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25歳の振り返り(回顧録)

26歳の境界線を越えたばかりの今、25歳という一年を赤裸々に振り返ってみた。

正直に言うと、この回顧録を綴りながら、これは人様の目に触れるべき内容なのだろうかと躊躇する瞬間が幾度となくあった。

読み終えた後、読み手の心に重苦しい影を落とすかもしれない。

もし、今の気分がそれに合わないなと感じたら、ここで読むのを中断していただいて構いません。むしろ、そうしていただけると僕は安堵する。

この一年は、まるで激流に揉まれるような日々の連続だった。

この回顧録では、その日々の中で、特に鮮明に記憶に刻まれている出来事を言語化してみることにした。

社用PCの紛失から始まった波乱の幕開け

2023年8月21日、僕は25歳になった。誕生日当日の夜、当時付き合っていた彼女の家で、手料理を振る舞われ、ケーキを食べた。幸福のひとときだった。

プレゼントにはAcne Studiosのカードケースをもらい、そのセンスの良さに心から感動したのを、今でも鮮明に覚えている。

しかし、その翌日、事態は一変した。

客先である内幸町に向かうため、彼女宅から出社した僕は、普段使わない京浜東北線で新橋駅に向かっていた。

手には、彼女からの誕生日プレゼントが入ったAcne Studiosの紙袋と通勤バッグ。両手がふさがっていたため、通勤バッグを網棚に置いた。その中には、社用PCが入っていた。

電車の網棚に通勤バッグを置く行為がコンプライアンス上問題であることは、どの企業でも新人研修で周知されている常識だ。(察しの良い方なら次に起こることがたやすく想像できるだろう)

新橋駅で電車を降りた瞬間、網棚に通勤バッグを置き忘れたことに気づいた。

だが、時すでに遅く、無常にも電車の扉は冷徹な機械音とともに閉まり、僕の通勤バッグ(社用PC)を乗せたまま動き出した。

顔面蒼白で、すぐにプロジェクトマネージャーに連絡した。マネージャーは即座に新橋駅に駆けつけくれて、二人で新橋から上りの京浜東北線の各駅にわたり、社用PCの捜索を開始した。

捜索中、マネージャーが「手に持っている紙袋は何?」と尋ねた。

僕は「昨日、彼女からもらった誕生日プレゼントです」と、声を絞り出すように答えた。

マネージャーの険しい表情が、僕の胸に重くのしかかった。

結局、その日は社用PCを見つけることができなかった。

大きな企業であれば、社内にCISRT(セキュリティ問題を監視する専門チーム)が設置されているが、通常業務では関わることがない組織だ。しかし、この一件で、僕はそのCISRTのお世話になることとなった。

翌日、社用PCはJR磯子駅で発見されたが、僕はこの一件が社内のグローバルポリシーに違反したとして、懲戒処分(譴責:始末書の提出を求められる厳重注意)を受けることとなった

置き忘れた社用バック。
手提げタイプなのが罪だと思う。。。

25歳二日目、懲戒処分という人生最悪の「プレゼント」を受け取り、幸せから突き落とされるような幕開けとなった。

超人的上司の突然の離脱

前提として、当時のプロジェクト体制は、マネージャーのA氏(一番えらい)、コンサルタントのB氏(僕の上司)、そしてアナリストの僕(ペーペー)の3人体制だった(厳密には異なるが、ここではわかりやすく簡略化する)。

2023年8月末、突然B氏からプロジェクトチャットに「仕事が忙しすぎて家庭崩壊している」とのメッセージが届いた。

その内容は、A氏に対するレビューの雑さや、僕が担当していた仕事の質の低さについての指摘だった。正直、仕事の質が低いという点については、完全に僕の実力不足が原因であり、申し訳なかった。

最終的に、B氏は限界に達したと判断され、上層部の決定によりプロジェクトを離れることになった。そして、B氏が担当していたすべての業務を僕が引き継ぐことに。なぜなら、他にやる人がいなかったからだ。

B氏はリモートワークを中心にしていたが、驚異的な成果を上げるStrategyのスーパーコンサルタントだった。遠方に住んでいながらも、プロジェクトで多大なバリューをもたらしていた。

