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「10年後の僕へ」ー大学サッカー部を引退した主務のこれまで

初めてnoteを投稿します。

横田亮平と申します。

この時点で、実は少し違和感が。つい1、2ヶ月前まで、自己紹介の時は「慶應義塾体育会ソッカー部主務の横田亮平です。」と言っていた。そして数ヶ月後からは、総合商社の一員として「◯◯株式会社の横田亮平です。」と名乗っている筈。

17年間人生を捧げ、特に大学の4年間で自分にはデカすぎる看板を背負わせてもらったサッカー人生が終わり、また4月からは大きな看板を背負いビジネスパーソンとして社会という荒波に飛び込む。

そんな狭間の今だからこそ、これまでの半生を振り返ってnoteに書き起こした。


①【ハジマリ】ー幼稚園時代

サッカーとの出会いは4歳の時。

当時バスで幼稚園に通っていた自分は 、同じバス停を利用していた2歳年上のサッカー少年に憧れてサッカーを始める事を決意。ただ、直ぐにでも始めれば良いものを、何故か「5歳になったら始める」と親に宣言し、少年団への入団を拒否。(朧げな記憶はあるが、何故5歳から始める事に拘ったのかは未だに分からない…)

そして、5歳の誕生日を迎えたその月に、満を持して憧れの先輩の所属するサッカーチームに入団する。

ただ、今思い返してもあまり良い思い出はない。あまり楽しめていなかった気がする。

大きな要因は、決定的に実力不足。背だけは高かったが、足が遅く、器用でもない。元々運動が得意なタイプの子どもではなかったため、技術云々以前に運動能力が足りていなかった。

一般的に、大学まで体育会でやるような選手は、幼少期はドリブルが得意だったりとてつもない俊足だったりといったケースで、FWやトップ下なんていう王様のポジションを務め絶対的な存在である事が殆ど。だがしかし、自分は「下手だから」という理由で当時からDFをやらされていた。否、そこしか出来なかった。

結局、地元のスポーツチームや少年団を転々としていた。サッカーは習い事として行くけれど、熱中していたかと言われると疑問が残る。

何が理由で続けていたのかは分からないけれど、ただ一つ言える事は、あの時サッカーを辞めなくて本当に良かった。当時の僕、よく頑張った。ありがとう。

②【本当の始まりと夢との出会い】ー小学校時代

「高校サッカー選手権」に強い憧れを抱く、どこにでもいるサッカー少年だった。

地元の小学校に進学し2年と数ヶ月。小学校3年生の時にクラスメイトになった友人に出会えた事で、僕の「本気のサッカー人生」が始まった。

友人が所属する県内屈指の強豪クラブチームの練習に初めて参加した時の事は、今でも覚えている。とにかく1つ1つのプレーのレベルが高い。そして何より、全員とんでもなく上手いだけでなく、コーチも選手もサッカーが大好きだった。練習が終わってもボールが見えなくなるまで、みんなでボールを蹴っていた。本気でサッカーを愛する人達に出会えた事で、自分の人生の歯車がスタートした気分だった。9歳で魅せられてから今に至るまでの「本気のサッカー人生」の始まりだった。

もう1つ人生を左右する出会いをしたのも9歳の時。

友人に連れられて高校サッカー選手権愛知県大会の決勝に行ったことがきっかけで、「高校サッカー選手権」にまんまとどハマりした。当時在籍していたクラブチームのOBである元日本代表の宮市亮選手のプレーを目の当たりにして、鳥肌が立った。

「凄い、プロみたい。」「僕もこんな高校生になりたい。 」

自陣ペナルティエリアから右サイドをぶっち切る憧れの宮市君の姿は、今でも脳裏に焼き付いている。そして、高校サッカーで全国に行くという夢が出来た。 

足は遅い。不器用で足技は拙い。

だからこそ、サッカーの虜になった僕はガムシャラに取り組んだ。夏でも冬でも毎朝6時に起床して先輩と自主練習をし、電車を乗り継いでナイター練習に参加し、毎日サッカーノートをつけて練習を振り返り、背が高いという特徴を活かすために毎日欠かさずヘディングの練習をした。

たかだか10歳そこらの時である。当時の自分、頑張った。今振り返っても尊敬する。

小学校6年生の時に、慣れ親しんだ名古屋を離れ、父の転勤に伴って東京へ転校した。

幸い転校先でも良い仲間に恵まれたが、何となく張り合いのない新生活を送る自分を見兼ねて、母が高校見学に連れて行ってくれることに。それが、後の母校となる都立三鷹高校との出会いだった。

