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【小説】雨の刃に傘の盾を・前編

「夏の終わりの雨は刃となり この胸深く貫く」

 何度聴いても果てしなく暗い曲である。しかしそれでも何度も聴いてしまう…かつての音楽メディアとして主流だったLPレコードとやらなら、とっくに擦り切れているであろう。

 西條可那子という「伝説の歌姫」の異名を持つ歌手の「雨の刃」という曲だ。
 ジャケット写真には、白いワンピースに、長い艶やかな黒髪で顔の半分を隠した女性が、雨に打たれながら天を仰ぐ姿が写っている。勿論それが西條可那子その人である。

 2003年発表の曲であるから、20年近く前の曲であるが、もっと古いようにも思える、気だるく、どこまでも闇に満ちたメロディーと歌詞。
 彼女は、作詞作曲もする、いわゆるシンガーソングライターであったが、そもそも彼女が好んで聴いていた曲たち、つまりルーツとなった音楽は雑誌のインタビューに掲載されていたが、それは彼女の年代にしては古めだった…恐らく彼女自身の作品にレトロさを感じる理由はそこだろう。

 西條可那子は、当時23歳くらいだったが、既にこの世の人ではない。彼女は、この曲を出した数ヶ月後、不可解な事故に巻き込まれて亡くなった。
 2階建てのアパートの1階に住んでいたはずの彼女が、なぜか2階の空室で、何かの弾みで落下したらしい電灯の下敷きになった状態で発見されたという。
 争った痕や暴行の形跡もないことから、事故と断定されたらしいが、一部のファンの間では本当は殺されたのでは、という噂も流れたようだ。

「いつまでそんな暗い曲かけておくの、ただでさえ雨続きで気が滅入るのに、余計に暗くなるじゃない」

 妻の友香が忌々しそうに私のiPhoneを取り上げ、音楽を停止させる。

「人のスマホ勝手にいじるなよ、いいじゃないか別に、俺の趣味なんだから」

「あのねぇ、音楽っていうのは、こうやってかけっぱなしにしておくと、聴きたくなくても耳に入ってきちゃうの。壁に絵を"かける"のとは訳が違うんだから。そんなに聴きたければイヤフォンでどうぞ」

 まったく、趣きというものがわからない女だ、しかも上手い喩えだと思っているのかわからないが、いらない言葉を並べ立ててただでさえうんざりな嫌味をさらに際立たせやがるとは性根が腐りきっている…と腹を立てながら私は友香の手から自分のスマホをひったくる。

 この女はいつもこうだ。私のやることなすことケチをつけ、そのくせ自分は好き放題。

 私が花を飾れば、花粉やら匂いが体に障るからと言って、不承不承捨てることになったり、同じ勤め人なのに自分ばかりが家事をやるのはおかしいと言いだしたので、私が食事を作ると、不平不満の連発だった。

 そのくせ、ハイブランドだか何だか知らないが、明らかに化学調合されているであろう、珍妙な香りのする香水を嫌というほど体に振りかけるし、私の料理を批判するほどには料理上手でもない。むしろ白米だけ炊いて、あとはスーパーの惣菜ばかり、そんなことが多いのである。

 上司の紹介での見合いの上で仕方なく結婚したにすぎないので、初めからお互いに夫婦としての愛情など皆無に近く、冷え切ったままの関係をよくもまあ15年近くも続けて来られたものだと、我ながら不可思議に思う。

 当然、夫婦としての関係は数えるほどしか持ったこともなく、そのどれもが互いに義務的でおざなりなものだった。そうなると子供ができるはずもなく、共働きで自宅で共に過ごす時間が短くなかったらとっく別れていたであろう。

 その時、私のスマホのLINE着信音が鳴った。送り主を確認する前に、本能的に画面を妻の目線から外す。
 尤も、LINEの通知というのは、メッセージであれば、送り主がわからないような通知の出し方もできるので、そこまで警戒する必要もなかったが。

 開いてみると、リリカからだった。行きつけのクラブでいつも指名する女だ。

「今夜、ちゃんとお店に来てよね、アサミさんのバースデーイベントなんだから」

 営業メッセージにしては馴れ馴れしい文章を送ってくるリリカとは、実は既に深い関係にあった。

 因みに、メッセージにあるアサミとは、店のナンバーワンの女性にして一番の古株、他の女たちの取りまとめ役でもあり、ボーイさんも頭が上がらないほどの存在だという。
 そんな女性のバースデーイベントに、自分の一番の上客を呼ぶのは、半ばその世界では義務のようなものらしい。

