愛を美しくするためには、愛はみにくいものと知ることが必要なんじゃないかという話~日日日『みにくいあひるの恋』を読み直す~
学生時代、狂った様にライトノベルを漁って読みまくった時期がある。名作と呼ばれるものから、毎月出る新刊まで、とにかく買って読みまくった。あの勢いに任せてただ読み続ける感覚は、読書というよりも摂取に近かったかもしれない。
(あの暴飲暴食のようなライトノベルへの没入は、やがて食傷気味になり、新作ライトノベル達を見限っていった。これはまた別のお話。)
ただ、狂った様に読む中で、だんだんと自分の中で、ライトノベルに限らず、読書という行為に求めることが分かり始めたのもこの時期である。そのうちの一つが「その本を読む前と読んだ後で、違う人間になっていること」である。何を言っとるんだと思われるかもしれないが、こちらとしては大真面目である。学びでも、傷でもなんでもいい。読了後に、自分や世界が変わってる感覚が欲しいのだ。もしくは、自分の中だけに“問い”だけを残して、それについて深く考えたいのだ。そして、この感覚をライトノベルで最初に味わったのは日日日の『みにくいあひるの恋』だった。
全4巻から成るストーリーは1巻目と4巻目だけを比較すると、まるで雰囲気が違う。1巻目は、流行りの美少女と美男子(男の娘とかいう単語は、一体いつから出てきたんでしょうね。)のドタバタ学園ラブコメといった感じでスタートするのだが、このお話の舞台となる世界は「人は恋をすると死に至るようになり、世界中でたくさんの人が死んだ。」「そして、医学は敗北し、恋は病名となった。」と設定されている。この設定を伏線として、その後4巻までお話が展開する。
お話の内容はさておき、この作品で1番気に入っている、あるいは“傷つけられ、問いを残した”部分は、クライマックスの次の一文である。
コレだけ言っても、ストーリーのネタバレにならないのだから、やはり秀逸な一文だと思う。この作品をえらく気に入ったせいで、他のライトノベルで当時流行りだった、「ラッキースケベ満載!主人公は無条件でヒロイン達にモテまくる!」みたいなラノベやマンガをキライになったのではないかと思っている。思春期だったのもあって、「恋とは?愛とは?」みたいな事について、必要以上に思い馳せるのが好きだったのだろう。
では、今再びこの作品を読んでみるとどうか。
やはり、物語終盤からクライマックス、エピローグへの流れは今読んでも飽きない。本当に、全てを裏切ってくれる。恋や愛は、エゴや醜いものと表裏一体であると言うことについて、ソフトだがちゃんと描写されている。
まあ、もっとフランクに言うと、クライマックスはみんなとち狂ってて、「意味がわからない」を通り越して笑えるレベルなのだが、世の中の愛と呼ばれるものについて考えるには、ユニークな投げかけであるとも思えてくる。
物語にすると、愛はどうしても美しく語られるし、現実でも多くの人が「恋は、愛は美しい」と信じたいはずだ。ただ、実際は愛と称して奇行・凶行に走るヤツもいるし、愛ゆえに、非合理な判断をしてしまうのが人間だ。そう考えると、このお話の主人公たちの選択も、馬鹿には出来ないかなと思うのだ。
さて、実際の生活を振り返ると、昨今多くの人によって語られる愛だの恋だのの話には、すこし飽きているのが正直なところだ。みんな恋や愛を幸せとイコールで結ぶことに躍起になっているし、同じ味しかしない「恋愛=幸せ」の図式を押し付けることすら“シェア”と称する厚かましさには、少々ついていけない。
そう考えると、たまには『みにくい愛が、美しい恋に勝るおはなし』を、ライトノベルを通して味わってみるのも、結構乙なものなのかもしれない。