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蛇人間、生まれる(4) 【長編小説】

蛇人間、生まれる(3)の続き



 僕は本当にゆっくりとゆっくりと、自分自身を変えつつあったのだと思う。いや、より正確に言えば「変える」というよりは、「本来の自分に近づける」といった方が近かったのかもしれない。そう、僕はようやくのことで、自分の中にも透明な流れが――あるいは流れのような何かが――確実に存在することを認識し始めていたのだ。そしてその源泉の近くからやって来たのが例のクジラであり、またそのクジラが持ってきたのが死を含んだかつての記憶たちだった。だからこそ僕はそれらの記憶をきちんと理解しようと努めていたのだ(結局ほとんど理解なんてできなかったわけだが・・・それでも)。僕はこれから源泉を辿るべきなのかもしれないな、と僕は思う。たとえそれがどれだけ孤独な営みであったとしても、だ。



 もっともその間ずっと一人で生きていたわけではない。僕は決して強い人間ではなかったし、そのような行動が必ずしも本質的な解決に向かうわけではないと知っていたにもかかわらず、時折誰かに心から寄りかかりたくなった。人間は一人で生きるべきではないのだ●●●●●●●●●●●●●●●●●、というのが当時自分に言い聞かせていた言いわけだった。僕はある種の中毒患者がアルコールや薬物に手を出すのと同じような具合で、人間との交流を必要としていたのだ。もちろん結果的にもたらされる精神状態はひどいものだったが、にもかかわらず、僕にはまだ死と本当の意味で向き合うだけの強さが欠けていたのだ。俺は何をしているんだろう、とよく思ったものだ。こんなことを繰り返していたら、そのうち自分でも知らぬ間に、ただのボロきれみたいになってしまうんじゃないだろうか・・・? ただ肉体的に生き延びて、精神は擦り減って――話はそこでは終わらない――その結果周囲の人々をも駄目にしていくのだ。そういう人間で溢れているじゃないか? 世の中は?



 僕は一人の女性と付き合ったが、彼女はなかなか素敵な人だったと、今でも思う。三つ年下の、同じ会社の後輩で、僕が別の支社に異動になってから付き合い始めた。たしかに初めて会ったときから、何かがあるような気はしていたのだ。二人の間に共通する何か・・・。彼女は大学を出たての素朴な女の子に過ぎなかったわけだが、それでも控え目な見た目の裏には、簡単に他人の言うことを信用してなるものか、という一種の反骨心のようなものがうかがえた。もちろん今はこのように退屈な――しかし忙しい――保険会社の業務にいそししんでいるわけだが・・・いつかはここから抜け出してやる、という気持ちがその表情からにじみ出ていたのだ。彼女が表面的には真面目を装っているのは、ただそれ以外に生活を維持する手段が見つからない、というだけのことだった。それとかろうじて、ここから学び取れるものはなんでも学び取ってやろう、という姿勢も関与していたかもしれない。いずれにせよ、そのような矛盾した精神状態は僕のものとかなり似通っていた。それでお互いに、お互いのことを、「話の分かる相手」として捉えていったのだと思う。



 彼女は千葉県の田舎の出身で、時折そちらに帰っていた。「私はね」と付き合った当初に彼女は言っていた。「ときどきあそこの空気を嗅がないとね、頭がおかしくなっちゃうの。ここは・・・ほら、ちょっと・・・よどんでいるから」



「淀んでいる」と僕は笑いながら繰り返す。そしてあたりを見回す。コンクリートに囲まれた都会。傘を差して歩く人々。我々はあるチェーンのカフェの店内で、この会話を交わしている。どんよりと曇った秋の始めだった。ほとんど誰一人として、幸福そうには見えない。



「もちろん好きでこっちに住んではいるんだけどね」と彼女は口調を変えて続ける。「あっちはあっちでね、空気は澄んでいるんだけど・・・人々の心が淀んでいるの。止まっちゃっている、というか」



「分かるよ」と僕は自分の実家を思い出して言う。「君は暖かい家庭に帰ることができるけれど・・・そこに留まっている限りどこにも進めない。そういうのに耐えられないんだね?」



「そう」と彼女は頷く。そしてコーヒーを一口だけすする。まずい●●●、という顔をする。「私はやっぱりこっちに来なければいけなかったんだと思う。兄貴もそうだったしね・・・。でもこっちはこっちで、空気が悪い。そしてパサパサし過ぎている。本当はその中間あたりがちょうどいいんだけどね」



「でも君はどこでもやっていけそうだけど」と僕は言ってみる。



「それは、そういう振りをしているから」と彼女は言う。



「振り?」



「そう」と彼女は言う。「だってそうでもしないとやっていけないから。ねえ、分かる? 私の同僚の女の子たちなんか、ほとんど頭を使っていない。就活をして、めでたく採用されて、ああ、あとは上からの指示に従っていればいいんだ、って感じ。そんで、適当な時期が来たら結婚して仕事を辞めるの。あるいは辞めない人は・・・ずるずると仕事を続ける。別にこの仕事が悪いってわけじゃないの。ほかと比べて待遇がひどいわけでもないしね。生活の手段と割り切れば・・・。でもそれってちょっとむなしくない? あなたはどう思っている?」



