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武将の道も現代の私たちの道にも共通した大切なことを逸話集「武将感状記」にみる
こんにちは、両兵衛です。
ここでは現代の私たちにも通じる戦国逸話を取り上げています。
戦国武将の逸話集は、戦乱の時代が終わった後の江戸時代以降にまとめられものがほとんどです。そんな中の一つに江戸時代中頃に刊行された「武将感状記」があります。
この「武将感状記」の中に、これまでこのnoteで取り上げてきたような武将個人の逸話でなく、武将としての道について著者の考えをまとめたものが載っていたので取り上げてみます。
だいたい諸国を斬り従え、あるいは天下の将軍となる武将には、つねにその行動が大義名分に則っていることが、必要である。大義名分とは、人間として守るべき節義と分限をいうのだが、これを忘れた武将には、大きな功績は、とうてい望めない。
はやい話が、豊臣秀吉である。
明智光秀が、主君の織田信長を攻め殺したとき、豊臣秀吉は弔合戦(とむらいがっせん)と称して、さっそく蹶起(けっき)した。そしてその行ないは、大義名分にかなっていたから、おおくの武将の共力を得、またたくうちに光秀をうち取ったばかりでなく、天下の大権をさえ、その手中に納めることができたのである。
中国地方の武将に、陶(すえ)尾張守隆房(たかふさ)、のちに改名して、晴賢(はるかた)というものがあった。
この晴賢が、主君の大内義隆を攻め殺したとき、蹶起したのは、大内家の部将、毛利元就である。
亡君の仇を報ずべく蹶起した毛利元就の行動には、大義名分が備わっていたから、近隣の軍卒がわれもわれもと毛利家の陣営に参加。やがて首尾よく晴賢をうち亡ぼし、中国地方十ヵ国あまりを領有するほどの大大名に、毛利元就は出世したのである。
と、こんなふうに述べてくると、豊臣秀吉にせよ、毛利元就にせよ、ひどくりっぱな武将にきこえるか知れないが、実際にはかならずしもそうではない。
彼らが唱えた大義名分は、主君の仇を報ずるときだけの空念仏(からねんぶつ)にすぎなかった。いったん仇を報じてしまえば、あとは知らぬ顔。人間としての、道に外れた行ないが、彼らには多かった。
もっとも空念仏にしても、彼らがそれを唱えたのは、事実である。
そして、その空念仏を唱えるだけのことで、やはり天下に敵がなかったとすれば、もし…である。もしも唱えるのが空念仏でなく、主君の仇を報じたのちもやはり、すべての行動が、大義名分に則っていたとしたら、どうであろう。
天下の政権がその武将の手に帰すのはもちろん、彼一代だけではなく、子々孫々にまでながく伝えられ、一門の栄えも、永久に持続するのではなかろうか。
豊臣秀吉と、毛利元就を比較したばあい、武将としての出世ぶりでは、むろん秀吉のほうがすぐれていたが、しかしそれだけのこと。一歩、彼らの心中へふみこんでみれば、どちらもが人間の道にはずれていたのだから、どちらがどちらとしても、いいきれたものではない。
もっとも細かい点をまで、いろいろ較べてみようとすれば、やはり元就は、とおく秀吉におよばなかったと、ある人が話していたのは、ただしい評価である。
秀吉と元就についての評価は、江戸中期の著者の考えがこうだったんだというのが知れて面白いです。ただ、秀吉に対しては、まあ確かにと思うところはありますが、元就に対してはちょっと厳しい気もします。
ここでは大義名分があるかどうかと表現されていますが、何かを成し遂げるためには、その行動にはどんな理由があるのか。その理由に共感した人に応援されて成し遂げられるもの。さらにその大義名分が変わらなければ、一過性で終わらずに済むと。
何のためにやっているか、ということが大切であるという考えは昔も今も変わらないものなんですね。