そんなスーパーシゴデキな上司がメンタルを崩すのだから、このプロジェクトが異常だったと言わざるを得ない。

僕がプロジェクトに参加して間もない頃、スタッフレベル(コンサルタントやアナリスト)のメンバーが5人も辞めていった。

プロジェクト自体は、何十人もいるような大規模なものではなく、少人数で進める調査研究案件だった。

それなのに、2か月ほど働いてやっとプロジェクトに慣れた頃には、すでに僕が一番の古株になっていた。それだけプロジェクトメンバーの新陳代謝が激しかった。

あまり大きな声では言えないが、提案書提出時には27時間勤務(木曜朝9時から金曜昼12時までぶっ通しで稼働)というなんともダークな匂いプンプンな瞬間もあった。

しかし、幸い僕は、高校時代のハンドボール部で監督から徹底的に鍛えられており、メンタルと体力は丈夫な方だったため、B氏が抜けたことで負担が増えたときも「これから大変になるな」と感じる程度で済んだ。

この経験を通じて、B氏離脱からプロジェクトが終わる2024年3月末までは、B氏の陰に隠れるのではなく、自分からプロジェクトをリードする姿勢を身につけることができた。

時にはクライアントとの定例会議に一人で参加し、ワーキンググループや最終報告会議ではクライアントの経営層や外部の理事クラスが参加する中でスピーカーを務めるなど、B氏がいなくなったことで、ストレッチする機会を得た。

2024年1月には、僕の元に部下がアサインされ、上司としてのbehaviourを学ぶきっかけにもなった。

部下ができたことで、B氏に迷惑をかけていたことや、マネジメントの大変さを改めて痛感した。

体力的に厳しい時期ではあったが、上がいなくなることで(本来なら実力で上を退かすべきだが)、否が応でも自分を成長させる機会を得ることができた。今では、この経験が大きな学びとなったなと。

これからも、いかにして上を退かし、自分のプレゼンスを発揮するか、というコンサルタントらしいバキバキなマインドで仕事に向き合っていきたい。

香港旅行 - 友情とカジノとピンポン

2023年11月23日から26日まで、前職の同期であるふみや、こうきと香港へ旅行に行った。このメンバーは、2023年のGWにロサンゼルスとラスベガスを回った、いわば「海外旅行のお決まり」のトリオだ。

アメリカ旅行の時は、円安の影響を受けて、旅費が合計80万円という笑えない額に膨らんだ。

だから、今回は「リーズナブルな旅にしよう」という暗黙の了解があったし、「カジノで一発逆転」なんて無邪気な期待もあったから、マカオにも行ける香港が目的地に選ばれた。みんなIR(統合リゾート)が大好きだしね。

時期的には、僕とふみやがちょうど彼女できて少し経った頃だった(ちなみに、ふみやは今でもうまくやっているらしい)。だから、これまでのように「男だけの自由な旅」はもうできないかもね、なんてちょっとセンチなムードが漂っていた。

「これが最後の海外三人旅かもね」とかこうきが言っちゃうあたり、なんとも青春っぽい。いや、少し違うか。

出国前の成田国際空港でこうきが呟いていた
こうき(左)、ふみや2.0(中央)、ワイ(右)

僕には「海外でだけギャンブルOK」という謎の自己ルールがある。そこで、香港の隣にあるマカオでカジノに挑戦。選んだのは、あのベネチアンマカオ。ちなみに、宿泊もベネチアンマカオで、これが驚くほど良かった。お金さえあればもう一度行きたいと思う。

前回のラスベガスでは、見事に負けてホテルのベッドでふて寝した僕だが、今回は違った。勝った。そう、勝ったのだ。

なんだか気分が良くなった僕は、その勝ち銭を握りしめて、香港に戻ったあと、マンションのピンポンを押していた。
…いや、本当に最高だった。

クルージングも楽しんだし、百万ドルの夜景も拝んだし、エッグタルトも美味しかった。結局、何をしても三人でいれば楽しかった。

ナイトショーのクルージング
こうき(左)、ふみや1.0(中央)、ワイ(右)

最愛の祖父との別れ

2024年1月9日、母方のじいちゃんが天国へ旅立った。じいちゃんは82歳だった。現代では少し若いのかもしれない。

つい最近までは、じいちゃんがいつまでも元気でいてくれると信じて疑わなかった。ちょっとエロかったし。

2020年6月、大学四年生だった僕は、単位も取り終え、大学はコロナの影響でオンライン授業が基調だったため、一人暮らしをしていた大学近くの部屋を引き払って、じいちゃん家に転がり込むことにした。