「虚しいよ。本当に」と僕は苦笑いを浮かべながら言う。「それが本心だ。でも正直なところ、きっと別の仕事をしていたって似たような状況だったろうな、と思う。それでダラダラとこの仕事を続けている。ごめんね、なんか明るい話題を提供できなくて。いつも文句ばかり言っている・・・。でもさ、少なくとも僕に関してはさ、こういう時期を通り抜ける必要があるという気がするんだよ。なんとなくね」



「修行時代」と彼女は言う。



「まあそんな感じかな」



「でもときどきあなたが独立して何をするのか見てみたい気持ちにもなる」



「独立して・・・何をするんだろうね? 僕は」



「何か好きなものはないの?」



 僕は考えてみる。僕の好きなもの・・・。そのときクジラが何かを持ってくる。それは何か白いものの記憶だった。言葉は付与されていない。白いもの。暗闇に、ぼんやりとそれだけが浮かび上がっている。直立していて、ヒトのような形をしていて・・・。「白骨だ」と僕は思わず口に出してしまっている。思わず口をつぐんだが・・・。



「白骨?」と彼女は驚いて僕の目を見つめる。からかっているとでも思ったのかもしれない。



「いや、白骨というか、それは・・・」



「あなたってつくづく変な人ね」と彼女は言う。「白骨が好きなんて。解剖学者にでもなったら?」



「いや、そういうわけじゃなくて・・・」。と、そのとき、その白骨の頭蓋骨の目の穴から、一匹の蛇が這い出てくる。スルスルと、音もなく。真っ黒な蛇だ。しかし目の色が左右で違っている。右目が赤で、左目が青だ。舌を突き出している。そいつがまるで巻きつくように、僕の白骨をすべりていく・・・。



 僕の●●? と僕は思う。僕は今本能的に「僕の●●白骨」という言葉を思い浮かべた。だとすると、あれは僕の死んだあとの姿なのかもしれない。どうしてクジラはこんな記憶を持ってきたんだろう。というかこれは正確には「記憶」ではないのかもしれない。だって僕はまだ死んではいないのだから。こうして生きているじゃないか? 生きて、ガールフレンドとコーヒーを飲んでいるのだ。そんなときに、どうしてこんな暗いイメージを持ってこなくちゃならないんだ・・・?



「今何考えているの?」と彼女があきれたような表情を浮かべて言う。「正直に言ってみて」



「蛇」と僕は言う。「いや、蛇というか白骨というか・・・。ごめん。ときどき変なイメージが浮かんでくることがある。それは突然やって来て・・・意識を支配する。どっちが現実なのか分からなくなることもある。こっちなのか、あっちなのか」



「それって病気じゃないの? 本当は」



「そうなのかもね」と僕はこめかみを押さえながら言う。そのイメージはまだ消えていかない。彼女の顔を見ても、僕にはその皮膚の裏にある白い頭蓋骨のイメージしか浮かんでこない。頭蓋骨がまるで生きているかのようにしゃべっているのだ。その想像は僕を笑わせる。ふっと、僕は笑みを浮かべてしまう。



「何がおかしいの?」と彼女はげんそうに言う。



「申し訳ない」と僕は言う。「今日はちょっとおかしいみたいだ。というかいつも●●●おかしいのかもしれないけれど。僕には自分が独立して何をやっているのか、というイメージが浮かんでこないんだ。その代わりに白骨とか蛇とかが浮かんでくる。あるいは病気なのかもしれないね。本当に。でもきっとこれは病院に行ったところで治らないだろうな。本能的にそう感じるんだよ」



「あなたはあなたでいいんじゃないかしら」と彼女は何気なく言う。「でもこのままずっとこの仕事が続くとは思えないけれど」



「どうしたらいいんでしょうね?」と僕はおどけたように言う。



「詩人にでもなったら?」と彼女は言う。「それしか考えられない」



 もっとも僕には自分が詩人になれるとは思えなかったので――というか詩人って何を食べて生きているんだろう? 朝露あさつゆとか?――ダラダラと同じ仕事を続けていた。彼女との関係は順調に進み、順調に退屈さという壁に行き着いていた。始めの新鮮な喜びが失われてしまうと――それは避けがたいことではあったのだが――我々は自らの「精神的な停滞の打破」という願望をお互いにお互いに対して押し付けるようになっていた。要するに自分で責任は取りたくないが、なんとかこの状況を変えてくれ、ということだ。もちろんそんなことは不可能なことであって――結局のところ、我々は我々自身の責任で自分の人生を生きていかなければならない。まあ当然のことではあるのだが――結果的にフラストレーションが溜まっていくことになる。このままではいけない、と僕は思う。彼女もまた思う。でもお互いに、何をどうしたらいいのか、具体的なアイディアが浮かんでこない・・・。



