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羊と男の孤独のはなし ~村上春樹『羊をめぐる冒険』を読み返して~

 村上春樹を最初に読んだのは高校生の頃。高校時代で唯一面白い授業をしてくれた非常勤の先生が、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の面白さを説いた時だった。「この人が言うんだから間違いない。」と読んでみたのだが、普通に面白く読み終えてしまい、それっきりであった。当時は本について話す人もいなかったし、誰かにわざわざ言うことでもないと思っていたのか、いや、本当は本について語らう友達が欲しかったのかもしれない。
 
 大学生になって、サークルで文学部の女の子が後輩になった。会話の中で「本が好き」と言うと、すぐに意気投合した。話しているうちにその子は村上春樹が好きだと言うことがわかった。
高校の頃、『世界の終わりと〜』を読んでそれっきりだった自分は、『羊をめぐる冒険』くらいは手をつけようかなと思い立った。

 村上春樹が書く小説というのはどこまでも男性的だと思う。どこまでも男の目線で書かれているし、出てくる女性は舞台装置でしかない。村上春樹の理想の女性なのか、モチーフが何なのかは知らないが「また抱いた女の話かよ!」とツッコミを入れるのは恒例行事である。
 でも、男性目線で描かれてるからこそ、自分にとっては嫌わずに読めるということも自覚している。好みというか性癖というか、そこに差異はあれど、村上春樹の描く主人公の感覚は、無意識に理解できるような気がする。

 『羊をめぐる冒険』で気に入っているところを聞かれると少々悩む。それは羊に限らず、村上春樹という作家のどこがいいのかを考えることに等しい。
 おそらく、男性的な孤独を演出するのが一際上手いのだろう。この羊にしても、主人公がいつまでも実質孤独である点は気に入っている。妻と称する女性がいようとも、一人で物思いにふけようとも、主人公は本質的に孤独だ。羊に至っては、物語のラストの行動とかを見ると「こいつも救われないんだな」と思ったりする。これを「拗らせてる」の一言で片付けてしまうのは味気ない。男なら、一度はシンパシーを感じる孤独である。

「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしてるんだ」

村上春樹『羊をめぐる冒険(下)』

 村上春樹が好きな人にはお馴染みの鼠くんのセリフだが、彼の語る羊の正体は、大学の頃は全く訳がわからなかった。ただ、今読み返してみて、結局街から逃げ出してしまった鼠くんの気持ちだけは少しわかったような気がする。
 世間に接続して、その虚しさに絶望したのではないだろうか。であれば、羊の正体は「迎合を求める世間」だろうか。残念ながら、考察は趣味じゃない。おそらく羊の解釈は年齢と時代によって変わるんじゃないだろうか。『アナーキーな王国』って、今ならインターネット社会のことだろうか、やれやれ(やれやれなんて、生まれて初めて言ったかもしれない。)。

 さて、なんでこのタイミングで『羊をめぐる冒険』なのかというと、久しぶりに村上春樹が読みたくなって、この前『ダンス・ダンス・ダンス』を買ってきたからだ。今の心境的に、村上春樹なんか読んだら孤独に苛まれるんじゃないだろうかなんて思ったりもするが、たまには自分の孤独に向き合ってみてもいいのではないだろうかという気持ちのほうが強い。自省の意味を込めて読むのが、自分にとっての村上春樹の読み方なのかもしれない。

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