『菊と刀』再考

すでに論じられつくした観のある『菊と刀』。土居健郎先生はじめ日本人論に造詣の深い方からの反論もごもっともである。ではあるものの、日本に誇りをもちカウチのあたまごしに聴いた日本人の無意識論(土居健郎のことである)と、言葉を異にするナラティブ(菊と刀のことである)は同じ日本人論の土俵、地平になくて当然である。

まず、第二次大戦の日本人捕虜からの聞き取りをもとにしている。
対象は男性、戦陣訓に「偶発的に」従わなかった人従えなかった人、皇道教育を受けてきた人たちである。統計にまつわるバイアスもN数も、いえばきりがない。

つぎに、『菊と刀』執筆はアカデミアのためのものでなく、ベネディクトの意図がそうでなくとも、GHQはじめ日本占領後の民主主義国家確立のため、アメリカ人の日本文化理解のために書かれたものである。
一方戦中に日本は占領した国の文化理解をせず「日本化」を押し付けた。文化理解などしようともしなかった。なぜなら日本は世界に冠たる帝国主義であり(書いていて虫酸が走る)、自国の文化があらゆる文化に優越すると確信していたからであり、その結果アジア現地で樹立した傀儡政権はいずれも日本帝国によく似た独裁政権であった。

はたして、敗戦後の日本を統治したアメリカ軍はどうふるまったか。当時の日本人には自分たちの残酷な投影以外には想像もできなかった。それは、ずっと民主的で表向きかもしれないが友好的であり、人種差別せず、日本人を恥ずかしめなかった。

ちなみに、日本国憲法の1条から8条は天皇の記述、9条は戦争放棄
すなわち戦後の「菊」は保たれ、「刀」は放棄されたのである。
菊「と」刀は分離された。
『菊と刀』を私には歴史的背景なしに読むことはできないし、また読みつつ、ベネディクトと彼女の前で語る日本人捕虜の姿を想像せずにはいられない。

いいなと思ったら応援しよう!