 僕らはレンタカーを借りて千葉県の海岸に海を見に行った(ちなみに彼女の実家は千葉の山の方である)。三月の半ばで、空気はひどく冷たかったが、なぜかその数日前に、僕は「海を見に行こう」と決心したのだった。彼女にそう伝えると、「まあそれもいいかな」とのことだったので、僕らはめでたく日産のマーチに乗って、東に向けて直進することになったのだ。



 僕らは車中あまり言葉を交わさなかった。彼女はただじっと助手席から外の光景を眺めていた。特に面白い景色ではない。灰色の街並み。延々と続く道路。車たち。歩行者たち。パチンコ屋に、コンビニに、車の販売店に、チェーンのレストランに、マンションに、小さな公園に・・・またパチンコ屋。宗教施設。あとは学校・・・。



 こんな風にして眺めていると、結局のところ我々はどこに行ったところでこの停滞した空気から逃れることなどできないのだ、という暗い思いにとらわれてしまいそうになる。でも一方で、僕にはクジラがもたらした記憶たちがあった。あれの意味は分からなかったにせよ、たしかにそこには解放の兆し●●のようなものが含まれている気がしていたのだ。あの内部には確実に死が含まれている。死の全部なのか、一部なのかは分からなかったにせよ、とにかくその成分は混ざり込んでいる。そして僕はその匂いを嗅ぎ、動きを感じ取り、またこの世に戻ってくる。そうすると・・・ほんの少しだけ見え方が変わっている。僕はそのようにしてかろうじてこの世界を生き延びてきたのではなかったか。だとすると、あながちこの退屈そうに見える景色にも意味がない、というわけでもないのかもしれないぞ。人間の煩悩が生み出した直線的な建物群。その目的は・・・少しでも地上での生を心地良くすることだ。でもみんないずれ死ぬ。みんないずれ死ぬ。僕も、彼女も、ほかの人々も・・・。あるいはそれは解放なのかもしれない。だってこんな街で永遠に生き続けることになったら、それはそれで地獄みたいなものじゃないか? 僕らは何をして過ごすのだろう? 永遠にパチンコをやり続けるのだろうか・・・?



 気付くと彼女は眠っていた。きっと疲れが溜まっていたのだろうな、と僕は思う。そこでちょっと迷ったのだけれど、小さな音で音楽をかけることにする。これまではまるで趣味の押し付けのよな気がして、遠慮していたのだ。彼女が僕の聴く音楽が好きだという保証はどこにもない。もし僕が逆の立場だったら、あるいは迷惑に感じたかもしれない・・・。



 でも今は彼女は眠ってしまっている。僕は信号待ちをしている最中に、スマートフォンを操作して、無線でスピーカーに繋ぐ。そしてニック・ドレイクの『ピンク・ムーン』をかける。特に意図があって選んだわけではないのだけれど、なぜかそのアルバムが目に留まったのだ。ガールフレンドとドライブデートをしている最中に聴くにはいささか内省的過ぎるな、とも思ったけれど、まあ悪くはないだろう。僕は目は外の光景に注意を向けながら、耳は――そして意識は――その音に深く没入している。ニック・ドレイクは若くして死んだ。自殺だったか事故だったか、正確にはよく覚えていないけれど、とにかく二十代の半ばで亡くなったはずだ。何枚かのアルバムがあとに残された。僕はそれを聴きながら、不思議な気持ちに浸っている。これだけ繊細な音楽を作り出すことのできる人間は、何を考えて生きていたのだろう、と。彼の声は、孤独で、甘くて、哀しい・・・。しかしその哀しみは、ネガティブなだけのものではない。真実の光景に否応いやおうなくつきまとってくる種類の哀しみだ。僕は五十年近く前のイギリスの景色を思い浮かべる。というか自分がイギリスだと思い込んでいる景色、という意味だが。そこはさすがにここよりは美しかったんじゃないだろうか・・・。それともそれは、僕の勝手な、都合の良い願望に過ぎないのだろうか・・・?



 彼女が目を開けた。そして「この曲、不思議だね」と言っている。僕は前を見ていたのだが、はっと我に返る。そして素早く曲名を確認する。「"Horn" という曲だね。ニック・ドレイクの」



「誰?」



「ニック・ドレイク」



「アメリカ人?」



「イギリス人」



 彼女は目をこすりながら、その音楽に耳を澄ませている。実際のところその曲には歌詞はない。インストゥルメンタルだ。しかし無人の広場の時計塔の鐘の音のように――これは僕の勝手なイメージに過ぎないのだが――僕らの心の琴線きんせんを震わせる。僕はたしかにこの曲が好きだった。ニック・ドレイクはいったいどこからこんなメロディーを取り出してきたんだろうな? そしてこの曲はこのアルバム全体の中でどんな意味を持っているんだろう・・・?



