「生と死は、今日と明日くらい曖昧だ」
今日は母親の69歳の誕生日だった。
その朝に、ご近所の方の御見送りをした。
不思議な1日だった。
中学生の時に“past away”を習ったときに、私はこの単語の意味をこう理解していた。
「過去との決別。新生命の幕開け。すなわち、生誕祭」
あながち、間違ってはいなかったのかもしれない。
それはキリスト教の死生観だけではなく、生きとし生けるすべての存在に通じることではないだろうか。
死んだものが次の生命を得る。
子は親を選んで生まれて来るという。
私は母親を選んでいる。そして息子と娘は我々を選んでいる。
つまり死とは、次の親となる存在が見つかったということ。
母の誕生日が数珠つなぎとなって、我々の誕生日であるということだ。
70歳近くも離れている3世代の我々の命は、ひとつの授受なのだ。
親の半分は子供。私の半分も親。
世界一周自転車冒険旅で家をあけていた約10年間、ずっと心配をかけていた。
身が引き裂かれるような思いで私を待ち続けてくれていた。
そんな母にできたせめてもの恩返しが、孫を見せられたことではないかと思う。
お母さん、誕生日おめでとう。私を選んで生んでくれてありがとう。
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