見出し画像

【エッセイ】あなたが生きていること、それだけで。

 近年「承認欲求」という文言が、ネガティブな文脈中で使われ出して久しい。

 やれ、それはただ承認欲求を満たしたいがための行動だ、やれ、あいつは承認欲求の塊だ、等。

 SNSでちょっと良いことがあった報告をした程度でも、そんなリプライが付くことがある。

 そういった書き込みや文章を見かける度、私は首を傾げざるを得ない。

 そもそも、現代社会において、承認欲求が全くない人間なんていないのではないか…私はそう考えるからである。

 誰しもが認められて嬉しくないはずはないし、褒められて腹が立ったりもしないはずだ。

 認められたい、褒められたい、価値を見出されたい、誰もが多少なりとも持っているであろう欲求で、本能の一部と言っても過言ではないだろう。
 考えようによっては、食欲、睡眠欲、性欲の三大欲求に次ぐものではないか、と言ってしまったら極論になるかもしれないが、何かしらそれに近いものはあるような気はする。

 ちなみに、承認欲求がない人として讃えられるのは、自分で自分の価値をきちんと認められるから、他人にひけらかしてまでわざわざ褒めてもらうことをしない人…総括して言うとそんな印象を受ける。

 確かに自分で自分を認めることができて堂々としていて、かつ謙虚な方は素晴らしいとは思うし、自分を大事に扱える人は人も大事にできる傾向にあるので、人として尊敬に値する。

 しかし、だ。批判を覚悟の上で言ってしまえば、そんな方々に承認欲求が全くないかと問われれば、答えはノーであろう。

 どんな聖人君主たる人間であっても、承認欲求というものはどこかに潜んでいる。
 他人に賞賛されたり、認められたりして、気分が悪いはずがないのだから。

 しかも、どんなに自分の価値をしっかり自分で認められている人であっても、実は他人からの承認、賞賛の方が嬉しかったりもするものだ。

 であるから、そんな誰でも当たり前に持ち合わせている「承認欲求」が、SNS投稿等で多少垣間見えた程度で誹謗中傷の根拠としてあげつらうなぞ、極めてナンセンスなことなのである。

 お腹がすいた、眠い、人肌恋しい…そんな呟きに対して、いちいちしたり顔で「〇〇欲を満たしたいだけ」と嘲笑や誹謗中傷のリプライをつける人がどのくらいいるであろうか。
(※例外として、最後の一つに関しては表現ひとつ間違えただけで犯罪となる場合もあるので注意が必要ではあるが)

 さて、主題である「誰かの役に立てたこと」から話は大きく逸れてしまったようであり、一方で私はそれを「承認欲求」というものとまったく切り離して考えることができないことでもあると思う。

 誰かの役に立てたこと、というテーマを提唱して下さった方には非常に申し訳ないのだが、人は何か特別なことをしないと役に立たない生き物なのだろうか、と極論であることを承知で私は問いたい。

 本来、人は誰もが「生まれてきたこと、生きていること、存在したこと」それだけで充分に何かしらの役には立っている、私はそう思う。

 どんな悪人でも、一瞬たりとも悪人でなかった瞬間がないかというとけしてそうではないだろう。
 そして、何かと議論の的にされがちな社会的弱者、たとえば生活保護を受けている方々等も、人として生きているのだから、誰か、何かの役には立っているのだ。

 人は誰もが、生きているだけで何かしらの役には立っている。

 知らぬ間にそれぞれに役割が割り振られ、きちんとそれに呼応するような役割の人と引き合わされるようになっている…。
 しかし、多くの場合本人たちにはそれとは気づかれない。

 何故ならそれこそが人の営みの根幹を司る「神の台本」に沿ったものであり、いわゆる「人智に及ばぬ領域の話」になってくるからだ。
 それらの理(ことわり)は、全てを人間に知らせてしまってはいけない決まりでもあるのだろうか、あまりそこまで掘り下げた話をすると、信じるか信じないか…の世界になってしまうので、今回はこのくらいにしておこう。