 そんなに長い曲ではないため、すぐに次の曲が始まってしまう。彼女はそれにもじっと耳を傾けていた。僕は何も言わず、ただ運転に集中している。ずっとあおってきていたスポーツカーが、隙を見て追い越していった。彼がより幸福な場所に辿り着けばいいのだが、と僕は思う。



 目的地近くになって、僕はコンビニに車を停めた。一休みしようという心づもりだった。僕と彼女は二人とも同じように伸びをした。そして少しだけ笑った。「海の匂いがするね」と彼女は言う。



「そうだね」と僕は言う。



 トイレを借りて、飲み物とバナナを買った。彼女はちょっとしたチョコレート菓子と、ペットボトルのカフェラテを買った。僕が勘定を払った。店員はおそらくはベトナム人と思われる女の子だった。ありがとございます、といささかぎこちない日本語で彼女は言った。故郷の街に比べて、ここは暮らしやすいのだろうか、と僕は思う。でももちろんそんな話をしたりはしない。僕は店の外に出た。彼女は車の中で待っている・・・。



 と、そのとき僕は見るべきでないものを見る。僕が借りた――はずの――日産マーチの運転席に、誰かがすでに座っていたのだ。彼女は助手席でなんにも気付かずに、スマートフォンをいじっている。僕はコンビニの出入り口で立ち尽くしている。後ろから別の客が来たので、一歩前に出る。でもその光景は変わらない。ねえ●●あれが見えないのか●●●●●●●●●、と僕はその通り過ぎていったおじさんに声をかけそうになる。でももちろん何も言わない。あれもまたクジラが持ってきたものなのだろうか?



 そこにいたのは白骨●●だった。そう、例の白骨だ。以前暗闇に直立しているのを見た、あの白骨。目の穴から蛇が出てきたやつだ。それが今、マーチの運転席に我が物顔で座っているのである。正確には動きはない。ただそこにいるだけだ。しかし崩れる気配はなく、きちんとシートに腰を下ろしている。右手でハンドルを掴み、左手は膝のあたりに載せられている。彼女がそれに気付いている気配はない。一瞬音が遠のいたのが分かった。店のBGMも、道路を走り去る車の音も。誰かの話し声も・・・。



 そのときトントン、と誰かが肩を叩いた。僕ははっと我に返り、後ろを振り向く。見るとあの店員の女の子だった。にっこりと笑って、僕にレシートを手渡す。どうやらその下の部分にクーポンが付いている、ということらしかった。「どうもありがとう」と僕は言う。お辞儀をして、彼女は店内に戻ってしまう。



 僕は再び車と向き合ったが――音はすでに戻ってきている――あの白骨はもう見えなくなっていた。それでもなお、その独特の存在感は周囲に漂っている。死のもたらす存在感。あるいは不在感●●●とでも言えばいいのだろうか・・・。僕はドアを開けて運転席に乗り込む。ついさっきまで僕自身の白骨が座っていた席に。右手でハンドルを握って、左手を膝のあたりに置いてみる。何かがピタリとはまった、という感覚があったが、それも一瞬のことで、すぐに消えてしまう。僕は相変わらず退屈な日常に取り込まれている・・・。



「さっきの曲」と彼女は言っている。「なんて言ったっけ・・・?」



「ニック・ドレイク」と僕は言う。「の"Horn"」



「それって楽器のホルンのこと? あの丸まっている」



角笛つのぶえって感じかな、とも思うけどね」と僕は言う。「実際には彼はギター一本で演奏しているわけだけれど」



「あれは・・・死者を呼んでいたのかしら?」



「死者を?」と僕は言う。さっきの白骨の光景が頭によみがえってくる。真っ白な、骨。あれは死者だったのだろうか? 「どうしてそう思うの?」



「なんとなく響きがね・・・そういう気がしたから」



「たしかに不思議なメロディーではある」と僕は認める。



 それから五分もしないうちに僕らは海岸沿いの駐車場に着いてしまう。ほかにも何人かの人々がやって来ているみたいだった。家族連れと、あとは何組かのカップル。でも基本的には人影はまばらだ。家族連れは一匹のゴールデンレトリーバーを連れてきていた。小さな――五歳くらいの――男の子が犬と一緒に走り回っている。犬は走るのに飽きると穴を掘り始めた。それを真似して子供もまた穴を掘り始める。若い母親と父親がそばでそれを見守っている。カップルは遠過ぎてどんな人々なのかよく分からない。ぴたりと身を寄せ合って何やら話し込んでいる一組。波打ち際を歩いている一組・・・。



