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昭和のマセガキ回想録

時期はかぶっていないが同じ私立小中学校に通った友人がいる。少し前、彼女が久々に母校を訪ねたといって写真を見せてくれた。ところが、見てもぜんぜん「懐かしい」という感慨がわかなかったので自分でもびっくりした。なんたって校門からしてまったく見覚えがない。私がその学校を卒業したのは45年も前の話だから、校舎設備はすべて一新されていて当たり前だろう。そして私はこの45年間、一度も母校を訪れていない(たしか)。付き合いのある同窓生もおらず、母校という言葉を使うのも憚られるくらいだ。

ただ、写真に面影は感じなくとも、脳裏には私の覚えている校舎や教室のビジュアルがぼんやりと再生され、一緒に断片的なエピソード記憶も呼び覚まされた。

あれはたぶん小学1年のとき。私たちは平仮名のあ・い・う・え・おを書く練習をしていた。書き順を正確に覚えるため、赤、青、黄の鉛筆を用意させられ、1画目は赤、2画目は青、とやらされたのだが、いちいち鉛筆を持ち替えるのがそれはそれは面倒だった。すごくバカバカしく理不尽なことをやらされている、と感じた。私は幼稚園のときすでに自分の名前を漢字で書けるようになっていたのだ。教室で色鉛筆と格闘する私の顔には、「こんな練習アホらしい」と大きく書いてあったはず。先生にとっては実に嫌なマセガキだったに違いない。

そしてあれもたぶん同じころ。道徳かなにかの時間で、私たちは食事のマナーを教わっていた。先生は、モノをかじるときは歯形が丸く残らないようにせよ、と言った。そして、歯形に丸くかじりとられたタクアンがどれほどみっともないかを示すため、黒板にチョークで絵を描き始めた。それはいいのだが、先生、歯形の凹凸をそれはそれは丁寧に描くのである。私には、その凹凸でできた弧が完成するまで永遠にかかるかと思われた。それを見つめながら、「口で説明すればわかるものを、この待ち時間はまったくの無駄ではないか?」と感じたことを鮮明に記憶している。きっと顔にもそう書いてあっただろう。ほんとにマセガキだった。

そしてこれも同じころの同じ教室。みんな自分の机でお昼を食べているときのことだった。前からI君がストローをもって机の間を歩いてきた。そして私の横で立ち止まると、このストローの先、舐めてみな、と言った。私はマセていた割に素直だったので言われたとおりに舐めた。「わーい、こいつ俺の鼻くそのついたストロー舐めたー」。私は号泣。先生がやってきてI君は叱られた。そういえば靴箱の靴を隠されたりもしたかもしれず、私はそのたびにメソメソしていたような気がする。今から思えばイジメとも言えない、他愛もないいたずらだが、子ども本人にとっては大問題だ。I君は、なぜ他の子ではなく私のところに来てそんなことをしたのか……。うーむ、きっと何か隙があったんでしょうな(笑)。

昭和40年代、小学校に麻疹やおたふく風邪はあったけど新型コロナはなかった。もちろんタブレット端末もAIもなかった。ワープロもコピー機もまだなく、学級新聞は手書きのガリ版刷りだった。でも、子どもの感性というものは、昔も今もそこまで変わってないんじゃないかと思う。きっと今でもクラスに一人はいるんじゃなかろうか、私のような泣き虫のマセガキが。

バラの季節@近所の公園

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