 中央線の吉祥寺駅の北口を出て、正面のサンロードの方には向かわず、右手方向に見えるヨドバシカメラの横の細い路地を少し入ったところに、リリカの勤めている「クラブ・ミロワール」はある。

 リリカは自分では21歳と言っていたが、実際はもう2、3歳は上なのでは、という気がしていた。当然彼女の前でそれを口にすることはなかったが。

 新宿の職場と、自宅のある国分寺への途中駅である吉祥寺は、仕事帰りに寄るのにはちょうど良く、最近はそのままリリカのマンションで朝まで過ごすことも少なくなかったが、妻はそれを知ってか知らずか、もはや一晩帰らないくらいでは咎められることもなかった。

 リリカは、本名を石川ゆう子といった。往年の歌手と同姓同名である。"子"がつく名前は近頃では珍しくなってきたため、リリカは割と気に入っているらしい。
 しかし、店に入る際に例のアサミによって、リリカと名付けられ、その名前で働くよう命じられたという。それほどにアサミという女性の勢力は強いようだ。

 妻にせっかくの休日を邪魔された私は、自室に引きこもろうかと思ったが、リリカからのLINEにより思い出した夕方からの吉祥寺行きの準備のため、出かけることにした。

 イベントと銘打たれたナンバーワン嬢のバースデーとあっては、いくら指名客でなくとも、手ぶらではまずい。
 同時にリリカへの贈り物も見繕って置こう。何だかんだアサミの顔を立てているようで、自分には何もない…となると、すぐに臍を曲げる程度には、リリカは幼い一面があった。

「ちょっと出かける。今日は帰らないかもしれないが、気にしなくていい」

「行ってらっしゃい」

 気のない声である。友香にとっては、私が帰宅するかしないかなど大した関心ごとでもないのだ。
 どこへ行くか尋ねられることもなければ、気遣いの言葉もない。
 そして、けして目を合わせない。いつもその視線の先は、スマホかパソコン、或いはテレビである。

 私は、中央線を吉祥寺駅で降りると、中央改札には向かわず、駅ビル直結の改札から駅ビルに出て、そこでそれなりに値段のするシャンパンと、アサミへ贈る赤いスカーフ、それにリリカのお気に入りだというブランドの髪留めを買って、ヨドバシカメラ方面へ向かった。

 いつものように、一歩踏み入れるとガラリと雰囲気が変わり、妖しい灯りがそこここに灯る路地に入ると「クラブ・ミロワール」の分厚いドアを開く。

「いらっしゃいませ、あら真田さん、いつもありがとうございます。リリカちゃんお待ちかねよ」

 リリカよりも少し年上と見える女の子…確かナノハという子だったと思うが…ショートカットに濃い緑色のサテン素材のドレスが印象的なその子に案内され、リリカの待つボックス席へと向かう。

「真田さんにしては早かったじゃない、もし遅れたら、今度サンロードにオープンした本格イタリアン連れてってもらおうと思ったんだけどなぁ」
「残念でした、また今度な。今日のところはこれで勘弁してくれ」
「あー、これ欲しかったの!全然いーよ、イタリアンは今度で」
 結局、イタリアンには付き合わされるのか…と呆れつつ、いつものことだ、と流しておく。

 するとリリカは突然心配そうな顔になって私の袖を引っ張って、耳元でこそこそ話を始めた。

「真田さん、LINEしておいてナンだけど…日曜の夜に出てきて平気なの?流石に奥さん怪しむんじゃない?」
「平気平気。女房は俺が家にいない方がせいせいするんだ、そういう女だよ」
「案外カンづいていて、酷い目に遭ったりしないよね?」
「ははは、そんな凄まじい裏返しに至るほどの愛情も無いんだから、安心するといい」

 リリカが、酷い目に遭うのを心配している対象が私ではなくリリカ自身であることもわかっていたが、所詮は店の女とその客の関係である。
 それなりの関係がある以上、多少の情はあっても、特に愛しているかと言われればそういうわけでもなかったし、彼女も同様だろう。

 そうこうしているうちに、他の女の子の常連客たちも次々とやってきて、やがてボーイによって、予め重ねてあったであろうシャンパンタワー用のグラスの載ったキャスター付きのテーブルが運ばれてくる。