 雲が七割を占めていたが、あとの三割は青空だった。波が静かな音を立てて、やって来ては去っていった。僕は波打ち際まで歩いていった。潮の匂いが鼻を突いた。彼女も僕も、海沿いで育った人間ではないから、どれだけ見ていても見飽きなかった。人間の営為のはかなさを感じた、というのは嘘ではないが、一方で自分が明日にはもうその「儚い営為」の一部になっていることを知っていた。彼女は僕の少し後ろに立っていた。そしてどうやら何やら考えを巡らせているように、僕には思えた。ハアハアという息づかいが聞こえて、例のゴールデンレトリーバーが僕の足元にやって来ていた。何か食べ物がもらえるとでも思ったのかもしれない。



 食べ物はなかったけれど、彼は――あるいは彼女は――愛想よく僕に頭を撫でさせてくれた。ふわふわとした、気持ちの良い毛だった。どうもすみません! と遠くから父親が走りながら言っていた。全然構わないんですよ、と僕は言う。犬の方は、主人が近づいてきたのを見て取ると、一目散にそちらに向けて走っていった。ハハハハハと子供が笑っている。母親は、よく見ると小さな赤ちゃんを胸に抱いていた。幸せな家族、と僕は思う。



「あなたは子供が欲しい?」とそこで彼女が言った。何気ない風をよそおっているが、なんとなく我々の関係の核心を突こうとしているような気がしてならなかった。僕は少々警戒して言う。



「どうだろうな・・・。まだ分からない。子供は好きだけれど・・・」



「私も子供は好きだな」と彼女は言う。でもすぐにこう付け加える。「でもさ、なんというのかさ・・・こう言っちゃなんだけど、自分の母親みたいには絶対になりたくないとも思うのね」



「それは・・・どういうこと?」と少々意外に思いながら僕は言う。というのも彼女は実家の母親と良好な関係を結んでいるものとばかり思い込んでいたからだ。



「いや、分からない」と彼女は首を振りながら言う。「自分でも何を言っているのかね・・・。でもさ、正直なところ、ときどきあの人の顔が私を怯えさせるの。昔はそんなこともなかったと思うんだけど・・・だんだんだんだん何も見なくなってくるわけ。分かる? 言っている意味が」



「まあなんとなく」と僕は言う。



「そう、あなたなら分かるわね。それでね、そんなのは正直なところ、歳を取れば誰もが通らなければならない道だと思うの。自分の考えが固定されて・・・それ以外のものは存在しないとみなす。それでその狭い世界の中で・・・ニコニコと平和に暮らす。罪のない会話を交わしてね」



「きっとそうなんだろうね」と僕は言う(ドクン、となぜか心臓の鼓動が鳴る。どうしてだろう・・・?)。



「それで・・・一番問題なのは、私もきっと同じ道を歩むんだろうな、ということ。だって遺伝的には同じ傾向を受け継いでいるわけだからね。それが私を怯えさせるの。自分もこんな風に狭い世界に閉じこもって死んでいくのかなって」



「蛇人間の話は知っている?」と僕は言う(ドクン、とまた鳴る)。



「蛇人間?」と彼女は心底不思議そうに言う。「なにそれ? 聞いたことない」



「蛇人間はね、半分が蛇で、半分が人間なんだ」と僕は話の続きを考えながら言う(実のところそれは即興のたとえ話である。何の●●喩えなのかさえ分かってはいなかったのだが・・・)。「蛇人間はね、実は善と悪の間を生きている。だから常に動き続けていられるんだよ。というかさ、マグロと一緒で、常に動いていないと死んじゃうんだ。だから夜はね、人間の身体を抜け出して、精神だけが蛇となって街に繰り出す。そんでスルスルと地面を這っていくんだ」



「ふうん」と彼女は疑わしげに言う。「あなたはその話をどこかで読んだの?」



「うん、まあ、どこかでね。どこでだったかは忘れたけれど・・・」と僕は嘘をつく。「蛇人間はね、ある日幸福な家庭に入り込むんだ。それはすごくすごく幸福な家庭でね、もう天使の居場所もないくらい。父親は金持ちで、ニコニコとほほんでいて、母親は美人で、ニコニコと微笑んでいて、犬は賢くて、オックスフォード大学を出ている。こいつもまたニコニコと微笑んでいる。そんで子供だ。妹はこの世のすべての子供を合わせたよりも可愛くて、兄貴は――五歳くらいなんだが――神童だときている。もうこれ以上何も望むものはない、ってくらいの家庭だったんだ」



