけではない。なんだかんだでF2フォトミックA、F3P、F4、F5、その他デジタルカメラも使った。もともとカメラ好きだった源田が残した機材は膨大な数だった。綾子は源田から冗談交じりに「俺が死んだら、横浜のチャンピオンカメラの関根に連絡してくれ。たいして金にはならないとは思うけど」と言われていた。
「この(アイレベルの)ニコンFのシルバーだけは残そうか」と進は言った。「志村けんのコントで、棺桶に入った志村がオデコに三角形の布を付けてたじゃん。このカメラはあれに似てるね」綾子「あらいやだ」進「これを仏壇に置いて親父だと思おう」綾子「そうね。これはお父さんが苦労して買った、最初のニコンだから残しましょう」
チャンピオンカメラの関根とは、綾子も顔見知りだった。「ああそうですか。最近お顔を見ないのでどうされているかと思っていました」と話し、関根はお悔みを言った。
「カメラもレンズもお仕事で酷使されているので、買い値も売り値も低くせざるを得ません。でもさすがにメンテナンスが行き届いていて調子は抜群です。必要としている人は喜ぶと思います」と関根は、綾子と進に力強く言った。
Ⅲ
2021年3月。東京杉並区在住の朝日良一はフリーのカメラマンだ。1965(昭和40)年生まれの55歳。感染症の騒ぎも落ち着かず、近年はそもそも仕事も少なく、自宅兼事務所のパソコンでネットをダラダラと見ていた。そしてチャンピオンカメラの中古に目が留まった。
「え?ニューFブラックのフォトミックFTNがこの値段?Cなしだけどニッコールオートの50mmF2も付いてる!なんでこんなに安いの?」 朝日は驚いた。Fはブラックのアイレベルを持っている。しかしこの機種もずっと気になっていたが、相場がなかなか落ちなかったのだ。
チャンピオンカメラに電話をしてみた。関根が出る。朝日「このフォトミックFTNは何でこんなに安いんですか?」 関根「いやあ、この辺のカメラはもう高くすると売れません。確実に売るためなんです」関根は続けて、「でも使い込んではいますが、前の持ち主は真面目な方だし、そう嫌な印象はないと思いますよ」
客の個人情報に関して店には守秘義務がある。しかし売買のやり取りのなかでこういう話はよく出る。店舗で現物を見なくとも、ネットの画像で中古の雰囲気は伝わる。あとは店と客とが互いに信頼を築けるかどうかだ。
その画像を見るとフォトミックFTNのボディに50mmのレンズが付いていて、その両方の塗装の擦り切れ方が同じだった。しかもニコン純正で銀枠の保護フィルターと当時のフードが付いている。その組み合わせでずっと使われてきたのは一目瞭然だった。
こういうのは出会いである。朝日は即購入を決めた。しかしその価格から過大な期待はしなかった。物が届く。まずファインダーを覗く。恐ろしく綺麗だ。シャッターや巻き上げも調子が良さそう。電池を入れてみると露出計もほぼ正確な値を示した。しかもシリアルナンバーは745万6千番台!1973年の秋。最終ロットのFだ!
リバーサルフィルムを入れてテスト撮影をした。場所はいつもの井の頭公園だ。プロラボに入れて上がりを見る。完璧だ。そしてチャンピオンカメラの関根に電話をしてカメラの状態が完璧だった旨を伝えた。「良かった」のなら「良かった」と伝えるのが彼の流儀である。
撮影時のカメラ画像と仕上がった写真に「リバーサルフィルムは光を封じ込める。このレンズは讃岐うどんや十割そばのような味わいだ」などと文章を書いて、それぞれSNSに投稿した。
朝日はあらためてこのニコンをよく見た。ブラック塗装の擦り減り方。当然だが指の当たる頻度と強さに応じてその度合いが異なる。きちんと使ったボディの「理にかなった劣化の仕方」なのである。それはレンズも同様でヘリコイドの山の部分が綺麗に剥げている。
銀枠のフィルターはその銀色が反射するので避けてきたが、1960年代の金属加工の精密さはその後の製品の比ではない。ニューッと回転してキュッと締まる。フィルターとフードも付属しているがレンズの銘板にスレがある。「50のF2は前玉が引っ込んでいるからフィルターとフードなしで使ったんだな。俺と同じだ!」と朝日は嬉しくなった。
カメラの底にはネジ穴がある。カメラケースや三脚を多用するアマチュアが使ったボディは、ネジ穴周辺にキズがあることが多い。しかしこれにはそれがない。あくまで手擦れによる劣化だけだ。以上のことから、朝日はこのボディを報道カメラマンあるいはそれに準ずる者が使っていたものと断定したのだった。
しかし情けないことに朝日は、このフォトミックFTNのテスト撮影直後に、持病の左手首の腱鞘炎を再発してしまう。「やっぱりレンズ込みで1キロオーバーのカメラは辛いなあ」とつぶやいた。まったく源田の爪の垢を煎じて飲ませたい。カメラは防湿庫で保管されることになった。そうしているうちにリバーサルフィルムは段階的に値上げをし、1本4,000円近くになってしまった。その時点でフィルムのカラーは潔くあきらめた。そして露出計付きのニコンFの出番はなくなった。
2023年11月のとある日。夜も更けたころ。朝日は酔って突然このカメラを使いたくなった。リバーサルはないがモノクロでもいいじゃないか!電池を入れフィルムを入れる。リビングの椅子で寝ている妻にカメラを向けて、ピントを合わせた。ファインダーが息をしている。自分の呼吸がわかる。妻の息づかいがわかる。カメラって本来そういうものだろう。時々はモノクロフィルムを入れて使おう。
さらに月日が経った12月31日大晦日の午後。部屋に差し込む年末の日差し。防湿庫からこのカメラを取り出す。フォトミックFTNには少し新しい時代のレンズを付けた。「不変のFマウント」である以上これは正しい使い方だ。しかしふと前のオーナーの組み合わせに戻した。引き離されたボディとレンズが可哀想な気がしたのである。朝日はもちろん源田のことは知らない。しかしそう思ったのだ。
モノクロフィルムは2本ごとに現像する。こんな調子なのでいつ形になるかは分からない。しかしそれで良いのだ。自分の原点であるフィルムカメラとフィルム。生きているファインダー。デジタルカメラとは歴史や人々の思いが全然ちがうのだ。細々とでも使っていこう。そう朝日は心に誓ったのだった。
おしまい
あとがき
中古カメラを買うと「前オーナーはどんな人だったのかな」と想像する。中古カメラの売買歴も40年を超えた。ベテランの域だと思う。自分で売買するだけではなく、一時期は店でアルバイトをしていたこともある。遺品の買い取りも多かった。そんな経験から書いてみた。
Ⅰ章とⅡ章は私の完全な空想によるものだ。でも当たらずとも遠からずではないだろうか。この頃のニコンはプロか上級者しか使わなかった。実在する団体や個人が出てくるが、あくまでもフィクションだ。
使い込んで調子の良いカメラというのは理想である。できるだけ体力をつけて使い続けたい。まだ動くのに処分するのは自分にはできない。カメラを良い状態で残してくれた源田さんありがとう!
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