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ムチャ振りして思い通りに引っ越しを進めた信長の逸話

こんにちは、両兵衛です。

みんなで新しいことを始めようとすると、中には必ず反発する人がいます。それでもリーダーとして進めないといけない人は大変ですね。今回は、織田信長がそんなときどうしたかという逸話をご紹介します。

信長といえば、必要に応じて居城を次々と変えていったことで知られています。那古野城、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城とこれだけ多くの引っ越しをした戦国大名も他にいないのではないでしょうか。

信長が尾張国(愛知県)の清洲城に居て、美濃国(岐阜県)の斎藤氏を攻めていたころのこと。

ある日、美濃を攻めるにあたり居城を移そうとしていた信長は、家臣たちを連れて山中の高山、二の宮山(愛知県犬山市)へ登った。

「ここに城を造る。皆ここに屋敷を移せ」

と言って、あちらの峰は誰、こちらの谷は誰と屋敷地の割り振りを行った。清洲というのは尾張の真ん中で交通の便もよく富裕な土地であった。家臣たちは、不便な山中に屋敷を引っ越さなければならない不満を言いながら清洲へ戻った。

そのようなことがあった後、今度は信長は

「二の宮山は捨てがたいが、やはり小牧山に城を築くことにする」

と言い出した。

小牧山(愛知県小牧市)は清洲からもさほど離れておらず、麓まで川が続いており家財道具を運ぶのにも便利な土地である。家臣たちは信長の気が変わらぬうちにと喜んで一斉に小牧へ移った。

最初から小牧山移転を言ったとしても家臣たちは不平不満を言います。だから信長は最初、不便な二の宮山への移転を言い出しました。

この話は後世の逸話集ではなく「信長公記」という信長の側近が書いた資料に出てくる話です。本当にこんなやりとりがあったのでしょうね。

信長というと、家臣たちに有無も言わせず強権的になんでも推し進めていた独裁者のイメージがありませんか。実際のところ、それだけでは人は付いてきません。こんな人心掌握術も使えたからこそ、羽柴秀吉や明智光秀といった有能な家臣が付いてきたんでしょう。

ただ、それでも本能寺の変が起きるわけですから難しいですねホントに。


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