「ふうん」と彼女は言う。「ちょっと現実味がないけど」



「まあお話だから」と僕は言う。「そんで、蛇は――つまり蛇人間の精神の部分としての蛇は――その家の中に入り込む。隙間からね、スルスルと入り込んでいく。そんで、夕食の風景を見てね――ものすごく美味おいしそうな料理が並んでいる。みんなニコニコと笑っている――これは吐き気がするぜ、と思うんだ。なにしろ蛇人間だからね、固定されたフィクションというものに耐えることができないんだ。そう、フィクション●●●●●●だ。彼はこの光景が一種の演技に過ぎないとすぐに見抜いてしまったのさ。彼らのニコニコの奥にはね、それぞれ満たされない欲求が抱えられている。父親は奥さんが退屈な人間だと思っているし、奥さんの方はその逆だ。この男は脳味噌が足りないと思っている。息子は人生は虚偽に過ぎないと感じているし、犬は犬で、人間はすべて馬鹿だと思っている。妹はまだ小さいからよく分からずに微笑んでいただけだけどね。彼女もいずれはシニカルな人間になってしまうところだった。このままもし成長し続けていったらね。体裁ていさいだけ取りつくろって、本心を隠すんだよ。両親と同じようにね。蛇人間はそんなのは見ていられないと思った。そんでまず父親の心の穴を刺激した。そう、ちなみに彼はね、家の者には見られない状態で動くことができたんだ。なにしろただの精神だからね。そんなことは難しいことじゃない。それで、父親だ。父親は心の奥に空虚な穴を抱えていた。本人ですら気付いてはいなかったけれどね。そんで、蛇人間はそこをこちょこちょとくすぐって、中から仲間を呼び出した。要するに蛇だ。その父親の内部には蛇がんでいたんだな。要するに。それで次は母親だ。母親はもっと空虚な穴を抱えていた。そこからも蛇が出てきた。そんな風にして、全員から――犬も含めてだ――それぞれの蛇を取り出したってわけさ」



「そのあとどうなるの?」と彼女は訊く。



「そのあとは・・・そうだな」と僕は言う。「幸福な家庭は幸福ではなくなったが、少なくとも正直にはなった。つまりさ・・・家の中に死の通り道ができたんだ」



「死の通り道?」と彼女は不思議そうに繰り返す。目は海の方を見ている。「それは・・・どういうこと?」



「それはね」と僕はその光景を具体的に頭に思い描きながら話し続ける。「ちょうど黒い穴のようなものだ。つまりさ、それぞれのメンバーから出てきた蛇たちがさ、部屋のちょうど真ん中のあたりに集まってさ、とぐろを巻いたわけ。子供の蛇の上に大人の蛇が覆いかぶさってさ。最後に犬の蛇が重なった。そんでグルグルと動き続けた。そんなことをしている間にさ、真っ黒な穴がその場に生まれたんだ。その穴は床から空気中に上がっていってね、天井の少し下のところに座を占めた。そこから家族全員を見下ろしていたんだ。そう。それが死の通り道になった。死は一種の風となってそこを吹き抜けていった。ものすごく冷たい風だ。神童の息子はすぐにその意味を悟ったよ。ああ、俺たちの人生なんてはかないものだったんだ、とね。その風が示唆していたのは、まさに地上の生のむなしさのようなものだったからね。彼がそんなことを考えている間に、妹が突然泣き出した。きっと怖くなったんだろうな。そんでそのタイミングで、なぜか父親が怒り出す。どうでもいいことだ。本当に。犬はワンワン吠えている。実のところ犬にはその穴がはっきりと見えたんだな。まあ動物だからかな・・・。母親はしくしくと泣き出している。そして夫に対する不満をぶちまけている。それは一見カオスのような光景だったが、まあ嘘をついているよりはましだよな、と思って、蛇男はその場を立ち去る。彼は別に良いことをしたと思っているわけじゃない。ただ単に、ものごとのバランスを取っただけだ。動きを欠いているところに、動きを取り戻すこと。それが彼が本能的におこなったことだ。そのためにこそ死の通り道が必要だったんだよ。やがて時間が過ぎれば、夫は怒るのをやめるだろう。妹だって疲れて泣きむ。犬は寝床に入り、母親は正気を取り戻すだろう。そのあとのことまでは分からないがね。と、いうことで蛇人間はその日の冒険を終えて、無事家に辿り着いたというわけさ」



「その話の教訓は?」



「教訓は・・・そうだな、幸福過ぎる、ってのも問題だってことじゃないかな。たぶん」



「ふうん」と彼女はさほど関心がなさそうに言う。「でもさ、その蛇人間はさ、そのあとずっと孤独に生きていくの? つまり恋人も家族も持たずに。だって固定されたフィクションに耐えることができないんでしょ?」



「どこかにはフィクションじゃない本物の愛もあるさ」と僕は言う。「ねえあれ!」



「何?」と彼女は言って僕が指差した方を見る。「何もいないじゃない」



「ごめん、一瞬蛇かと思った。ほら、あの辺にさ・・・」



「海藻じゃないの?」



「そうかな・・・」



 でも僕には見えている。本物の黒い蛇が砂浜を這っているところを。彼女には見えないのだ。なぜなら幻想の中で生きているからだ。結局のところ死の通り道をけたところで、そのことを認識できる人間はほとんどいないのかもしれない、と僕は思う。結局魂の救いというものは、様々な場所で言及されるわりには、ほとんどの場合本当には求められていない状態なのかもしれない。彼女は母親と同じような退屈な人間にはなりたくない、と言う。しかしそのために今、この場所で、何かの努力をしているようには思えない。あるいはいずれ状況が好転するとでも思っているのだろうか? 僕にはそうは思えない。どこかの時点で、我々は真実を認識しなければならないのではないか? 親と比べて、我々は特別優れているわけでもなければ、おそらくは劣っているわけでもない。みんな一緒なのだ。よく分からない世界で、誰かから受け継いできた規範にしがみ付き、やがては死んでいく。その行動によって誰かが傷つくかもしれない。でもそれがどうした? 我々は生き続けることを考えなければならないのではないか? 少なくとも死ぬその瞬間までは・・・。