 そして、店内でもポールポジションともいえる席には、アサミのお客であろう男性が多数、集っていた。

「ようこそおいでくださいました。本日は、私のためにお集まり頂き、誠にありがとうございます。さまざまなお楽しみイベントを用意しておりますので、どうぞ心ゆくまでお楽しみ下さいませ」

 真紅の、肩と背中の大きく開いたドレス姿に、黒髪を大胆なシニヨンに結い上げた女性が、カラオケ用のマイクを手に、まるで演説かのように挨拶をし、深く頭を下げると、来店客たちからは歓声が上がり、盛大な拍手が送られる。

 それが、本日の主役である、アサミであった。
 普段はおろしている長い髪を結い上げた姿は、真紅の斬新なデザインのドレスも相まって、妖艶そのものであり、さすがはナンバーワン、と思ったものだ。

 大饗宴も終わり、客たちはそれぞれアサミにプレゼントを渡して祝いを述べ、帰り支度を始める頃、リリカは例によって私に自分のマンションで飲み直そう、と言って、腕を絡めてきた。

 明け方、帰宅すると友香はベッドで大の字になって寝ていた。

 元来大柄な友香はダブルベッドは狭いから嫌だという理由で早々にセミダブルを2台に変えたのだが、本当は床を共にするのも嫌だったからに違いない。

 今ではそれでよかったと思っているが、私が着替えて自分の方のベッドに入ろうとすると、友香の昨日着ていたと思われる衣類が乱雑に脱ぎ捨てられていた。
 …だらしがない。いつものことではあるが、改めて呆れてものも言えない。忙しいにせよ、生来の気質にせよ、人の寝床は物置ではないことくらい理解して欲しい。

 リリカとの関係をより深めようとは考えなくとも、この女とは早いところ離れたいものである。

 数時間だけ眠った私は、改めてシャワーを浴び、出勤しようとした時、友香が挨拶もなくのっそりと起きてきた。彼女は私よりも出勤時刻が遅いため、今から支度をしても間に合うのだ。
 寝癖でクシャクシャの髪にパジャマのままで大あくびをし、眉間に皺を寄せながら言った。

「朝ごはん、無いの?」
「俺は外で済ませる。君も時間あるならそうしたまえ」

 私は、1,000円札を食卓に置くと、友香は何かぶつくさ言っていたが、聞こえないフリをして、家を出た。

 その日、仕事は順調だったがどうにも友香のいる自宅へまっすぐ帰る気にはならず、退勤するとまた吉祥寺へと足を向けた。
 今日もリリカは出勤しているはずである…少し前に送られてきた今週の出勤日一覧LINEを見ると、確かに出勤となっている。

 私は吸い込まれるようにいつもの路地に入り、「クラブ・ミロワール」のドアを開けようとしたその時、内側から同時にドアを開けた人物がいた。
 あの、店のナンバーワンであり、昨日は両手に抱えきれないほどのバースデープレゼントを受け取っていたアサミだった。
 先日のイベントの時とは違い、普段の結わずにおろしたままの髪型であったが。

「真田さん、ごめんなさい!びっくりしたでしょう?ちょっと煙草を買いに出ようと思って…」
「いやいや、しかしタイミングが合いすぎましたね…リリカはもう出てますか?」

 するとアサミは大きなゴールドの財布を抱えたまま、困ったような顔をして言った。

「ごめんなさいね、リリカ、急遽今夜はお休みになったの。さっき連絡があって、何でも吐き気が止まらないらしいのよ」

 まさか。ひとつの危惧が私の中で渦巻き始めた。しかし、リリカは店の女である。
 そうして付き合っている相手が私だけということもないだろう。しかし、相手がわからないとなると自分も十二分に危うい立場にいる…

 そんなことを考えつつまごまごしていると、アサミが、リリカの急欠勤のお詫びに、今日は指名料なしで私に付いてくれると言ってくれた。

 ボーイにマルガリータとビールを持ってくるよう告げ、私の隣に座る。
 艶のある、一本一本が細いであろう長い黒髪は、まるで絹のようで、一見釣り上がっているかに見えて、実は目尻が少しだけ下がっている、特徴的な切れ長の目。
 どこかで会ったことがあるかのような安心感。
 私は改めて、この女にだったら誰もが惚れてもおかしくないな…と思った。
 間もなく銀のトレンチに2杯の飲み物を乗せてボーイがやってくる。

