冷笑忿怒
十一面観音様は六道のうち修羅を担当するだけあって強烈な感じがします。行者は誰しも口を揃えて厳しい御尊格と云います。慈悲の廣大さは大いなる慈悲の光で普く照らす「大光普照」という別名でも理解できますが、もう一つの別名は「冷笑忿怒」。冷ややかな笑顔で大いに怒るという意味で、冷徹な怖さを前面に打ち出しています。
故に、十一面様は観音様だから優しいはず、と勘違いして自宅に祀れば、試練の連続という事態もあり得ます。小手先の優しさではなく、厳格なうちに秘めた慈悲ということで、拜み続けると次第に分かってくるのですが、数々の試練を潜り抜けねばなりません。
忿怒尊というのは、衆生に対する直接の怒りと云うよりも、悪しきモノや人間の悪しき部分に対して敢えて怒りの表情で教導を成し遂げるという面があります。が、十一面観音様は、頭上の忿怒相は目立たず柔和相がまずは前面にあるので、油断すると頭上の忿怒相がメインとなり、手厳しく個々人を直接的に深く追い込んでいきます。
冷笑忿怒こそが十一面観音様の真骨頂なので、クールにしながら怖い笑顔で鉄槌をくだすのです。外面的には突き放した格好にみえますが、其の實は愚昧な質を基本とする人間を大慈大悲で矯正させようとする大愛に満ちています。孟子がいう「天将降大任于斯人也」云々(*)に当たります。
此の最末世にあって、佛道を精進して目途を達するために拜むのであれば、十一面観音様は力強い御尊格です。妥協ということは全くなく、ひたすらに佛道を歩ませてくださります。「眞なき己が心をあらためて 禱れば眞あらわれぞする」とい古歌にあるように、眞の心をもって十一面観音様を禱れば常に御加護が与えられるのです。有難し。合掌
*天の将(まさ)に大任を是の人に降さんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、行いには其の為す所を払乱せしむ。心を動かし、性を忍び、其の能くせざる所を曾益(増益)せしむる所以(ゆえん)なり。