 蛇は海に入り、やがては沖に向けて消えていった。もっともそいつが死んだわけではないことは僕自身重々承知していた。そいつは決して死なないのだ。少なくとも僕の精神がこの世を認識している限りは。常に動き続け、世界のバランスを保とうと努めている。そいつが嫌うのは固定されたフィクションだ。ということは、と僕は思う。今ここにある我々の関係もまたフィクションに過ぎないということか・・・。



 僕らはもう少しだけそこにいて、たっぷりと潮の香りを吸い込んだあとで、二人並んで、ゆっくりと車に戻った。少し警戒していたのだが――なにしろついさっき蛇を実際に見ていたので・・・――ありがたいことに白骨は運転席に座ってはいなかった。ただの、無人の、空間が、そこには存在している。僕はエンジンをかけた。どこかに寄ろうか? と訊いたが、彼女は首を振った。別にいい、ということらしかった。僕の方も特にどこかに行きたい、という希望はなかったので、我々はまた一路東京都心に向けてひたすら車を走らせることになった。本当に海を見て、帰っていく、ただそれだけの旅だった。途中彼女はまたニック・ドレイクが聴きたいと言ったので、僕は希望通り『ピンク・ムーン』を頭からかけた。"Horn" のところでは、彼女はより真剣に耳を澄ませているみたいだった。僕もまた、その部分においては、より注意して意識を傾けていた。



 東京に着いて、彼女のマンションの近くに車を停めたとき、僕らは二人とも、自分たちの関係がすでにあとには戻れないほどに前に進んでしまったことを知った。これまで我々は共通のフィクションの中で生きていたのだが、なぜかあの千葉の海の光景が、そこに適切な風穴を開けたみたいだった。蛇男の話みたいだな、と僕は内心思っている。死の通り道を開けて初めて、人間の意識は健全な動き●●の感覚を取り戻すことができる・・・。



 僕は一度咳払いをしたあとで(ゴホン・・・)、彼女に向かって「着いたよ」と言った。まだ二人でいることのできる時間は残されていたのだが(夕方にもなっていなかったのだ)、おそらくは二人とも今は一人きりになりたい気分だった。そして自分自身の現在いまの状況について思いを巡らせるのだ。判断を下すのはそのあとにした方がいいのかもしれない・・・。



 彼女はしばらくはフロントガラス越しに見慣れているはずの景色を眺めていた。どうも放心しているように、僕には見えた。もっともさほど美しい光景、というわけではない。住宅街。まっすぐ伸びる道路。家、家、家。マンション、マンション、マンション。小さな公園・・・。しかしそこにふと、風穴が開いたような気がした。僕は一度目をつぶり、そして目を開ける・・・。すると・・・そこにあったのはまったく別の街並みだった。正確にいえば同じなのだが、見え方●●●が変わっているのだ。まるで視覚という概念そのものが一度ゼロにして、そのあとでもう一度注意深く組み立てられたみたいだった。そこにあるものは同じなのだが、僕の中にはゼロであったときの記憶が残っている。だからすべてのありよう●●●●が違って見えるのだ。そこには確実に死の気配が存在していた。あるいは「ゼロに帰する」というのは、死ぬことと同義なのかもしれない・・・。そのとき風が吹いた。海からやって来る、少しだけ湿った風だ。僕は車の中にいるのに、その空気の移動を肌に感じ取っている・・・。



「あなたは私がお母さんの話をしたのに、蛇人間の話題を持ち出してきたよね」とそこで彼女は言っている。すごく小さな声だった。正直なところどのような感情も混ざり込んではいない。純粋にニュートラルな声。もう少しボリュームが大きければ、僕はその奥にある何かを――何か、彼女自身ですら気付いていない観念のようなものを――感じ取ることができたかもしれないのだが・・・。



「いや、そうだったかな」と僕はとぼけて言う。「別にはぐらかしたわけじゃないんだけど・・・」



「いや、別に怒っているわけじゃなくてね」と彼女は言う。「そういうのって・・・なんというか、あなたらしいな、と思って」



「僕らしい」と僕は言う。そしてまた街の光景を見る。風はすでに消えている。マーチの中は、墓場のように静かだ。



「私は・・・今までずっとあなたのことをよく分かっていると思い込んでいたの。でも実はそうじゃなかったのかもしれないわね。本当は・・・いや、分からないな。あなたは本当は、すごくすごく頭が良いんじゃないの? そうじゃないっていう振りをしているだけで」