 しかし、時々、それに気づいてしまう人間もおり、私も他ならぬそのひとりであるが、それは何も私が特別な力があるからというわけでは勿論ない。

 誰もが、そこに気づく可能性は持っている。 
 ふとしたタイミングであったり、何かの出来事であったり、様々な方法で気づく時は気づくのだ。

 たとえば、それはネガティブな出来事かもしれない。

「お前なんて何の役にも立たない、ただの穀潰しだ」

 これは恥ずかしながら私が散々言われてきたことである。
 言われたその時は当然つらく悲しかったし、腹も立った。
 また、何の役にも立っていないのに食べるものは一人前に食べるとは何たる悪徳、というその意味に、罪悪感すら覚えた。

 しかし、数日経つと、そのくらいの心の傷であればかさぶた程度にまで治癒してくるため、大概言われたことすら忘れてしまう。

 すると、誰かの冗談に笑えるようになり、嬉しいことに喜び、自然に明るい感情も戻ってきた。

 そんな時、当時の勤務先であった居酒屋で、数年来の付き合いになる店長…この方は同郷であり、そのご縁からか普段から何かと気にかけてくれてはいたのだが、その男性がこう言ったのだ。

「遼ちゃんが、そうやって屈託なくカラカラ笑ってると本当にホッとするよ、な、みんな!」

 すると他のスタッフたちも口々に言い始めた。

「やっぱりみしまさんは明るく笑ってた方が綺麗ですよー」

「遼子さんの笑顔と笑い方、あたし大好きなんです!元気出ますからね!」

「どうせなら笑い飛ばして明るくいこうぜ、みしまの揚げ物の盛り付け、結構嫌いじゃないよ、俺」

 普段滅多に褒めない厳しい料理長までもが、ひねくれた言い方ではあるが、褒めてくれた。

 特別なことは何もしていない。その居酒屋で私が役に立つとすれば、シフト通りに勤務することであったが、私は当時、それすらもままならなかった。
 大病を患ったあとの易疲労感が続いていたため、当日欠勤も少なくなく、あの店長でなければとっくに解雇されていたはず…ある意味穀潰し以下とも言える存在であったのだ。

 しかし、私は役に立っていた。ただ明るく笑っているだけで、ホッとする人、元気が出る人たちがいたのだ。

 その時、どこかで、誰かから聞いた言葉、

「人間、生きていれば必ず何か役に立っている、どんなに役立たずに見える人間であろうと、必ず」

 それが深く、深く腑に落ちたのだった。

 今でもその居酒屋勤務時の店長や、同僚たちとは繋がりがあるが、彼らには感謝の気持ちを忘れたことがない。

 話を承認欲求に戻す。昨今、この承認欲求というモノが盛んに取り沙汰されるようになった要因は、

「人は生きているだけで、必ず役に立っている」

 という概念を知らずに生きている方、信じられない方が増えており、かつ、

「誰かに認められなければ役立たず」
「何か具体的に人のためになることをしなければ人間失格」

 そういった、ネガティブな視点からの承認欲求を持ってしまう方も同時に増えてしまったからではないだろうか。

 まあ、冒頭で書いた通り、承認欲求とは誰もが多少なりとも当たり前に持ち合わせている感覚ではあるが、それはあまりに膨らみすぎると苦しくなってしまう危険性も孕むので、そこは気をつけた方が良い。

 人間、承認されればそれは嬉しいだろうが、生きていく上で必須ではない、あなたは生きている、それだけで何らか役には立っているのだから、安心して、誇りを持って今日も明日もそれからもずっと生きていけば良い。

 私はもしかつての自分のように、役立たずの穀潰しと言われたり、承認欲求という文言を以って傷つけられ、悲しむ人がいたら、そう声をかけたい。

 結論として、肝心の私が誰かの役に立てたこと…いや、現在進行形で立っていること。
 それは、何度か遭ってきた死に目に打ち勝って、今、生きていることに他ならない。

 やはり人は誰もが、生きているだけで必ず何か役には立っているのだから。

 せっかくなので、大好きな極論で締めさせていただくが、そこはどうかご容赦頂きたい。

 極論好きは、20歳前後から大学のレポート等で、教授から揶揄半分でたびたび指摘されてきたことであるが、それすらもひょっとすると、誰かの、何かの、役に立っているかもしれないのだから。

#誰かの役に立てたこと

いいなと思ったら応援しよう!