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中井久夫著『徴候・記憶・外傷』を読む Ⅲ
予感と徴候についての中井の定義からみてみると
予感は、徴候にたいして時間的に先立っていることが多いという。
予感とは何かが確実に存在しようとして息をひそめている感覚であるという。
予感は予期とは異なる。予期は既に存在する事柄が繰り返し起きることを指している。
また予感は予測とも異なる。予測は数量化して既に存在する事柄が起きるともう少し理屈をたてる。降水確率とかだ。
予感は徴候とあいまって、過去の経験を参照しなくても、変化のみを拾って未来の傾向を予測することだという。
先取りということ
こうした徴候優位の人というのが一定数いて、普通の人よりもすこし未来を先取りしているので、
人と出会いにくい すなわち、今ここでのやり取りよりもほんの少し未来にむかっているので波長を合わせずらいというようだ。
それは統合失調気質、シゾチームといったクレッチマーの性格分類の残響があるかのようだ。
徴候が予感よりも「後にくる」というのは予感に先導されて、何かがある徴し、証しが断片というか端々に現れることをいうようだ。
こうした未来志向、先取志向は対象を把握し、生命活動にはみなに必要である。
内田樹さんが「レヴィナスの時間論」で論じたように、人はそれぞれ固有の時間をもっている、多種多様な時間を生きている、と考える
とすると過去志向でも現在志向でもなく、おもに未来志向で生きていくことは、ある種の生の制限、限定であって、疲れやすいし、現代では生きづらいのかもしれない。