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コリントの信徒への手紙Ⅰ2章6-10節「隠された神の知恵」

コリントの信徒への手紙Ⅰ2章6-10節
2:6しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。 7わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。 8この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 9しかし、このことは、
「目が見もせず、耳が聞きもせず、
人の心に思い浮かびもしなかったことを、
神は御自分を愛する者たちに準備された」
と書いてあるとおりです。10わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。

                         
 この聖書の言葉は、パウロが自ら立ち上げたコリントの教会へ向けて記した手紙の一節です。彼はコリントを去った後もコリントの教会とつながりを保ち、両者の間には度々手紙が交わされていました。
 使徒言行録にはコリントで宣教するパウロの姿が描かれていますが、その18:4-11にはこうあります。
「4パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。5シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。6しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』7パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。8会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。9ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。10わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』11パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。」
 使徒行伝によれば始めパウロはユダヤ人に向けてシナゴーグで来るべきメシアはイエスであることを教えていたようです。しかしユダヤ人がその教えに頑強に抵抗したため、異邦人伝道を始めたのだと記されています。であるならば、コリントでの彼の伝道は「異邦人の使徒」と呼ばれたパウロの真骨頂を示しているといえるでしょう。そして「この町には、わたしの民が大勢いる」との啓示を受け、自ら立ち上げたコリントの教会を彼は心底大切に思っていたのではないでしょうか。

 1章10節以降を見ると何故パウロがこのコリントの教会に書簡を遣わしたのかが見えてきます。
「10さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。11わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。12あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。」
 ここでパウロはクロエの家の人たちからコリントの教会の中に争いがあって、それぞれに誰に従うかということを主張していると書いていますが、コリントの教会に存在した問題はこれだけではなかったようです。このコリントの信徒への手紙Ⅰ、また聖書にも収められているコリントの信徒への手紙Ⅱを見ると、幾つもの問題についてパウロが丁寧に指示を書き送っていることが分かります。

 ですから気をつけなければならないことは、パウロは一般的な教義や教理をこの書簡によって示そうとしているのではなく、コリントの教会で問題を抱えている人たちに向けて、その主張に反論しようとしているのだということです。本日の個所で彼はこう語り始めます。6節です。
「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。」
 ここでパウロは「知恵」について語っていますが、彼がどうしてこのようなことを告げているのでしょうか。少し遡って2章の始めから見てみましょう。
「1兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。2なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。3そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。4わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。5それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」
 パウロは自らの伝道を知恵に溢れた言葉ではなく、聖霊と神の力によって行ったのだと告げていますが、これを読むことによって反対に、如何にコリントの教会の人々が知恵を大切にしていたのかということが分かります。知恵に溢れ、優れた言葉によって福音を理解し語ることができるような人物を指導者として求めていたのでしょう。そして、コリントにいるそのような知恵に優れた指導者に対してこそ彼は反論します。

 コリント前書を読むと、パウロが何とか頑張ってギリシアの対話形式を用いたりなんかしながら、コリントの人々に自らの主張を伝えようとする様子を知ることができます。
 ギリシアにあるコリントという都市の住人らしく、コリントの人々の中には哲学的な知恵のある言葉で語り、教会に集まる人々をリードしていた人物がいたのです。そしてそれは1人ではなかったようです。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などとそれぞれ言い合って争っていると書かれているからです。
 彼らは自らの知識に従って、「パウロの主張が正しい」とか、「イヤ、アポロの主張の方がもっともだ」とか議論を戦わせている訳ですが、そもそも神の一つの福音をパウロもアポロも伝えようとしているのだということを忘れているようです。「わたしはケファに」「わたしはキリストに」なんていう発言を聞くと、まるでパウロやアポロが、ケファ(これはペトロのことです)やイエスとは違う福音を伝えていたかのように聞こえてしまいます。

 実はわたしも、以前はパウロが書簡の中で書いている神学的な主張はイエスが福音書の中で述べていることと矛盾するのではないか?と考えていた時期がありました。ですから何となくパウロ書簡を読むのは嫌いでしたし、説教でもあまり取り上げなかった時期がありました。しかし、パウロの書簡に記されている主張は、それぞれの教会の問題を正すために記されているのだということを考えながら読むことによって、漸くその意義を理解することができるようになりました。
 2:2で彼は「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と語っています。つまり、パウロだって生前のイエスが語っていた教えをある程度は知っていたし語ることもできたのですが、敢えてそれはしなかったということです。
 ペトロのように生前のイエスに従って来て、その教えを実際に聞いていた使徒たちと比べれば、自分はイエスの十字架しか知らないと言われても仕方ない。であるならば、敢えてその十字架のみを語り伝えることを自らの使命としようとそう覚悟したのでしょう。主を迫害した自分に対してさえも示されたイエスの十字架における栄光、それを語るだけでわたしは充分福音を告げ知らせることができると、彼は腹を括りました。

