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安楽死させてあげたら、なんて簡単に言わないでほしい #9

少し前に実家に行った時のこと。

父にりょうたの病気の話をした。

可哀そうだ。痛くないのか?安楽死させてあげたらどうだ?
というようなことを言われて、ついカッとなってしまった。

会話を続ける気にならず、さっと帰宅。

まだ生きる気のある(ように見える)りょうたに、死をもたらすって何なんだろう。

痛みはコントロールできないから、それが楽にさせてあげる方法なんだろうか…。

様々な思いが、浮かんでは消えていく。

私の中の怒りが治まったころ、実家で飼っていた柴犬のことを思い出した。

子どもの頃、6年ほど一緒に過ごした。

最期は病死だった。

それは自然死だったけれど、飼い主だった父は、今の私と同じように心を痛め、何ができるのか考えていたのかもしれない。

安楽死という言葉を簡単に発したのではないのかもしれない。

私の心が、安楽死という単語に衝撃を受けただけ。

まだ、生きると信じたいから。

その後病院に行ったときに、痛みで鳴き続けたり、苦しいようだったら安楽死も視野に入れましょうと言われた。

1回考えたことだったからか、それとも先生の提案だったからか、肺がんや骨肉腫は痛みが激しいと具体的に聞いたからか、心がざわつくことはなかった。

豆柴りょうたの闘病日記 9




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