小松菜県知事選挙(2024年) 【小説】
2024年10月始め、都内某所にある公園。
小松菜たべる(32歳、男、A型、犬好き):さて、みなさん。ついに十月がやって来ましたが、いかがお過ごしでしょうか? 僕は八月にパリから帰って来たのですが、それから1ヶ月半もの間、厳しい修行に励んでいました。何のためか? もちろん選挙です。もう少しで僕の故郷、小松菜県小松菜市で知事選挙があるのですが、僕はそれに立候補することにしたのです! (注:ここまでの経緯を詳しく知りたい方は「盆踊り世界選手権2024」を参照)
ジャン(フランス語通訳、33歳、O型、蟹座、猫嫌い):たべるさん! そんなぺちゃくちゃしゃべっている場合じゃないですよ。今日はスクワット何回やったんですか?
たべる:え? いや……今日は……まだ32回で……。
ジャン:全然足りないじゃないですか? 今日寝るまでにあと2万9968回ですよ。分かっていますね?
たべる:いや、しかし……選挙と下半身の筋肉がどうつながっているのか少々謎で……。
ジャン:下半身が一番大事なのです! いいですか? 身体を鍛えないと「口だけ人間」になってしまいますよ。あなたが若い頃一番嫌っていた人種です。口で立派なことを言い、身体はそれに反することをしているのです。ほら、ここで、スクワット! アン、ドゥ、トロワ……。
たべる:君は鬼コーチだなあ。僕が給料を出してやっているのに……。
ジャン:だからこそ手を抜けないんですよ。僕だって晩酌を一割減らして我慢しているんです! あなたも頑張ったらどうですか?
たべる:でも食費も切り詰めているから、力が出ない……。朝から米を三粒しか食べていないんだよ。飲み物は公園の水道だ。ああ、あそこに鴨がいる。美味しそうだ……。
ジャン:(鞭を取り出して、たべるのお尻を打つ)。ピュン! ほら、たべるさん。僕も暴力は使いたくないんですがね、あなたがあまりにも甘っちょろいから、こうせざるを得ないんですよ。日本男児の魂はどうしたんですか? こんなに弱っちいんですか? これじゃあ選挙は勝てませんよ! ピュン!
たべる:ああ、痛い! 痛いったら! ムッシュウ! ほら、近所のおばさんたちが見ている。なんて恥ずかしいんだろう! ああ、鴨も飛んでいってしまった……。僕の食糧が……。
ポール(43歳、男、フランス国籍。株で大儲けした億万長者。人生に退屈していたところ、ネットで「どじょうすくい」の動画を観て救われる。盆踊り世界選手権2024フランス代表。たべるの常軌を逸した踊りに感銘を受け、彼に県知事選挙立候補を勧める。今はそのドキュメンタリーを撮るために来日している。高級ホテルに宿泊し、毎朝カメラを持ってたべるを撮影にやって来る):たべるさん! ガンバッテ! イロオトコ! フゥ! (ここから先はフランス語)いやあ、本当にクレイジーな男だ。純粋というか、馬鹿というか……。しかし人の心を刺激する何かを持っている。普通の人間なら大人になる過程で失ってしまうものだ。彼はそれを大事に保持し、そして時折、自分でもよく分からない瞬間に放出するのだ。私はその瞬間を撮りたい。そう、あの盆踊りのときみたいに……。
ジャン:(フランス語で)ポール! 約束ですよ。今日の夜は銀座の女の子たちがいっぱいいるお店に連れて行ってくれるって。
ポール:(フランス語で)もちろん。ジャン。分かっているとも。すべて私の奢りだ。でもこの男にはバレないようにしておけよ。なにしろ飢え死に寸前の生活を送っているんだから。どうやって立っているのかも理解できない。ちょっと人智を超えているよ。
ジャン:(フランス語で)僕もちょっと不思議になることがあるんですよ。こいつは馬鹿なのか、それとも聖人なのかって。まあとにかく面白いから付き合っていますがね。ついに明日小松菜県知事選挙の告示日ですよ。危険だから今まで現地入りはしていなかったが……なんだか楽しみだなあ。
ポール:(フランス語で)彼の供託金300万円は私が肩代わりすることになっている。でもまあ貸すだけだが。もし規定の得票数に満たなかった場合にはそれは没収されてしまう。そしたら彼を奴隷として雇おう。そしてその様を録画してYoutubeに流すんだ。ヒッヒ。きっと楽しいことだろう。
たべる:(息を切らしながら)55、56、57、59、63、70……。ふう。もう70回もやったよ。スクワットを。鞭で叩かれたお尻は痛いし……。あれ? なんかフランス人たちが顔を突き合わせて何やらしゃべっている。僕には一言も分からないが……。彼らは僕の数少ない味方だが、どうも信用できないところがあるんだよなあ。なんか都合良く使われているみたいな……。
ジャン:(鬼のように怒って)ちょっとなにサボっているんですか! 選挙戦は明日からですよ! ほら、スクワット! 何回やったんですか?