「お待たせ、じゃあ、乾杯しましょ。頂きます」

 アサミはマルガリータのグラスを私のビールグラスの真ん中辺りに当てると、一気に飲み干した。

 まずいな、この調子で飲まれたら支払いが足りるかどうか…私は一瞬焦ったが、彼女はそれを見抜いたかのように言った。

「大丈夫、真田さんに負担はかけないわよ、私、これだけは飲めるけど、本当はお酒はあんまり飲めないの。いつも焼酎の水割りと称して水しか飲まないから。それに、真田さんは本来はリリカのお客様だし」

「そうだったんですか…じゃあこの前のシャンパンタワーの時は…」

「あの時、実は私、ほんの少ししか飲んでないのよ、あとはお客さんや他の女の子たちが喜んで飲んでくれたから助かったわ」

 意外だった。店のナンバーワンにして裏番とも言えるようなこの女性が下戸であるとは。
 先程飲み干したマルガリータも殆どリキュールを入れていないのかもしれない。

 その後、アサミはずっと私に付いてくれた。
 不思議とその日、彼女の指名客が一人も来なかったのはリリカの急欠勤のためのピンチヒッターだったとも考えられるが、それならナンバーワン嬢であれば、急遽出勤になりましたとの営業LINEくらい送るのではないか…。


 …はて、私は飲みすぎたのだろうか、どんな流れでそうなったのかは覚えていない。しかしミロワールの閉店後、気がつくと私とアサミは南口のホテルで、並んで横になっていた。

「アサミさん、こんなことって」
「まあ、野暮なことは置いといて。リリカには黙っておくし、バレやしないわ」

 寝物語にアサミは、本名は野川亜紗子であること、現在33歳で、10歳上の姉がいたが、随分と昔に事故で亡くしたこと等を話した。

 地方の出身らしいが、東京に出てきたのは中学生の頃、両親が離婚したしばらく後、母親が新しくできた恋人を追って出て来る際に、一緒について来た形であったらしい。
 母親は、結局その恋人とは結婚しなかったが、そのまま東京でアサミと暮らし続けたという。

「あなた、本気でリリカに惚れてはいないでしょう」

「何だ、藪から棒に…まぁ、お店でのお気に入りで、時々朝まで過ごすことはあるが、惚れているかどうかは別の話だよ」

「そうよね、あの子、見た目はあの通り可愛いけれど、ちょっと物欲が強すぎるからせっかくお客さんがついたと思っても、すぐ引かれちゃうの」

「でも、お店の女の子って多少なりともそんなところなんじゃないのか?で、その物欲に応えちまう俺みたいなのがいるから、儲かるんだろう」

「まあね、真田さんは珍しいとは思ったわ、よくリリカに付いてくれるな、と。おかげであの子も続いてるから、ありがたいと思ってる。物欲に関してはさっき話した通りだし、まだまだ幼いところもあるから、ちょっと危なっかしいけれどね」

「確かに、ちょっとヤキモチ焼きかもしれないな。でもそんなところがまた可愛いじゃないか。なんて、アサミさんに言うのもおかしな話か」

 アサミは、布団の中で私の腰に腕を回すと、耳元で言った。

「大いに結構よ。リリカは私にとっても大切な子だし、今日も看病に行こうか、って言ったくらいなの。でもあの子、それを固辞するのよ。何故かしら。まぁまず遠慮からじゃないわ」

 それは、妊娠の可能性を悟られたくないからでは…と思ったが何も言えずにいると、アサミに先読みされてしまったようだ。

「真田さん、お店に入る時、リリカの急欠勤の理由を聞いて何か考えたでしょ。顔に書いてあったわよ」

「やっぱり、そういうことなのか…しかし、ミロワールで彼女を指名するのは…あっ!」

 さっき、アサミから聞いたばかりだった。
 リリカは可愛い顔をしているので、気に入られる事は多いが、強すぎる物欲や、年齢の割に幼いところがあり、継続的な指名客が付きにくく、現時点では私ひとり…。

「しまったな…覚えがないでもないし…」

 言いかけて、アサミに唇で唇を塞がれた。長くも短くも感じたその接吻の後で、アサミはふふっと笑いながら言った。

「ごめんなさい、ちょっとビビらせ過ぎちゃったかしら。大丈夫、リリカの吐き気は単なる食あたりよ。あの子、何度説明しても賞味期限と消費期限の区別が付かないみたいで、今日も消費期限のとうに切れたお弁当食べちゃったらしいわ」

