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中井久夫著『徴候・記憶・外傷』を読む Ⅳ

微分的な認識
これは差分的認識という方が適切らしい。中井先生によると統合失調症で優位になるようだ。
アンテナ感覚ともおっしゃっていた。
ある徴候が、ある存在、ある病気を、どのように「非典型的なパターン」でとらえるかということだ。

現在の医学は「科学的根拠」すなわち統計学を駆使した帰納的推論をもっとも重宝している。いわば積分的認識だ。

その一方で、それ自体は「ごくまれにしか起きない」としてあまり対象にされない事柄は「非典型的なパターン」とひとくくりにされてしまう。
徴候の話をだすと、それは、それとして、他の方法も合わせて、総合的な判断が必要だ、などと積分的認識に持ち込むのが正統な考え方とされる。

帰納と演繹でまかなうというわけだ。

果たしてそうだろうか。

たとえば停電したときに何かできることはないか。そこには徴候をうまくつかった微分的認識がフルに活用されはしまいか。

臨床知は、こうした微分的認識をとても重宝している。
そのあたりが研究者がエヴィデンスがすべてという思考と、実際の臨床現場との若干の乖離にも表れているようだ。

徴候というのは、単にエヴィデンスに収れんする症状を示していない。
未知の変化や異変の兆しを示している。
何かが始まるようだが、それが何かを明らかにすることはできない。
簡単に言えば非特異的であり、見事に「調査研究の対象にはならない」。

言い換えると、徴候とは、予測不可能な変化の初期の段階をいう。
ここで、演繹という思考を使わないのが重要であって
既存のパターンに基づいて予測するのが演繹法
そうではなく、これから起こるべき変化を推論する。
 
この推論は、「直感的推測」とも言い換えられ、創造的推論ともいえる。
事実、多くの創造性は徴候から発揮される。
既存のパターンの中に、新しい現象がある、と直感する人は、それこそ稀だと思う。


さて、中井先生は、「メタ私」という概念をつくって、更なる論考をされている。これは、現在では、ほぼメタ認知と言い換えて差し支えなさそうである。それについてはまた、後述したい。

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