天気の子について ※ネタバレ有り
天気の子について「どこが良かったの?」ってめちゃくちゃ聞かれるので、
雑にメモしておこうと思います。ちなみに会社の人でも評価半々かな。
ミーティングの最中にシナリオリーダーと熱く語って、時間過ぎたのが懐かしい。
ちょっとネタバレも含むことになるのですが、さすがにもう大丈夫でしょう・・・。
前提として、この『天気の子』という新海誠監督の映画は賛否あって当たり前なので、僕が見て思ったことだけ書きます。
少しストーリーに触れつつ(2回見ましたが時間空いたのでうろ覚え…)。
今年24歳になるのですがこの映画を1回目に見た時、常時どことなく
高揚感を得ていました。
・主人公が初めて都会に来た時
・都会の厳しさに耐えつつヒロインと出会った時
・助けてくれる人と出会えた時
・信頼できる人たちができた時
・ヒロインの力で雨から晴れに変えている時の情景、表現等。
その一つ一つが、愛媛という決して都会とは言えない場所から東京に来た僕と重ねて見ていました。
ところどころに味付けとして、『RADWIMPS』の楽曲が乗るのですが明るい雰囲気ではない場面でも、今回は前向きだったり、決意だったり、明るい楽曲が多かったのも良かった。『君の名は』よりもそういう傾向の曲が多かったように思います。(サントラ買ってます。)
上記のおかげと綺麗な描写で雨の場面が多くとも不快感は全くなし。
僕自身も初めて東京に来た時に「建物の大きさ」、「山のない風景」、「たくさんの人」に凄く興奮したのを思い出していました。
なんだかずっと「分かるなあ」って、主人公と僕を重ねて共感してました。
同時に、その主人公の純粋さが凄く羨ましいというか僕が忘れてしまっていたものを持っていて劣等感で押しつぶされそうでした。
東京に来て、慣れて、仕事をして、この場所の汚い場面も目に付くようになってあまり良い所ではないなんて思っていたので…。
その綺麗な表現や映像は、そう見える人にとっては今もなおそう見えるだろうし、いつの間にか汚い場所としてフィルタを通して見ていた僕にとっては本当に考えさせられる映画でした。
もしかしたらつまらない人間になってきているのではないかと。
今回の映画は新海誠監督に「じゃあ君だったらどうする?」って問いかけられてるように思えます。
「君だったらこの拳銃は撃つ?」
「君だったら好きな子のために、警察から逃げられる?」
「君だったら好きな子と世界どちらを取る?」
ずっと選択を迫られる、主人公はこうだったけど君だったらじゃあどうする?って問いかけられてる映画だと。
ゲームプランナーという職種においてこういう選択の決断は結構多くあって、
「ユーザの求めていることと自分達の伝えたいこと」
「クオリティと時間」
「上の求めていることと、自分がやりたいこと」などなど。
これらはいつからか、自分の意志とは関係なく現実的な選択を優先するようになっていることがあるんじゃないでしょうか?僕はありました。
なんとなく経歴がある人に便乗して、上が言うから仕方ないなんて諦める場面があったりして。
主人公が考え付いた先に、「周りなんて関係ない、自分がやりたいようにやる。その結末が例え世界が不幸になる選択だとしてもそれを選ぶ」。
その強さは羨ましく、簡単に諦めて別の選択を用いがちになっていた僕にとって、無くしてしまっていたものを思い出させてくれた。
好きでゲームを作りたいと思っていたのに、いつからか仕事だから、ユーザーが大事だから、そちらばかりが優先してつまらない考えを持ちつつあった僕には本当にいいタイミングで見たと思います。
もっと好きなようにやるエゴを出してもいいんじゃないかと。
結局のところ、映画はゲームと違って選択肢を自分で選べません。
物語を2時間ちょいで追っていくことしかできないが、ゲームには選択肢がある。映画はそこに自分の意志を反映させることは出来ないのです。
映画に求めるものは人によって違うのだということも分かっていて、
平和な結末だったり、爽快さの残る理想だったり、不愉快なまでの現実的な終わりだったり。そういうのを求めている人にとっては微妙かもしれない。
最後は凄いすっきりした終わりではないし(指輪渡さなかったり)
なんで家出したのかもわからないし(これについては思春期にはよくあるから別に補足いらないと思いますが。)
法は犯すしね。
でも、選択に関してはやっぱり、意図して構成されてると思います。
顕著に出ているのは最後の場面で、警察をぶん殴った大人の人が証明してくれています。周りがその人の大事な選択を決めるなって。
この異常なまでに選択を強いるし、
ところどころ考える余地のある良い意味で空白のある映画は、
24歳の僕にとっては最高にいい映画でした。ということです。