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掌編小説「寂しさ」
麓に帰ったイエティだったが、快適には眠れなかった。いつもと同じ場所なのに、辺りが騒がしくなったのだ。普段ならヤクが寝息を立てているの聞いているに過ぎなかったのだが、この日は最近ジャコウジカの群れが押し寄せてきて騒ぐようになった。自分の縄張りという意識はそのときイエティに芽生えたのだろう。静かであってほしいのにそうしてくれない。この寝床でもう何年も過ごしていたのにちょっと人間のところへ旅していたらこの始末である。
「グルウ」
イエティは不機嫌さを隠すことができなかった。ある夜にイエティはジャコウジカの群れに吠えだしたことがあり、一時群れは散って静かになったものの、しばらく経つと他によい寝床がないのだろうかまた戻ってきてイエティを悩ますのだった。ここは山あいのなかでも月の光をよく照らすところだったから、他の野生生物にも人気があったのである。
これが個対群れの宿命というものだろうか。結局、イエティは自分の快適な棲家には固執せず、ジャコウジカがいるときは自分はそっと離れ、別の冷たい寝床で眠るのだった。一方、ヤクにとっては、いくらでもジャコウジカが鳴いて騒いでいても、深い眠りに落ちているので一向に気にならなかった。これはつまり、ある現象をどのように受け手が受け止めるかという問題でもあった。ジャコウジカの中では、イエティやヤクに好感を抱いて距離を近くにするものもいた。何れにしてもこのように雪山の生態系はできているのであった。イエティは夜にやってくるジャコウジカの群れを好ましく思わなかったが、自分が雪山から下って、木の実を持ち帰るときには、ジャコウジカの分も確保しておくのであった。そういう訳でジャコウジカもその場に居着き易くなっていた。
ある日、イエティはふと思って自分の棲家を後にすることにした。また戻ってくるかどうかはあまり考えていなかったが、時にはこの賑やかな場から離れたく感じた。夜に出発してから山を降りてそれから南の浜辺まで辿り着いた。見渡す紺色の海は規則正しく波を揺らめかせていた。海に向かってイエティはしばらく佇んでいた。回りを見渡してもイエティのほかに動いているものは波しか見られなかった。やがて空が明るくなるとともに、イエティは眠くなり砂浜で仰向けで気持ちよさそうに眠っていった。しばらくは夢のなかを彷徨っていたが、突然夢を壊すかのようにゴゴゴと地鳴りが響いた。なんだ!?と咄嗟にイエティは目を覚ました。すると、目の前にはイエティの身の丈の2倍は上回る体長のイカが現れていた。イエティは初めて見る生き物を見上げてはその場で固まっていた。この世界には、自分とは別の行動をする生き物が存在することはイエティには十分にわかっていた。その遭遇は事件でもあり奇跡とも呼べるのだった。凡そお互いが動物である限り、究極的には発見と別離、これしか互いの間柄にはないのだろう。別離までの間どのくらいの時間をともにするかは個体差によるのである。特別な関係であろうと、イエティはこの大きなイカを見つけてしまった。しかし、イカはなぜここに現れたのだろう。イエティを獲物と見つけたのだろうか。この大イカ、ここに現れたのは習慣に過ぎなかった。毎朝、この砂浜に現れては潮が引いて現れている貝類を食事としていたのだ。言うなれば、イエティが見つけたと思っていた偶然のイカは、実はここにはよく現れているのである。イエティこそがよそ者であり、移動した来訪者であった。
大イカは見上げているイエティを見下ろしたが、すぐに辺りに散らばってる貝類を集めようと足を振り回した。びゅん!と風を切り、まるでムチのようなイカの足にイエティはぞっとしたが、気にしていないのはイカの方で貝類を集めては、ムチのような足を振り下ろして見事に貝を割るのであった。身が剥き出しになるとイカは食事を始めたが、どうもじっと見ているこの毛むくじゃらのイエティがいるから食事に集中できなかった。こいつは何か腹が空いているのかと、わざと割った貝を少し残して、大イカはまた足をバビュンと振り回しては別の場所へ移動した。イエティは大イカが、横で食事している音を聞きながら、目の前に残っている貝の身が何も手つかずの状態なので手でつまんで食べた。こうして大イカとの共生関係が築けたのであった。
それからイエティは、この浜辺で夜はぐうと寝ては早朝、大イカの食事を分けてもらうのであった。しばらくそんな月日が続いたが、ある夜にイエティが寝ている時、上空からヘリコプターが通っていた。ヘリコプターのドアが開くと乗組員は木箱を持ち上げてひっくり返した。箱の中身は下にパラパラ落ちていった。無防備に寝ているイエティの体にぶつかり、イエティはその痛さに唸り声をあげた。
「グルウ」
目を覚ますと、砂浜に散らばってるのはキラキラしたガラス玉だった。空が明るくなってくるとイエティはガラス玉を覗き込んでみて震えた。あるガラス玉には、衰弱したイエティが写っていて次第に皮が剥がれ骨だけの姿になっていた。別のガラス玉には見知らぬ人と踊っているイエティが写っていた。また別のガラス玉にはジャコウジカがイエティの棲家で過ごしている様子が写されていた。これらはイエティが存在しているその先の有り様が写されていた。自分の死ぬ姿を見てしまったイエティはとても不快なじたばたしたい思いに駆られた。大イカが現れた時にはイエティは落ち着いていたが、この日を境にイエティは砂浜から別のところへ行くことにした。貝をまた食べてはイエティは大イカに微笑んだ。その意味がこれまでの感謝でお別れだったことを大イカが気づいたのはいつもいたイエティが二度と現れなくなったのを知ってからだった。大イカは寂しさを感じただろうか。叩き割った貝を大イカはすべて食べる日々に戻っていった。イエティは元の棲家に戻ろうか迷ったが、なにか西に引き寄せる気配を感じそちらへ移動した。そうして人の集まる集落に辿り着いたのだった。