「まじめに力を抜いて」by セカイイチ / 「強さ」と「弱さ」
「まじめに力を抜いて 気楽に僕を見失って」
という歌詞がなぜかずっと記憶に残っている。
最近子どもを育てていたり、仕事をしていたりして、この歌詞が伝えるメッセージがとても大事なんだなと実感することが良くある。
若い頃、バンドを組み、全く結果は出なかったけれど、本格的に音楽活動をしていて、割といい歳までずっと音楽を続けていた。
そんな中で、好きで良く聞いていたし、ライブにも結構何回も行っていた「セカイイチ」というバンドの、初期の曲で「フォーク」という曲がある。
セカイイチで好きな曲はたくさんあるけれど、今でもたまに冒頭の歌詞が歌われているサビのメロディーを、つい鼻歌で歌っていることがある。
好きになった当時はすごく歌詞に共感したというよりは、どちらかというと明るくノリの良い曲調やメロディーに惹かれていたのだと思う。
子どもを育てるうえで、「これが正しいこと」「こう対処すれば良い」「伝え方はこうするのが良い」などなど、前の記事でも書いたが知らず識らずのうちに思い込みが自分の中で幅を利かせている。
これは「思い込み」という「力が入っている」という事とも言えるのではないか。
「思い込み」という「力が入っている」状態と
セカイイチの歌詞で歌われている「力が抜けている」状態
このことについて考えてみたい。
「強さ」と「弱さ」
力が入っている状態を「強い」、力が抜けている状態を「弱い」と捉えると、人に何かを伝えること、表現としての動作など、強さや弱さによって、伝わり方が変わってくると感じている。
過去に音楽をするうえで実感したことや、その難しさについてまとめてみる。
例えば
・歌を歌うこと
感情を込めて歌うより、感情を込めずフラットに歌う方が、聴く側にとっては感情移入しやすくなる。と言われることがある。
自分でも確かに、喉の調子が悪く、感情を込めず、ただただ丁寧に素で歌ったときの方が、聴いてくれた人から感情が伝わったと言われることが良くあった。
※この感情を込めるということは、一種のパフォーマンスとしての感情を込めるということで、フラットに歌うといっても自然と感情は入っているものだと思っている。
ただ、難しいのはパフォーマンスとして感情を込めた歌い方をしたときの方が、伝わったと言ってくれることも、これはこれで良くあった。
プロの方などから見たら何言ってんだと思われるかもしれないが、この感情を込める(強い)と感情を込めない(弱い)に最終的に自分の中で正解は出なかった。
・声(歌)の届く距離
力を入れて歌うと、遠くに届かない。逆に力を抜いて歌うと遠くに届く。響くと言ってもいい。
力を入れて歌うと必ず体のどこかに負荷がかかって、知らないうちに声にブレーキがかかっている。
逆に力を抜いて歌うと体のどこにも負荷がかからず良く響くことで遠くまで届く。
分かりやすく言うと、喉に負担がかからない口笛がとても遠くまで聞こえるのは、このことが要因なのだと思う。
・音楽の激しさ
音楽を激しく聴かせたいときには、音数を多くしてうるさくすることでも可能だが、音を無くす(無音)ことや、間をうまく入れ込んでいくことで、より効果的に激しく感じさせることが出来る。
・歌詞の内容
歌詞の内容も、言いたいことをストレートに表現してる歌詞と、言いたいことを間接的に表現している歌詞でも伝わり方は変わってくる。
では子育てに当てはめてみると
子どもに何かお願いをするとして、ストレートなお願い(力が入った状態)ばかりしても、聞き入れてくれないことは日常茶飯事だ。
子どもに関することや、子育ての考え方などは、思い込み過ぎる(力が入った状態)と、自分の視野も狭くなるし、子どもにも押し付けてしまうようになる。
これらのことについて、意識的に「力を抜いて」みることで変わっていくことがあるのだろう。
かといって、子どもに愛情を伝える場合には、ストレートに「力が入った」わかりやすい表現の方が、子どもには伝わりやすかったり、喜んでもらえることも多い気がしている。
「感情同室効果」と「誘導効果」
「強い」「弱い」とは少し違うかもしれないが、受け取る側の感じ方に関して身近なことでいうと2つの効果があるらしい。
「感情同室効果」
悲しいときに、悲しい音楽を聴くと、気持ちが同調して癒やされる。
「誘導効果」
悲しいときに、楽しい音楽を聴くと、気分を盛り上げてくれる。
どちらも音楽を聴くことでプラスの感情になる。
逆にマイナスの感情になってしまうこともある。
自分はどっちのタイプかと考えてみると「誘導効果」の傾向がある気がする。人それぞれ大枠としてどちらかのタイプに分けられるのかもしれないけれど、聴く状態や、気分、環境などでもう一方の音楽がハマるときがあるものだと思う。
「コンテクストデザイン」
要するに、受け取る人、状況によって受け取り方が違う。
「強い」「弱い」も同じように結局の所、受け取る側によって感じ方は変わってしまう。
この受け取る側の感じ方、解釈の仕方についてデザインをとおして表現している「コンテクストデザイン」というものがある。
個人的にただのファンなのだけれど
Takram 渡邉 康太郎さんが取り組んでいるデザインやブランディングの考え方である。
コンテクストデザインで語られていることを、自分なりの解釈だけれど引用したい。
コン(共に) + テクスト(編む)
強い文脈 : 作者の意図や評論家の意見など
弱い文脈 : 受け取る人の自由な解釈や誤読
この両方の文脈を行き来しながら、共存するようなものづくり
完成されたものを届けるのではなく一部余白を作ることによって、受け取り手の自由な解釈を見出し、自分のものとなる。自分ごとになる。
ただ単純に余白のあるもの、不完全なものをつくるのではなく、その余白をつい埋めたくなってしまうような、最後の一筆を入れてもらうような補助線まで設計したものづくり。
この考え方がなんでこんなに好きなのかと考えてみると
もともと音楽を通して難しく感じていたことが、コンテクストデザインではわかりやすく言語化されていて、とても腑に落ちたからなのだろうと思う。
この中で、特に良いなと感じていることは「最後の一筆を入れてもらう補助線」である。
子どもとの接し方やコミュニケーションにおいてもとても大事なことなのではないだろうか。
「強い」アプローチだけ
「弱い」アプローチだけ
ではなく、「強い」「弱い」を行き来すること。
相手のリアクションを導くような補助線を、コミュニケーションのなかでどう引いていくのか。
テクニック的なコミュニケーション術でも似たようなことはあるのかもしれないが、どちらかというと、心構えとして補助線を意識することの方が、大事な気がしている。
自分の経験やいろいろな考え方を見てみると、「強い」「弱い」のどちらかが良いということではなく、どちらも必要で、相手ありきなことなのだから、状況判断をしながらバランスをとっていくニュートラルな自分でいることが大切なのかなと思う。
このような結論に自分なりに落ち着いたのだけれど、いろいろな思い込みが幅を利かせている現状で、実際に「力を抜け」と言われてもそう簡単にはできないし、難しいことでもある。
だからこそセカイイチは
「力を抜いて」ではなく、「まじめに力を抜いて」と歌っているのではないだろうか。
「まじめ」に取り組まなければ力は抜けないということなのだと思う。
最後に、この「フォーク」という曲の中で歌われている別のフレーズを紹介して終わりにしたい。
「僕が僕に戻っていくために」
「地図にない出口があるぜ」
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