僕が大学2年の時に、実家が引っ越しをしたため、実家に僕の部屋がなくなったのもあってじいちゃん家に転がり込ませてもらった。

こうして、じいちゃんとの二人暮らしが始まった。

僕は、平日9時〜18時で福岡で一番ふざけた会社(もちろん、良い意味で、、)でのインターンに明け暮れていたため、じいちゃんは、僕の代わりに朝ごはんと夜ごはんを毎日用意してくれた。

だけど、当時の僕は青二才で、連絡も入れずに朝帰りを繰り返し、じいちゃんが用意してくれた夜ごはんを無駄にしては、よく怒られていた。

今振り返ると、じいちゃんの愛情を踏みにじり、迷惑ばかりかけていた自分に呆れるばかりだ。

大学に入ってから一人暮らしをしていた僕にとって、じいちゃんとの暮らしは久しぶりに誰かと過ごす日常だった。

じいちゃんは、家族の中で最もパワフルな存在で、ソフトボールと相撲を生涯スポーツとして楽しんでいた。現役では、ベンチプレスを130kg、70歳を過ぎても90kgを上げ、腕は僕の2倍もあるゴリラのような体格だった。

そんなじいちゃんが長年のタバコの影響か、癌を患ってしまった。パワフルで無敵だと思っていたじいちゃんも、病気には勝てなかった。

最後はゴリラみたいだった太い腕も見る影もなく痩せ細ってしまった。

2024年1月2日、じいちゃんの82歳の誕生日だった。正月でもあり、家族みんなが集まってじいちゃんを囲み、お祝いをした。

82歳の誕生日のじいちゃん

じいちゃんはすでに酸素濃度が低く(あのコロナの時に指に装着して測るやつ)、酸素のチューブをつけていたが、みんなの前では一切苦しそうな顔を見せず、いつもの笑顔で僕たちを和ませてくれた。

そんなじいちゃんは、どんなに苦しい状況でも、最後まで家族を思いやり続けた。まさに家族の中心だったじいちゃん。

そのじいちゃんが天国に旅立ったのは、2024年1月9日。正月の帰省を終え、東京に戻ってすぐのことだった。

慌ただしく福岡にとんぼ返りし、じいちゃんの葬式に参列した。じいちゃんの葬式には、職場のOB、ソフトボールや相撲の関係者、ご近所の方々など、家族以外にもたくさんの人が駆けつけてくれた。そして、みんなが涙を流していた。

その時、じいちゃんがいかに多くのコミュニティに属し、その周りの人々を大切にしていたかを初めて実感した。

多くの人がじいちゃんの死を悼んでくれるのを見て、僕もこんな風に、周りの人に大切にされる生き方をしたいと強く思った。

それから僕は、健康についてこれまで以上に意識するようになった。だから、ジムでのトレーニングもさらに熱が入った。悲しい気持ちも、ジムでがむしゃらに筋肉をいじめている間だけは、少しだけ紛らわせれた。

メンタルが丈夫な僕でも、25歳の年に3度のきつい経験をした。そのうちの一つが、じいちゃんの死だった。

2024年8月の初盆には、じいちゃんとあーちゃんに線香をあげた。

じいちゃんとあーちゃんが安らかに眠れるように、そして、家族がこれ以上天国のじいちゃん達に心配をかけないようにするねと、伝えた。

彼女との別れ

誕生日を祝ってくれた彼女と別れた。

ポケモンで例えると、メンタルの種族値はピカイチだし、個体値もVだし、努力値も全振りしているという自負はあるのにも関わらず、結構メンタルにきた。

これが25歳の年に3度のきつい経験の2つ目だ。

ノンタイトル4のオーディションに参加

彼女と別れて暇を持て余していた僕が、元々いつかは起業したいという想いもあり、またそこに打ち込める時間が重なったこともあり、YouTubeで見ていた「ノンタイトル」という起業リアリティショー(ビジネス版テラスハウスみたいな)に応募してみようと思ったのが2024年3月初旬のこと。

