もう直ぐお彼岸の期間です。願望成就し開運するには、祈禱も大事ですが、先祖供養も同じくらい大切です。ご先祖様があってこその自分ですので、存立基盤をしっかりとしておくことが肝要です。 日本では、目安としての先祖供養の時期が定められているので、それに沿って行えば大丈夫です。正月、お盆、春と秋の彼岸の年4回と近しい故人の祥月命日という感じです。 それぞれの時期に、お墓参りすることもご先祖様へ敬意を示す行為ですので良いことですが、宗旨に基づいて寺院へ先祖供養をお願いすることも
古くからの金運のパワースポットみたいな寺社はありますが、近年になって金運を打ち出している所は、「カネ、カネ、カネ」という感じで貪欲さ丸出しの浅ましいのが目立つ。 そういう寺社は口コミやテレビ・雑誌、SNSなどで多くの集客があるので、沢山の参拝者が欲望の念を垂れ流しています。金運の願いが叶うことは人の欲念がそれだけ集まれば、事例は幾つも出現しますが、それは神佛・御眷属の御業というよりも、欲願の念の塊がアトランダムに当たっただけの場合も少なくない。 神佛に依らないものは
一般に正月・五月・九月は神佛詣でに良い月とされます。元々は一年の内のこの月には変化があり、ややもすると悪いことが起きる可能性があることから、神佛の御冥助を求めたのが始まりとされます。 子どもの夏休みも終わって世間も落ち着いたところで、少し時間があれば神佛詣でに積極的に行くことは良いと思います。正五九は一年のなかで変化の生じやすい「端境期」なのかも知れません。 土用が春夏秋冬の転換期なのに似て、この時期は大まかに運氣の転換期なのかも(愚拙の勝手な想像)。いずれにしても
信心さえしていれば、常に平穏無事ということはありません。信心の有無に関係なく自身の行為でつくった悪因によって生じる苦果からは逃れられないのです。特に現世利益の強いといわれる神佛への信心では、苦果が覿面に表れてくることも。 ただ、これも苦果の積み重ねによる大きな重い苦果を避ける為の神佛の御差配ということがあります。苦果と同じで障碍は外から来るものではなく、自らの内側にあるものが浮き出しただけで、遅かれ早かれ現実化したであろうものです。 障碍を畏怖することは大事ですが、
魔事を回避するために、古書には、大般若経の巻303~304の魔事品2巻を身につけることを勧める記述があります。 が、この大部の2巻だけを探すのも、その巻物を常時持っているのも難しい面があります。 そこで大般若経ではないですが、鳩摩羅什による二万五千頌般若経の漢訳『摩訶般若波羅蜜経』から魔事品のみを抜き出して、一枚にまとめてみました。 魔を祓う、という意味で字の色は赤にしています。これは個人的な趣向なので普通に白黒で印刷等しても宜しいかと存じます。 下記をご自
お盆の季節です。願望成就し開運するには、祈禱も大事ですが、先祖供養も同じくらい大切です。ご先祖様があってこその自分ですので、存立基盤をしっかりとしておくことが肝要です。 日本では、目安としての先祖供養の時期が定められているので、それに沿って行えば大丈夫です。正月、お盆、春と秋の彼岸の年4回と近しい故人の祥月命日という感じです。 それぞれの時期に、お墓参りすることもご先祖様へ敬意を示す行為ですので良いことですが、宗旨に基づいて寺院へ先祖供養をお願いすることも忘れてはな
祈祷と云うものは写真の独鈷杵に譬えれば、一方の先を神仏、もう一方を依頼者として、その真ん中が祈祷者(行者)で、これが一体として用いられるには両突端と真ん中の部分が真っすぐに繋がっていなければなりません。 三つの部分のどこが一つに不具合があっても独鈷杵という法具として成り立たないのと同じで、神仏、依頼者、行者は一体感をもっていないと祈祷自体が上手く行かない場合があります。 祈祷のパワーを十全に身に受けるには、こうした一体的な感覚が重要になります。これは主として中継ぎで
聖天信者は古来、聖天様と同体といわれる三寶荒神様も一緒に崇敬すると良いです。家の中で諸々の福が生み出されて行く場所である台所(それに當る部分)に三寶荒神様の御札を御祀りすれば尚良いです。聖天信心との相乗効果もありますので、勤行では聖天様の真言と共に三寶荒神様の真言も唱えると尚可。 聖天信心の場合の三寶荒神様は、竃(台所)の神様として奉祀するわけではなく、聖天様の異なる御姿を五行の調う台所に御祀りするという意味合いが強いです。故に御札は寺院で頒布の三寶荒神様を御迎えするの