都立高校でありながら全国大会に出場していたこと。何より、オレンジと紺のピステを来て練習中から本気でぶつかり合う高校生を見てまたビビっと来てしまったた。

「カッコいい。」「ここで全国に出る。」

三鷹高校に入るには新設された付属中学校に入るしかない。猛然と受験勉強に励んだのを覚えている。

③【こんな筈じゃなかった】ー中学校時代

 猛勉強の甲斐があり、半年程の勉強期間で無事に都立三鷹中等教育学校に合格するも、理想とは程遠い現実に直面する。

顧問がサッカー未経験者。東日本大震災の影響で校舎の建て替え工事に影響があり、使えるグラウンドの大きさは僅かテニスコート程。折角週に一度指導者が来てくれる日は、キツい練習が嫌だからという何とも浅はかな理由で練習をサボる先輩達。全国を目指すレベルの高い同期に囲まれると思っていたら、初心者までいた。

今思うと、夢が遠のいているという焦りしかなかったんだと思う。「積極的でチームを纏められるから」という理由で顧問に学年代表に抜擢されたが、焦りと驕りが相まって、大きな失敗をした。上を目指さないやつらの意味が分からない、なんて烏滸がまし過ぎる事を思い、実際に口にも出してしまっていたが、つけ上がっていたのは自分だった。

自分は選抜にも選ばれ、地元クラブへの練習参加も行って努力しているつもりだった。しかし、周りが見えておらず自分がチームをバラバラにした結果、同期から学年の代表を降りてくれと宣告される。今でも思い出したくない人生最大の失敗であり挫折だった。

中学校2年生になると、念願叶って指導経験のある監督が赴任してきたが、更なる困難が待ち受ける。

高校年代で実績の残した監督の厳しい指導に耐えられず、ストレス性の急性胃腸炎にかかってしまう。ろくに食事が喉を通らず、何を食べても吐く毎日。

加えて、地区の選抜には選ばれている選手なのに、監督から評価されず所属チームでは出番が無いという歪な状態。選抜のチームメイトに試合会場で出くわし、ベンチに座る自分を見かねて「お前何してんの?」と聞いてくる仲間に、「温存かなー」なんて答える情けない日々だった。夢を追って走ってきた筈が、モノクロのサッカー人生になりつつあった。

「ここでこの人の指導に耐えたら、高校ではちゃんとした監督のもとでサッカーが出来る。もう少しの辛抱だ。」

そう思って我慢してきたが、ここで中学3度目のこんな筈じゃなかった発動。

高校の監督の異動に伴い、中学の監督が高校の監督にスライドする事に。これでまた3年間同じ日々になる事は耐えられなかった。

中学校3年生の時に新たに赴任してきた顧問のもと、東京都大会ベスト8とある程度の成績を残せたが故、「もう高校ではサッカーは辞めよう」と考えるようになる。進路選択に悩んだが、元々英語好きであり世界で活躍することに憧れていた為、1年間の留学を決断。単身渡米する事に多少の不安を覚えると同時に、新たな挑戦に胸が踊っていた。

④【人生最大の後悔】ー高校時代

アメリカのペンシルベニア州でのホームステイ生活が始まった。毎週教会に通うキリスト教文化や週末にはシカ狩に出掛ける田舎暮らしなど、全てが新鮮な毎日だった。 ボールを蹴れば、サッカー文化の無いアメリカの片田舎では英雄扱い。友達も増え、英語も上達し正に留学生活を"エンジョイ"していた。

そんなアメリカ生活を満喫していた矢先、衝撃的な連絡を貰う。

「俺たち、全国に出るよ!」

頭が真っ白になったあの時の感覚は、今でも覚えている。

三鷹高校の中等教育学校化に伴って高校の募集が停止となり、自分達の2つ上の先輩が最後の「三鷹高校生」となっていた。しかし、伝統ある三鷹高校「最後にして最弱の代」と呼ばれ全く振るわなかったチームが、8年振りの全国大会出場を成し遂げるなんて思ってもいなかった。

いや。正しくは、全国高校サッカーに憧れて入学した筈なのに、自分は夢の舞台に立つ仲間とその光景を分かち合うことすら出来なかった。

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『本気のサッカー』『夢』から逃げていただけなのだという現実を、まざまざと突きつけられた。

 「おれ、何やってんだ。」

そこからの動きは早かった。雪で外を出歩けない冬の間は、学校が終わればひたすらジムに通って筋トレに励む日々。雪が溶け春になると、覚えたての英語を駆使して電話をかけまくってチームを探し、ホストファミリーの助けを借りながらアメリカでサッカーを再開する。