たべる:まだ243回で……。
ジャン:全然足りない! あ! あっちから修理に出していたドイツ代表の二人がやって来る!
オットーとフランク(盆踊り世界選手権2024ドイツ代表。ロボット。日本に到着したあとに充電が切れてしまい、たべるが慌てて充電器につないだが、電圧の違いでショート。部屋が燃え始め、消防車が三台やって来る騒ぎになった。ジャンとたべるが慌てて水をかけて消したが、そのせいでオットーとフランクは故障してしまう。ポールに相談したところ、ネットでマッドサイエンティストの地獄谷博士を発見し、彼のところに届けに行くことになった。地獄谷博士は法外な料金を主張する一方で、古典文学の愛好者としても知られている。ポールとラシーヌ(Jean Racine 1639-1699)の話で盛り上がり、そのおかげで半額にしてもらった。また彼はクリケットを愛しており、気に食わないことがあるとあの平たいバットで相手を殴るため、これまでに3回逮捕されている。猫好きで、11匹の猫を飼っている。都内在住):ワタシハ、ナオッタ。ワタシハ、ナオッタ。ニンゲン、コロス。ニンゲン、コロス……。
たべる:なんか物騒なことを言っているが……。いったい地獄谷博士のところで何があったのか。
ジャン:あのオヤジも相当変人でしたよね。前髪だけちょろっと残っていて、あとは全部禿げているという……。猫だらけだったし、部屋はタバコ臭いし……。
ポール:(フランス語で)あの料金も貸してあるだけだからね。ドキュメンタリーで利益が出たら、そこから引かせてもらう。
ジャン:(フランス語で)あなたって人は……。
たべる:まあとにかくこれでボディーガードの準備ができたわけだ。オットー! フランク! 大丈夫だろ? 君らはちゃんと僕を守るようにプログラムされているんだろ?
オットー・フランク:(二人とも目を真っ赤に光らせて)キニクワナイヤツハ、バットデナグル。ボコボコニ……。
たべる:あ! 背中からクリケットのバットを取り出した! もう、いったいどんな修理をしたんだか。とにかく日本のコンセントにつないでも大丈夫なんだよね?
オットー・フランク:バカハダマレ! バカハダマレ!
たべる:なんか言葉遣いが悪いなあ……。
ジャン:ほら、休んでいる場合じゃないですよ! アン、ドゥ、トロワ……。
たべる:ヒィー、やはり鬼コーチだ。君自身は少々肉が付いてきているみたいだが。変だな。君も貧乏だって言っていたじゃないか?
ジャン:これは幸せ太りですよ。日本に来れただけで幸せなんです。僕だって朝から三粒しか……。ハッハ。僕も少しスクワットをやろうかなぁ……なんてね。冗談です。必要ないことはやらない。合理主義者ですからね、フランス人は。ハッハ。(突然鞭を振り回す)ヒュン! ほら、もっとやれい!
たべる:ヒィー! おっかないぜ。西洋人ってのは……。
翌日、新幹線、在来線、路線バスを乗り継ぎ、一行は小松菜県の県境を越える。つくる(ランニングシャツと短パン、そしてサンダルという格好)はリュックを背負っている。ジャンとポールは手ぶら(カジュアルな格好をしているが、服は高級品)。オットーとフランク(地獄谷先生の趣味で上下白のクリケットのユニフォームを着ている)がフランス人二人の巨大なスーツケースを引っ張っている。舗装すらされていない狭い道。両脇にはたくさんの木が生えている。空は曇り。案内表示すらない。打ち捨てられた納屋の壁に、50年ほど前のものと思われるビールのポスターが貼ってある。若い女性がジョッキ片手に微笑んでいる。彼女も(生きていれば)今ではおばあさんだろう……。
ジャン:しかし恐ろしいほど田舎ですねえ。僕はもう疲れちゃいましたよ。
たべる:(小声で)ろくに運動していないせいさ。(二人に向き直り)まあ田舎であることは認めますが、ここには現代の日本人が忘れていたイノセンスが残されているのです。というか、いたのです。しかし今の知事が横暴を振るうようになって……住民同士でスパイし合い、賄賂を送り、悪人は罰せられず、代わりに正直な人間が牢に入れられたりして……人々の心は荒んでいってしまったのです。彼らが解放されるのは盆踊りのときだけです。そのときだけは火を見て人々は純粋な心を取り戻すんですが……終わるとまた元通りです。僕はそんな環境で育ったんですよ。実にね。
ジャン:でもどうして地図に載っていないんだろう?