応募時のビジネスモデルのポンチ絵
応募時のビジネスモデルでのマネタイズ方法

応募してみたら、意外にも書類選考を通過したというメールが来た。メールには、「●●駅のWeWorkで一次オーディションをやるから来てね」との内容が書かれていた。

ちょっと怪しい気もしたが、書類応募1000人超の中から残ったと聞くと、急に貴重な機会に思えたし、折角ならこの機会に飛び込みたいと思い、一次オーディションに行くことにした。

会場に行くと、そこには50人の強者たちが集まっていて、僕はその中で一番弱そうだった。

びくびくしながらも、5人ずつのグループに分けられ、集団面接が始まった。

僕の順番は最後だった。みんなの話を聞いてから発言できるというアドバンテージを活かし、「他の人とは全くかぶらない長所」をアピールする戦略をとった(伝えたのは以下の内容)。

  • SEやってたので、システムの要件定義から設計、プログラミング、テストまで全部できる

  • AI利活用が得意で、どの業務も一定の品質でこなせる

  • コンサルで論点整理やロジカルシンキングもバキバキに鍛えられている

  • 何より、やり遂げる胆力とマインドがある

少々誇張もあるが、自分を大きく見せることに徹した。なんと最終オーディションまで進むことになった。

最終オーディションには、男女10人ずつ計20人が残っていて、そこからさらに3人ずつが番組メンバとして選ばれるというもの。残ったメンバーは、みんな強そうな年上の経営者ばかりで、キャラが濃すぎて空気が重かった。

最終オーディションはディベート対決だった。男女に分かれての対決だったが、人見知りを存分に発揮し、特に女性との口論にめっぽう弱い僕は、バリューゼロのお荷物となり、爪痕を残せず見事に落選した。

それでも、最終オーディションで朝倉未来さんに会えたのは良かった。生で見ると、やっぱりかっこよかった。

不思議な経験ができてよかったな、と思っている。

父、血液癌を患う

2024年7月頃、父が急遽入院するという連絡が家族からあった。
実は、半年ほど前から血液癌を患っていたらしい。

そんな大事なことを、まったく聞かされていなかったから驚いた。姉に聞いてみると、姉は知っていたようだ。

遠くに住んでいる僕には心配をかけたくなかったらしい。とはいえ、突然過ぎて、言葉の意味を理解するのに時間がかかったし、なんでそんな重要なことを今まで黙っていたのかという怒りも湧いてきた。

祖父を亡くして間もないのに、なぜ父まで癌にかからなければならないのか、このコントロール不能な現実に対するやるせなさと苛立ちが一気に押し寄せて、感情がぐちゃぐちゃになった。

でも、父がこういう病気になるのは、わからなくもなかった。父の生活は、健康とは程遠いものだったからだ。

僕が小学2年生の頃、父は独立して起業した。それ以来、オフィスに寝泊まりしたり、家に帰ってきても深夜2時か3時。土日も関係なく働き続け、生活リズムも食生活も、まるで健康とは無縁の働き方だった。

小学生から高校生まで、僕が朝家を出る頃には父は寝ており、僕が寝ている頃に父が帰ってくる。

同じ家で暮らしているのに顔を合わせることが滅多になかった。父と出かけた記憶も数えるほどしかない。

孫の彩葉(姉の娘)が生まれてから、家族との時間を欲するようになったのか、従業員に仕事を任せ、自分の稼働を緩め、家族との時間を持つようになった。

しかし、僕はすでに大学生で一人暮らしをしていたため、父との交流はほとんどなかった。

そんな父だから、長年、家族のためとはいえ、己の健康を犠牲にしてきた結果がこれなのかもしれない。父の容態が気になるし、帰省する予定のなかった2024年のお盆に、急遽福岡に帰ることにした。

これまでの帰省は、友人とばかり遊び、家族には数時間顔を見せるだけだった。恥ずかしながら、僕の中での優先順位は仕事>友人、恋人>>>>家族だった。

キャリアを最優先にし、家族のことを疎かにしすぎていた自分に、今更ながら気づかされた。

突然、父とあとどのくらい会えるのだろうかと、残された時間を数えるようになった。この状況にならなければ、気づけなかった自分が情けない。

思い返せば、この半年、毎月父から本が送られてきていた。何の意図かは不明だったが、もしかすると、不器用な父なりに、自分の死を見据え、息子である僕に何かを伝えたかったのかもしれない。