6月の帰国直後、野球部の友人に頼み込んで坊主頭にしてもらい、監督と先輩に頭を下げ、高校サッカー部への復帰を許可してもらう。

1年のブランクは長く、ラントレしながら気を失いそうになった事は一度や二度ではない。ただ、どんなに身体がキツかろうと「もう逃げたくない」という思いで食らいついていった。 さしずめSLAM DUNKの三井寿のようだった。

朝一番に来て雑用をし、毎日倒れ込みそうになりながらラントレをする日々はきつかったが、一度夢から逃げた人間にとって、仲間と共に夢に向かって過ごす日々は楽しかった。

しかし、結果はついてこなかった。全国を夢見た日々は虚しく、地区予選2回戦敗退という無残な結果に。本当にあっけなかった。

ここで、僕のサッカー人生は「高校サッカー」で終わる予定だった。「大学サッカー」という選択肢など微塵も頭になかった。 

「大学でサッカーをやる人はプロ予備軍の人達。Jのユースに入ったことがない、選抜歴もない、そんな自分が通用する訳ない。セレクションとかあったら絶対受からないだろうな。」とぼんやりと思っていた。

「サッカーでの悔しさは受験で晴らす」を合言葉に、9月の終わりから受験勉強を本格的に開始する。 結果、他の人より短い受験勉強期間で第一志望の慶應義塾大学に合格するも、自分でも驚いたことがあった。

別に全然嬉しくなかった。

どんなに勉強を頑張った所で、高校最後の大会を終えてからずーっと心の何処かで抱えていたモヤモヤは、全く晴れなかった。

もう一度真剣にサッカーがしたい。このまま終わりたくない。」

大学に入るに当たり無数の選択肢が用意されている中で、消えることのなかったサッカーへの熱が大きくなっていたのを見て見ぬ振りをすることが出来なかった。

実力不足だなんて自分が一番分かっていたけど、ただただ「もう一度真剣にサッカーをしたい」その想いだけを胸に慶應義塾体育会ソッカー部の門を叩いた。

⑤【ボーナスステージ】ー大学時代

「もう一度真剣にサッカーがしたい」その想いだけを胸に入部の覚悟を固めた、慶應義塾体育会ソッカー部への道。全国大会出場経験者や元プロなど、華麗な経歴や実績を持つ選手ばかりの中で、自分の存在意義を探し続ける日々が始まった。

濃すぎる4年間はここには書ききれないので、また改めて振り返る機会を設け、ここでは簡単に記す。

4軍メンバー外でラントレからのスタート、初めて見た早慶戦の熱気、「リサーチ班」という分析チーム就任、約半年に及ぶ同期とのミーティング、カテゴリ移動、ドイツやザンビアへの海外遠征、そして新型コロナウィルス感染拡大という未曾有の敵と戦いながら過ごした「選手」兼「主務」という大役を仰せつかったラストイヤー。

会計作業やOB へのメール配信といった通常業務。連日グラウンド横の作業場に寝泊まりしての1軍の練習のサポート。そして、自身の選手としての活動と4軍チーム主将としてのマネジメント。

100年近く続く組織の代表は並大抵の事ではなかったが、以前部のブログに書いた事が、嘘偽りない自分の本音だった。

過去のノートを見返しこの2年と数ヶ月のソッカー部生活を振り返っていた時、僕の大学サッカーを表すのにぴったりな言葉がふっと湧き出てきました。
「ボーナスステージ」
まさにです。この4年間は、僕にとってボーナスステージなんです。終わったはずのサッカー人生の延長戦なんです。幸せなことに、ソッカー部に所属しているという大義名分の下で、家族に支えてもらいながら今もまだ本気でサッカーに打ち込むことが出来ています。この環境が当たり前ではないと分かっているからこそ、今頑張れています。と言うより、ボーナスステージなのですからモチベーションが高くて当たり前なんです。試合に出れなかったり、グラウンドの周りを延々と走らされたり、監督に怒られたり。悩みや悔しい思いの方が多いソッカー部生活ですが、そんな毎日が何だかんだ楽しくて仕方がありません。本当です。そんなボーナスステージに、更にスペシャルなボーナスを頂きました。副務という役職です。 仕事こそ多いけれど、貴重な経験を積ませてもらっています。不器用で未熟な自分に大役を任せてくれた同期に素直に感謝しています。ありがとう。

そして、最後のブログに書き記したこと。(一部省略)