たべる:それは正確には小松菜県は米国の信託統治領だからです。分かりますか? 小松菜県は江戸時代から隠れキリシタンの避難所になっていました。全国各地から避難民たちが集まってきていたのです。小松菜の名産地として知られながら、実は裏で知識人たちの緊密なネットワークが形成されていました。江戸の鎖国に批判的な学者たちとも繋がりがありました。彼らはそこで神学や、哲学や、論理学を研究し、独自の学問体系を作り上げていったのです。それが「小松菜学」というものです。それは単なる小松菜の栽培方法だけでなく、「意識の解放」というより高邁な目的を包含していました。これを完璧に収めることができれば、人間は一生悩む必要がなく、完璧に解脱した状態になれるだろう、と言われていました。しかし実際にそこまで行った人を僕は知りませんが。いずれにせよ、そのように文化的に豊かだった土地を、GHQが戦後見逃しておくはずはありませんでした。彼らは小松菜県を直接統治し、サンフランシスコ講和条約以降も自分たちの影響下に置こうとしました。実際に戦後30年ほどは彼らの秘密基地があったのです。噂によると地下で核実験をおこなっていたということですが……。それはともかく、米軍が去ったあとも、小松菜県の住民たちは日本国に隷属することをよしとしませんでした。そこで一種の妥協案が示され、小松菜県は基本的に日本国民から隠され、Google Mapsにも載らず、独自の文化を保護されることとなりました。我々は基本的には外界から疎外された生活を送っています。発電所やゴミ処理場、独自のテレビ局なんかもありますが、まあ本土ほど立派なものではありませんね。鳥たちは上空を自由に飛び回っています。もちろん。しかし我々人間は、ほとんどがその中で暮らし、その中で死ぬのです。僕はまあ例外的な存在でして。
ジャン:(ポールに逐一通訳する)でも、なんというか、人々は外に出るのを禁止されているんですか? でも小松菜は輸出しているでしょう?
たべる:禁止されているわけではないんです。そんなことをしたら問題になることは分かっていますからね。彼らも。しかし人々は出ようとしないんです。どうしてか? それはおそらくは教育のせいでしょうね。我々は子供の頃から外の、資本主義の世界がいかに汚泥にまみれた、醜い世界かということを教え込まれます。毎日毎日です。それでそれに比べて我々がいかにピュアで、精神の自由を尊重しているのか、ということを教えられるのです。学校でも、家庭でも、テレビでも、です。我々は外の世界に嫌悪感を抱くことになります。パチンコに、酒に、キャバクラに、競馬に、大気汚染に……。まあいろいろです。それで別に県境を封鎖しなくても、一種の鎖国状態が出来上がるというわけです。
ポール:(フランス語で)でも不思議ですね。江戸時代には鎖国に反対していたのに。
ジャン:(ポールの言葉を通訳する)まあそれは……どういうことなんだ?
たべる:それはその通りなんです。当時は隠れキリシタンを匿っていた、ということもありますが……とにかく中央と逆のことをやりたい、というのが小松菜県民の特徴みたいですね。今では中央は開かれています。外国人たちもいっぱい来ますしね。そうなると……その逆を行ってやろうというわけです。きっとフランス人が来るのは初めてじゃないかな。
ジャン:僕らは殺されないかな……。
たべる:もちろん小松菜県にも法律はあって、殺人は重罪です。でも抜け道はいろいろあります。過失致死とか、たとえば足を滑らしたとか……。高い崖が結構ありますからね。足元に注意してくださいよ。
ポール:(フランス語で)でもさっき言っていたあの「小松菜学」ですか。そんな高尚な学問体系を持っていながら、あなたの言ったように腐敗してしまうというのはどうも……。
たべる:(ジャンの通訳を聞いて)うん。でもね、それは普通のことなんですよ。あまりにも高尚すぎて、一般市民には体得できないんです。我々は基本的に安易な楽しみを求めますからね。それは本土の人間と一緒です。楽に、気持ちよくなりたい。ところでお二人は昨日どこかに行かれたのですかな?