「まさか」と僕は言う。蛇人間は動き続ける。「僕はたぶんごく平均的な人間だろう。これといった特技もないしね。バック転もできないし、開脚もできない。ハードルも跳べないし、バタフライもできない。背泳ぎをしようとするといつも水を飲んでしまう・・・。まあそれはそれとして、僕はただ彷徨さまよっているだけだよ。本当にそれだけ。自分が誰なのかもよく分からない」



「でもなぜか・・・」と言って彼女はそこで少し間を置く。僕は間違いなく聞いたのだが、どこかの無人の広場で、ニック・ドレイクが"Horn" を演奏していた。独特なアコースティックギターの調べ。まるで何かをとむらっているかのような・・・。彼女は気付くと言葉をつないでいた。「ほかとは違う人みたいに思える」と。



 我々はそのおよそ一月ひとつき後に別れた。激しい言い争いもなかったし、正直なところ、後ろ髪引かれるような思いもなかった。まあこれが正当な流れだったんだよな、と僕は個人的には思っていたくらいだったのだ(彼女がどう思っていたのかまではよく分からなかったが・・・)。結局あの日、我々の関係はもう後戻りできないくらいにまで進み、そこに否応いやおうなく生じる「責任」というものをどう扱うのか、という難問が出現することになったのだ。彼女はそれを取ることを拒否したし、僕としても対等の位置関係にいない女性とその後の人生を共に過ごすことは耐えがたかった。僕はたぶんあの「蛇人間」の話をした時点で、すでに彼女から離れていたのだろう。少なくとも精神的には、だ。彼女はおそらくはこれからも平和な世界観のもとで生きていくのだろうし、僕としてはそれを邪魔するつもりはなかったのだ。僕の方はといえば・・・結局僕にとっての「責任」というものは個人的なものでしかなかった。彼女がどうしても理解できなかったのがその点だ。彼女が僕の道筋を見定めることはできないし、同時に、僕が彼女の道筋を見定めることもできない。もしそんなことをしたら・・・きっと二人揃っておかしい状態に陥ってしまったのではないだろうか。そして実は幸福ではない状態が判明した例の「幸福な家族」みたいに、お互いに非をなすり付け合うのではないだろうか・・・。



 僕としてはそんな状況は避けたかったし、同時に、心から一人になりたい、という気持ちであったことも事実だ。僕は自分が傲慢であることを知っていたが、一方で自分に残された時間が少ないことも感じ取っていた。何も今すぐ死ぬ、というわけではなかったにしろ(でももちろんその可能性がゼロであるわけではない。人は実に様々な状況で死んでいくのだから・・・)、「今ここ」に対する姿勢が最も重要なことであるという事実を、ようやくのことで悟り始めていたのだ。結局ここまで来るだけのために、俺はいったいどれほどの時間とエネルギーを無駄に費やしてきてしまったのだろうな、と仕事が終わったあとの孤独な夜に僕は考えている。あらゆる行為が徒労で、あらゆる言葉がまんに過ぎなかったような気が、その夜の僕にはした。自分は肉体という容器に注がれた液体だが、今までその事実に気付かなかっただけでなく、自分自身●●●●をもフィクションの枠組みに押し込めようとして生きてきたのだ。かつてブッダは「現象世界は虚妄きょもうである」と言ったらしい、とある本で読んだが・・・僕はその「虚妄」の世界しか知らないのだ。今なんとかそこから抜け出したいと心から望んでいるのだが・・・かといって具体的にどうしたらいいのかも分からない。死と向き合うのは相変わらず怖いし、自分に自信を持つこともできない。というか、いくら虚妄だと言ったって、働かないことには食べていくこともできないじゃないか? あるいはそれすらも本当は間違った行為なのだろうか? 僕は本当は、今すぐ出家でもすべきなのだろうか・・・?



 でもまあ、やがては正気に返り――それはすごく退屈な状態ではあるのだが、とにかく――僕はまた元の日常生活に復帰していく。まだ死ぬわけにはいかない、というのが何かが僕に伝えていることだった。君は一人ぼっちで、徐々に徐々に、自由に近づきつつある。その調子だ。なんとか生き延びるんだよ。出家? 出家なんかしたって救われるものか。それは手のひらを裏返すようなものなんだ。俗世間に対する聖なる世界ってね。それこそ虚妄だよ。俺たちはみんな悪なんだ。そして同時に善でもある。いいか? 蛇人間はくねくねと動き続けるんだ。そこにこそ生きる意味というものが生まれてくるはずだ・・・。



 僕はその声のぬしが誰なのかを知らない。僕自身にすごく近くて、でも独立した意識を持っている何かだ、ということのほかは・・・。おそらくはのちに「影」と名付けられる部分だろう、とは、今だからこそ分かるのだが・・・。


蛇人間、生まれる(5)へと続く・・・

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