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シーズン終了を間近に控えた今であっても、そうでなくても、僕らに出来ることは「今、ここ」を眩しいくらい真剣に生きるしかない。
過去の経歴に負い目を感じたり、先のことを考えたりする余裕もないくらいに、刹那に集中する事。そして、それを薄く、薄く積み上げていく事。その連鎖が初めて未来に繋がっていくと自分は思っている。
ソッカー部には役職や学年、カテゴリなどに応じてそれぞれの大切な役割が与えられている。それを全うするなんて慶應の学生なんだから当たり前。荒鷲のエンブレムを背負って戦う皆には、役割を果たすだけでなく「自分にしか出来ないこと」に誇りを持って欲しい。
かくいう自分は、「自分にしか出来ない事」に自信が持てない1人だった。


「主務」−主にその事務・任務に当たる事。また、その人。


辞書で検索するとこの様に出て来る。偉大な主務の先輩方も皆一様に仕事が出来、その堅実さで部員からの信頼を勝ち取っていた。少なくとも、当時下級生だった自分にはそう見えたし、その姿は眩しかった。

翻って自分はどうだろうか。


副務、主務に就任後も、唯一無二のポジションであるが故、中々悩みを同期に吐露する事も出来なかった。時に孤独に苛まれ、重圧を感じながら戦ってきたが、そんな僕を支えて続けてくれたものがある。


自分が副務に就任することが学年内で決まったミーティングの後に撮影した写真である。
半年に及ぶ同期との話し合いの末、新たな挑戦を決めたあの時の想いと同期からの期待を忘れたくなくて、撮ってもらった。あの日から、心に決めた事がある。



「亮平が主務で良かった。」



引退する時に、同期にそう思ってもらう事。
きつい時、辛い時、上手くいかない時、情けない時。最後の一歩踏ん張れたのは、期待してくれた仲間の想いに応えたいその一心だった。実力も実績もない自分に大役を任せてくれたその想いに全力で向き合いたかった。
・正しいことを正しいと言えるから。
・亮平のカテゴリーとか関係なく本気でサッカーに向き合う姿勢を尊敬している。
・最終学年になった時にチームの雰囲気作りをお前に任せたい。
あの時貰った言葉のお陰で「自分にしか出来ない事」に自信が持てた。
1つ上の偉大な塩木前主務は、自分の何倍も走れる人だった。
1つ下の彬は、副務でありながら関東リーグに出場した。
自分は、数々の偉大な主務の先輩方の系譜に名を刻めるような漢ではないかもしれないし、残留争いをした主務なんて記録にも残らないかも知れない。
でも、それで良い。自分の部に対する想い、仲間に対する想いは誰にも負けるつもりはないし、本当にチームの為になる事が出来ているならば、日の目を浴びない仕事だって全く苦じゃない。「自分にしか出来ない事」が明確に分かってからは迷う事はなくなったし、孤独を感じる事もなくなった。
だから、皆にも伝えたい。
必ず、皆にしか出来ない事があるし、オンリーワンとしての自分に誇りを持って欲しい。
「今、ここ」で「自分にしか出来ない事」を。

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辛い事、悩んだ事、悔しかった事なんて数えきれない程あるけれど、とんでもなく幸せなボーナスステージだった。

⑥【再出発】ー今

2020年12月20日をもって、5歳から始め22歳と2ヶ月までの17年間続けてきたサッカー人生が終わった。

プロになれるどころか、幼稚園の頃から大学サッカーのラストまで、全国レベルでの活躍も何も出来なかったけど、サッカーは間違いなく人生の軸であり、情熱、時間、愛情全てを注ぎ込んできたものが、今無くなった。正しく脱皮の期であり、新しく生まれ変わろうともがいている今、自分に見せたいものがある。

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10年前の自分からの手紙だ。

無垢にボールを蹴っていたあの頃から早いもので12年。2年前、この手紙を受けとった自分は間違いなく「サッカーがすき」だった。悔いなくやり切る事が出来た。

改めて今、スパイクを脱ぎ、伝統ある看板をおろした自分は、新たな人生のスタートラインにいる。

「ここから先、何が出来るんだろう。」「これ程まで熱くなれるものはあるのだろうか。」

答えは分からない。今はまだ出る気配も無い。

でもそれでいいと思う。また新たな「サッカー」に出会えるよう挑戦をする。自分の心が躍るものに全部飛び込む。そして何か振り切りたいものを見つけた時に、アクセルを全開に踏めるように虎視眈々と力を蓄えておけば良い。

サッカーでここまで熱くなれたように、不恰好で良いから何かに熱中し、泥臭く突き進み、人の心を動かし、大義を抱きながら死んだ時に少しでも何か残せるように生きていきたい。この意志を実現するために、ガムシャラに、丁寧に日々を送っていく。

10年後の僕がこのnoteを見て、「今は最高に熱くやってるぞ。当時の僕、ありがとう。よく頑張った。」そう言えるように、自分にこの言葉を送って結びとする。

「今、ここ」で「自分にしか出来ない事」を。


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