照れくさい思いを抱えながらも、本を通じてメッセージを伝えようとしていたのではないかと思った。そして、一昨日もまた本が届いた。

その中には、父の父、つまり僕の祖父の名刺も入っていた。父方の祖父は僕が生まれる前に他界しており、仏壇の写真でしか見たことがない存在だった。

なぜ父が祖父の名刺を送ってきたのか、その真意はわからない。でも、きっと自分のルーツや伝えていなかった祖父について知ってほしかったのだろうと思った。

父から贈られてくる書籍と祖父の名刺

父は癌治療を続け、手術を行い、腫瘍を取り除いた。

ただ、ようやく安心できるかと思ったのも束の間、術後の検診でまた同じ場所に腫瘍が見つかった。

「僕から父を奪わないでほしい。」

神様や占いなんて一切信じない僕が、昨日、初めて癌封じのご利益のある烏森神社に行って「父を奪わないでくれ」と祈った。

新橋駅近くの烏森神社
癌封じのご利益あり

世の中には、コントロールできることとできないことがある。

大事なのはそれを見極め、コントロールできないことは潔く諦め、コントロールできることだけをどうコントロールしていくかに注力すべきだという考えを持っているが、今回ばかりはコントロールできないこの現実をどうしても受け入れられない。神にすがるしかない。

非合理的で、イケてないとは思うが、この気持ちはどうにも理性ではコントロールできなかった。

父が血液癌を患ったことが、25歳の年に3度のきつい経験の3つ目だ。

父の闘病生活、病は気からという言葉もあるし、父の気持ちが参らないように、家族で支え合うと決めた。

26歳を迎えて

一年間の振り返りを終えて、意外にもネガティブな出来事が印象に残っていることに気づきました。

しかし、25歳は紛れもなく楽しさと幸せに満ちた一年だったことは揺るぎない事実です。

ここには書ききれない、楽しいことをたくさん経験できました。

日立の同期運動会、海外トリオとの四国旅行、マブとの関西旅行、同期との伊豆旅行(カリスマ性のある人狼の誕生!)、スポッチャやBBQ。それぞれが楽しかった記憶として心に刻まれています。

あと、美容にも注力し、ポテンツアの痛みやホワイトニングの意外な快適さなど、やってみて初めて分かる発見もありました。

そして気がつけば、26歳になっていました。
父が結婚した年齢です。

仕事のキャリアも積みたい、いつかは結婚もしたい、子どもも欲しい。しかし、全然時間が足りないと感じます。

誕生日はタイムリミットが近づくみたいで、昔のように楽しみではなくなりました。誰かに愛されたいけど、そんな大層な人間じゃない。

特別に幸せでなくていい、平凡でありきたりだけど、ありふれた日常の中で、家族や友人など身近な人々を大切にしながら、穏やかに暮らしていく。

そんな当たり前だけれど、尊い日々こそ、本当の幸せなのではないかと、25歳の一年を通じて、思うようになりました

人生観のパラダイムシフトと呼ぶには少し大げさだけれど、しかし、確実に僕の価値観は変化し、人生の見方が一変しました。

そして、そのためには、祖父と父の病を通じて、心身ともに健康的であることが必要不可欠だなと痛感しました。

メンタル面に関しては、生き急ぎすぎず、適度にリラックスしてゆとりある時間を作ること。

フィジカル面に関しては、強靭になるように日々鍛錬することと食事にも気を使うこと。あとちゃんと寝ることも大事だ。

そして、どちらにも通ずるのは、割と本気で筋トレだと確信しています。

筋トレは単に体を動かすだけでなく、筋肉の成長が自信を生み、メンタルの安定にも寄与します。やはり、筋トレは最強のソリューションです。

「筋トレが最強のソリューションである」

X(旧 Twitter)Testosteroneさんのつぶやき

——X(旧 Twitter)でテストステロンさんがつぶやいていた言葉ですが、僕もこの言葉が大好きです。

ただの脳筋かと思いきや論理的に筋トレが最強のソリューションであると提言されている。
こちらは筋トレ好きにはぜひ読んでほしい一冊

この言葉を胸とインスタのプロフィール欄に刻み、26歳の一年を全力で、しかし余裕を持って生きていこうと思います。

激流の中でも、しなやかに、そして力強く泳ぎ続けていくために。

Ryo


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