聖天様は最近人氣だそうです。不確実性の髙い不安定な世情では、どんな願いも熱心に禱れば叶えて下さる、という聖天様の大いなる功徳は魅力的でしょう。 が、すんなり信心に入れる人がいる一方で、ネットなどで色々と調べて「恐怖」が先に立って中々踏み切れない向きも。聖天様の信心は特異な御縁であり、信心のベストタイミングは一回だけです。 故に信心するかどうかで迷っている時点で、聖天信心は諦めたほうが良いです。難しい願いを聞いて下さる神佛は外にも居られます。聖天様ほどではないにしろ、
十一面観音様は六道のうち修羅を担当するだけあって強烈な感じがします。行者は誰しも口を揃えて厳しい御尊格と云います。慈悲の廣大さは大いなる慈悲の光で普く照らす「大光普照」という別名でも理解できますが、もう一つの別名は「冷笑忿怒」。冷ややかな笑顔で大いに怒るという意味で、冷徹な怖さを前面に打ち出しています。 故に、十一面様は観音様だから優しいはず、と勘違いして自宅に祀れば、試練の連続という事態もあり得ます。小手先の優しさではなく、厳格なうちに秘めた慈悲ということで、拜み続け
當山では、天照坐皇大御神の習合型の御姿であり、尚且つ當山聖天様の神祇型の御化身である「金剛赤精善雨宝童子」を御祀り申し上げ、密教の修法をしております。 奈良長谷寺の観音様の脇侍のお一方として知られる雨寶童子様は、日本、インド、中国の佛教伝来三国において、それぞれトップの御神靈として顕現され、その総体としての御姿が現在私たちが見る形です。 信心する方は、現代では余り多くありませんが、祈願を籠めれば財・福を雨降るが如くに施与して下さる有り難い御尊格。他の神仏と併せて拜む
聖天様、荼吉尼天様、宇賀弁才天様の合体した三天合一尊は、伏見稲荷大神様の御本地として東寺で祀られてきた仏様です。いずれも現世利益の強い仏尊ですが、三天合一尊の一番大きな功徳は出離です。 欲望を突き詰めた結果としての浄化の御働きで、出離へと向かいます。現実に引きずられて振り回されがちな愚昧な私たちの為に、御仏が大慈大悲で化身された御姿であります。にも関わらず、誤解されて欲望の権化の輩が拝むものと思われがち。 しかしながら、愛染明王様と同様に、本来は私たちを眞の幸福な
天部尊の法楽としてお薦めなのは光明供です。光明真言の功徳は廣大無邊であり、天部の各尊もそれに与ることをとても喜ばれます。特に聖天様は光明真言を殊の外喜ばれます。聖天様の専用の真言を唱えずとも、御前にて光明真言を奉唱して禱念すれば、その禱りに應えてくださいます。 機会があれば、信心する寺院の阿闍梨に相談してみるといいでしょう。受けるかどうかは、それぞれ阿闍梨の判断次第ですが、法楽としての光明供は浴油供や華水供での禱願を後押しするにはベストの密供です。當山でも特殊な願意の場
祈禱を受けた後に起こる全ては神佛の御働きの証です。それが自身にとっては一見喜ばしくないことでも、神佛の思召しと受け容れて進んで行けば、最良の結果が待っています。 一時的な不運があったからといって、祈禱を中止したり、その経過的な出来事を忌避したりすると、せっかくの御働きが無意味になり、実働部隊の御眷属方からすると無禮者という烙印を押されることもあります。 そうなると、どこに行って禱願してもらっても、なかなか上手く行かないということに。御縁があって神佛への禱願を依頼して
當山は奥祈禱本尊として「無上救世最勝神王大菩薩」様を奉祀しております。此の御名は夢告による称え名で、実質は辯才天様、歓喜天様、吒枳尼天様の三天が合一した御尊格です。 中世に感得され拝まれた御尊格で、有名なところでは東寺に伏見稲荷大明神御本地として祀られていました(現在は東寺宝物館に収蔵)。同大社の三つの御峯にそれぞれを当てています。 三つの御峯にどの本地を配するかは種々の説がありますが、當山では上之社神蹟=辨才天様、中之社神蹟=歓喜天様、下之社神蹟=吒枳尼天様と位置
お参りの成否を分けるのは、参拝者の心持ちです。拜禮の態度が不作法や無禮でないことは当然として、心持ちが浄明正直であるように指向し、心身共に敬虔で神佛に相対することが大事となります。 お参りに相応しい心身の状態は御靈域に向かうときから調えて行かないと、直前では中々難しいもの。真剣な禱りのために寺社に赴く際には、前の晩から遥拝し、無魔での円満を禱り、向かい始める一歩から心身を調整。道中も祝詞や経・真言等を唱えるか聖典を静かに読んで、御靈域に入る場合には、陛下のおわす宮殿に入