 話が少し脱線します。
 わたしは、これまで自分ではあまり意識していなかったのですが、このコリント前書を読んでみて、「あぁ、自分の説教は自分が聞いてきた礼拝説教に対するアンチテーゼだったんだな」と気づかされました。説教の終わりに必ず十字架を持って来て、罪の赦しと信仰義認を語る説教に対する反論として、自分は説教を語っているんだなとはたと気がついた訳です。
 わたしだって自らの罪に苦しんでいた時期に、罪の赦しを告げる聖書の福音によって救われたのですから、十字架や罪の赦しに意味がないと考えている訳ではありません。しかし、教会で聞くメッセージがあまりにそこにばかりクローズアップするので、ちょっと辟易していました。そしてキリストの福音とはそんなに底の浅いものではあるまいと反発を覚えるようになりました。ですから、十字架に収斂させる代わりに「神の義」とか「神の国」をクライマックスに持って来て、「完全な者となりなさい」なんて締めたくなるんだなと改めて気づかされたのです。
 十字架や罪の赦しに焦点を集める語り方はそもそもパウロの手法なのですが、そのパウロ自身はペトロやアポロに対抗するために、自ら十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと決めたのだということに注意しなければなりません。つまり、コリントの人々にとってはペトロやアポロの教えと一緒にパウロの教えを聞くことで、はじめて福音の全貌が見えてくるのですから、福音は十字架のみにあるということにはならない訳です。

 閑話休題。改めて聖書に目を向けてみましょう。
 7節でパウロは「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」と語っています。
 2週間前の説教でパウロは論理的なギリシアの人々に反して、徹底的にヘブライ型思考の人間なんだということをお話しましたが、7節はそれをよく表していると言えるでしょう。言うなれば、ギリシアの人々の知恵とは、個別の事実から真理を論理的に推論していくというものです。語弊を恐れずにざっくり説明すると
「この世は悪がはびこる世界である。
また、義人が報われることは少ない。
しかし、聖書は『世界は神によって創造された。』と記している。
だから、この世界を造った創造神は悪い神であり、狂った神である。」
この様な考え方をするわけです。
 いっぽう、パウロは
「聖書には『世界は神によって創造された。』と記されている。
また『神は愛する民に苦難を試練として与える』とも書いてある。
だから、この世の悪は故無く存在している訳ではない。」
というような考え方をする傾向があると感じられます。
 ギリシアの人たちを帰納的な思考法だとするなら、パウロのそれは実に演繹的であるのだということになるでしょうか。つまり、パウロは神の啓示という普遍的、絶対的な真理を前提として、いつもそこから結論を導き出していくのだということです。

 パウロは「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵」なのだと語っています。つまり人間が自らの知恵によって隠されていた神秘を読み取るのではなくて、神が霊と力によって神秘を覆っているヴェールを取り除いてくださるのだと告げているのです。そして彼にとって、そのヴェールが取り除かれた決定的な出来事とはイエスの十字架でありました。パウロにとって十字架は神の啓示なのです。

 パウロは10節でこのように締めくくります。
「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」神が霊によってわたしたちに真理を明らかにしてくださるとの主張は決してパウロのオリジナルではありません。ここでははっきりと、ヨハネ福音書14章においてイエスが与えた約束が意識されています。
 そして、一切のことを聖霊が究めると語ってはいますが、パウロは森羅万象の全てを知り尽くそうとしているのではないでしょう。彼はあくまでも、十字架において死なれたイエスこそがメシアでありキリストであるという証しについて知ることが出来れば十分であったに違いありません。彼は、主イエス・キリストが再び現れることを待ち望み続け、キリストが最後まで自分たちを支えてくださることを信じ、終わりの日に信ずる者たちを非のうちどころのない完全な者にしてくださることを夢見たのです。

 パウロは訥弁の人でありました。ですからわたしたちが彼の主張を聞く時には、聖書のほかの個所からこれを補う必要があるでしょう。ヨハネ福音書14:15-21をお読みしてメッセージを終わります。
「15あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」  

祈ります

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