文学研究の視点から見るナイキCMの炎上理由
ちょっと前にナイキのCMが話題となっていましたね。CM自体に対する意見は人それぞれですが、内容そのものには賛同したという人でも少なからず違和感を覚えた人は多かったのではないでしょうか。
今回はその違和感の正体を文学研究の視点から探っていきたいと思います。
1. CMの内容
語りの間が多くてメッセージが汲み取りづらいため、とりあえずスクリプトを書き起こしてみました。
時々考えるんだ。私って何者? 出来ることなんてあるの? 私、期待はずれなのかな? 普通じゃないのかな? このままでいいのかな? 全部無視できたらいいのに。私、浮いてる? もっと馴染んだ方がいいのかな? ここにいちゃダメなの?(先生:みんな注目。今日は転校生を紹介します。)みんなに好かれなきゃ。我慢しなきゃ。気にしないフリしなきゃ。(生徒:〜(聞き取り不能)は関係ないじゃん! 母親:学校だって大事なのよ! 生徒:他の子と一緒にしないで!)今までずっとそうだった。それが当たり前だって思ってた。でも、そんなことないかもね。ないね。ないでしょ。ありえないって。いつか誰もがありのままに生きられる世界になるって? でも、そんなの待ってられないよ。(テロップ:動かし続ける。自分を。未来を。You can't stop sport/us)
登場人物は3人の女子生徒で、中学生か高校生かは不明です。全員の持つ共通点はいじめ/人種差別を受けていることとスポーツをしていることです。
内容は3人の女子生徒の日常の短いカット(映像)で構成されています。カットの内容は、学校でのいじめ/差別、親との衝突、そしてスポーツです。
学校や家庭で辛い思いをしている彼らですが、スクリプトで僕が太字にした「でも、そんなことないかもね」という一人の主人公の台詞からトーンが変わり、スポーツを通して自己実現を果たしたような、そしていじめや差別を克服したような示唆的なカットの連続で終わりを迎えます。
2. プロットの「型」
ではここから文学研究、特にプロット分析の知見を利用してCMの物語の特徴を分析していきたいと思います。プロットとは語り手によって組み立てられた物語(ストーリー)の筋のことです。
(文学研究では、物語中で扱われている出来事全体をストーリー、それを時系列や視点を工夫しつつ加工したものをプロットと呼び区別します)
このプロットにはある種の型が存在します。言い換えれば、世の中には様々な物語がありますが、その多くは同じパターンに則って書かれているのです。
特に19世紀ドイツの作家/劇作家グスタフ・フライタークによる「フライタークのピラミッド」は、どんなジャンルの物語にもおおよそ当てはまる型として現在でも文学研究のプロット分析では必ず取り上げられています。
フライタークのピラミッドはプロットを以下の7つのパートに分類します(視覚的に分かりやすい方がいいので、Freytag's pyramidと画像検索してみてください)。以下ではミステリー小説を例に解説します。
1. 提示(exposition)
これは物語の世界を読者に紹介する冒頭のパートです。物語の舞台(時代・場所)や主な登場人物などが提示されます。
2. 崩し(inciting / destabilising incident)
提示部で示された世界のバランスを崩す出来事が起こります。例えばミステリーでは殺人事件の発覚などがこれにあたります。
3. 緊張感の高まり(rising action)
物語の中の緊張感が徐々に高まっていきます。新たな被害者が出たり、重要な証拠が見つかったりしていきます。
4. ターニングポイント/クライマックス(turning point / climax)
物語の緊張感が最高潮に達し、最も手に汗握る瞬間です。ここを境に物語は解決に向かいます。
(英語ではクライマックスと呼ばれることが多いですが、日本語でクライマックスといえば「最終局面」という誤解を招きやすいのでターニングポイントとします)
ターニングポイントでは事件の核心が暴かれます。確固たる証拠が見つかり殺人犯が特定されます。
5. 緊張感の緩和(falling action)
ターニングポイント以降、物語の緊張感が落ち着いていきます。犯人が自供を始めたり細かな伏線が回収されたりして、事件に付随する謎が解けていきます。
6. 解決(resolution)
事件が解決します。犯人が逮捕され、物語は再び安定した世界へと戻ってきます。
7. 結末(conclusion / dénouement)
ここでは事件解決後の世界が提示されます。世界のバランスが安定しているという意味では提示のパートと変わりませんが、その世界には冒頭で示された世界とは少なからず変化していることが一般的です。それは世界の物理的な変化であったり、主人公の内面の変化だったりします。
3. CMが失敗したこと
プロットの型を踏まえた上で、いよいよナイキCMの違和感の正体に迫っていきましょう。
結論から言ってしまうと、その正体とは以下の一文に集約されます。
ターニングポイント以降の物語が希薄であり、それにより「いじめ/人種差別」と「スポーツ」の関係性が不明瞭なまま終わっている。
CMは全部で2分ありますが、主人公らの葛藤を描くいじめパートが1分半であり全体の3/4を占めています。そして「でも、そんなことないかもね」という語り以降の残り30秒のみが、彼らがスポーツを通してポジティブに変化していくパートとなります。
プロットの型を思い出していただくと「でも、そんなことないかもね」の部分がこの物語のターニングポイントになっているのがお分かりになるかと思います。
この物語の問題点は、ターニングポイント以降があまりに短く、さらにスポーツが実際にどう役立ったのかという具体的なエピソードが示されていない点です。そのため、いじめ/差別の克服に訴えかける挑戦的なスタンスをとっている割に、いじめ/人種差別の克服とスポーツの関係性を明確に言語化/映像化できていないのです。言い換えるなら、いじめや差別の解決にスポーツがどう貢献できるかが曖昧なままだったのです。
Abemaの特集で五味さんが述べたように、問いは立てられていたが答えがなかったのです。確かにスポーツを通して差別を乗り越えたアスリートはいたんだろうけど、CMはいじめ/差別体験を描くことに終始して、彼らがスポーツを使ってどうやって乗り越えたのかが提示されていませんでした。そこにナイキなりの答えが提示されていれば、(その賛否は別にして)視聴者に対するメッセージとして一応は完成していたのではないかと思います。
まとめ
結果としてこのCMから我々が受け取れるメッセージは「日本にはいじめや人種差別がある。でもスポーツすればOK!」というあまりに適当で軽々しいものでした。そのためネットでも「外国企業から日本には差別が多いと言われたようで気分が悪い」という論点のズレたレビューや、「善人ぶっているけど結局は商品売りたいだけでしょ」というメタ的な感想に終始してしまったのではないでしょうか。
ターニングポイント以前と以後の尺バランスを整え、またスポーツがどう役立ったのかという具体的なエピソードが盛り込んであれば、物語のメッセージは明確化され説得力は大幅に増していたことでしょう。
まあプチ炎上みたいな形であれ普段より話題になったのだから、ナイキとしては結果オーライって感じでしょうけどね(笑)。
今回は文学研究の「プロット分析」を用いてCMの中の物語を可視化し、その特徴を解明してきました。文学研究は役に立たない学問の筆頭のように思われがちですが、その知識を使えば世の中に溢れている物語をより分かりやすく、より深く理解できるようになります。そしてみなさん自身の人生やそこで起こった出来事も上手に物語化して自分の中に落とし込むこともできるようになります。今後も機会があれば文学研究についても色々と紹介していきたいと思いますので、よかったらフォローしてみてください。