 私は胸を撫で下ろしつつ、今度は私がアサミを抱き寄せた。30を過ぎているにしては、リリカよりもすべすべとした肌が気持ち良い。

「何だ…本当に一瞬頭が真っ白になったじゃないか。アサミさん、意地悪が過ぎるってば」

「本当に悪かったわ、だけどそこまで焦るってことは、本当にリリカには気持ちがないのね。ただ、奥さんとの生活は息苦しくて仕方なくて、でも本能だけは抑えきれない…正直で良いじゃない。私、実はそんな真田さんがちょっと気になってたの。だからつい意地悪しちゃった」

 私は、店のナンバーワンで、毎回指名したらとんでもない額の出費になるであろう、誕生日は店をあげて祝われるほどの女と、一夜にして一線も二線も越えてしまったことに、夢心地にも似たものと同時に贅沢ゆえの恐ろしさのような感覚をも覚えていた。

 それからは、何だかリリカに気まずくなり、なかなか店に行く気にならなかった。
 とりあえずあの日、アサミと別れた後でリリカに体調を気遣うLINEは送ったが、本当に食あたりを起こしたらしい彼女の返信は素っ気ないものだった。

 以後、どういうわけかリリカから営業メッセージも個人的なことも、送られてくる数が少なくなった。
 アサミとのことが知れたかとも思ったが、そうであればリリカの性格上、感情的な電話の一本くらいは寄越すはずであることは想像に難くないから、そうではないのであろう。
 第一、アサミが自分から話すことはまず無いし、誰かに見られていたとも考えにくい。
 私たちは、あの日別々に部屋を出たのだから。

 アサミともLINEは交換していたが、さすがは多くの客を抱える女とあって、メッセージを送っても、返信は早くて数時間後だった。

 その後、不思議と残業が増えたり、退勤後に緊急を要する用事で呼び出されたりと、店に顔を出す時間を作るのも難しくなり、あまり気乗りはせずとも、ひとかけらの愛情も持たない妻の元へ帰るしかなくなった。

「ただいま」
 私はいつものように形だけの声がけをする。

「おかえりなさい。遅かったわね。夕食、冷蔵庫に入れてあるから、悪いけどレンチンして食べて」

 そして最近、理由はわからないが友香の機嫌がやたらと良い。
 帰宅のタイミングが異なるので作り置きにせざるを得ないのだろうが、食事も作るようになったし、洗濯物も放り出す事なく片付けて、毎日掃除もしているようだ。

「あなた宛に郵便来てるわよ。天掛からみたい」

「ああ、ありがとう。親父の法要の件だな」

 天掛(あまがけ)市では、伯父が隠居のような形でひとりで暮らしているが、父も母も亡くなったいま、事実上の実家となっている。
 父は、若い頃に故郷を家出同然で飛び出した後、東京で仕事と家庭を持った。
 生涯の殆どを東京で過ごしたため、亡くなると、葬儀こそ東京で行ったがどういうわけか伯父の意向で墓所は故郷へ、ということになった。
 私も、父が亡くなるまで関わることもなかったその土地へは、父の墓参りや法要に赴くのみだったし、父が亡くなったのは2年前であるから、まだ何度も行ってはおらず、馴染みも深くはない。

 ちなみに母は、7年前に亡くなっている。
 両親は私が小学生の時分に離婚しており、母は私を父に託して、というよりも押しつけて早々に出ていってしまい、以後会うことはなかった。
 そんなわけで、母にはそこまでの思い入れもなかったが、再会のきっかけがまさかの危篤の知らせとは、何とも皮肉な話である。

 父も父で、私が25になるかならないかの頃だったと思うが、いい歳をして恋人をこさえ、再婚の話まで出ていたことを思うと、母親がまだ幼い私を置いてまで出ていった理由は自ずとわかるような気がした。
 相手の女性はシングルマザーで、確かサエコさんと言った。
 結局再婚には至らず、サエコさんの姿形も印象もあまり記憶に残ってはいないが、彼女の子供の中学生くらいの女の子が、ただただ暗い表情をうかべているばかりの陰気な子だったことは妙にはっきりと覚えている。

 ふと友香を見ると、風呂の支度をしているらしく、脱衣所で忙しく動いていた。

 浴室か…私はありし日の、大輪の真紅の薔薇を浮かべたような浴槽と、芳しい香りをありありと思い出していた。

後編へ続く

※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは一切関係ありません。

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