ジャン:(横を向いて口笛を吹く)ピュー。いや、どこも、ね……。
ポール:(フランス語で)ちょっと食事に行っただけですよ。じゃあ、行きましょうか(On y va!)。
たべる:今のは分かったぞ! 行きましょうか、だ。オニヴァ! オニヴァ! ハッハ。なんか鬼ババアみたいだな。オニヴァ! フゥ!
ポール:(小声で)彼は馬鹿なのか、聖人なのか……。
ジャン:おそらく両方ですよ。
オットーとフランク:(重いスーツケースをブンブン振り回しながら)オニヴァ! オニヴァ! (そのままズンズン進む)
たべる:ほら、待ちなって。この辺には地雷が……。
ドーン! と鳴る。オットーとフランクが吹っ飛ぶが、彼らはかすり傷一つ負っていない。ジャンとポールのスーツケースは吹き飛ばされたが、幸い無事だった。
ジャン:えらい物騒な土地だな。
たべる:最近は猜疑心が強いみたいで……。県が主導してやっているのか、それとも住民が仕掛けたのか……。でもきっとイノシシ獲りの罠だって言い訳されますよ。
オットーとフランク:ワタシハシナナイ! ワタシハシナナイ! ハッハ! ハッハ! ドイツバンザイ! ドイツバンザイ!
ポール:前途多難だ……。
三人(プラスロボット二体)は土の道を歩いていく。だんだん視界が開けてくる。田んぼや、小松菜畑が一面に広がっている。農作業をしている人の姿も見えるが、彼らは明らかに一行を見ないふりをしている。木造の民家がポツンポツンと立っている。家の前にいた人々はスッと隠れてしまった。大抵の人々が白い手ぬぐいを頭に巻いている。牛の鳴き声が聞こえた。ずっと高いところを鳥が飛んでいる。ポールは撮影をしながら歩いている。
たべる:ここがメインストリートです。ほら、あそこの駄菓子屋の前に自販機があって、マリファナを売っているんです。ここでは合法なんですよ。
ジャン:驚いたな……。
ポール:人々は逃げてしまうね。
たべる:まず県庁兼市役所に行きましょう。そこで選挙の手続きをするんです。
ジャン:(遠くを指差して)なんかあそこに塀に囲まれた一画がありますね。かなり広そうだ。というか塀の高さが尋常じゃない。ベルリンの壁みたいだ。
オットーとフランク:ベルリン! ベルリン!
たべる:あれがかつての米軍基地ですよ。今は……たしか強制収容所になっているはずです。ときどき悲鳴が聞こえてくるんですがね、子供の頃から聞いているせいで聞き飽きてしまいましたよ。
ポール:やはり物騒な土地だな……。
たべる:あ! 猫がいる! 黒猫だ。先生! 先生!(猫は逃げてしまう)
ジャン:なんで猫が先生なんですか?
たべる:「小松菜学」によれば猫は賢者だそうです。僕にもよくは分かりませんが……とにかく可愛いでしょう?
オットーとフランク:センセイ! センセイ!
ポール:なんか見えてきたぞ。白亜の豪邸のような……。あれが市役所かな?
たべる:あれが市役所です。昔はもっと質素だったんですが……最近立て替えたみたいで。ノートルダム大聖堂に範を取ったらしいんですが……。もちろん税金ですよ。まったく……。
門の前に警備員が二人いる。近代的な格好。紺色の制服と帽子、腰に銃をぶら下げている。二人とも無表情。一行は恐る恐る通り抜ける。ロータリーはアスファルト舗装されていて、隅の方に黒光りするベンツが何台も停まっていた。ドイツ人ロボットの目がキラリと光る(ドイッチュ! ドイッチュ!)。たべるは正面の入り口に入っていく。ポールがそれを撮影している。
ポール:(カメラを構えながら)いよいよ市役所に入る瞬間だ……。彼はここの出身だが、外に出ることを選んだ。しかしまた戻ってきたのだ。腐った政治を正すために、だ。彼は生きて帰れるのだろうか……。
たべる:(自動ドアを通り抜ける)ああ、懐かしいなあ。昔は僕も市役所に勤めるものとばかり思っていた。でも失恋してしまって、あまりにも悲しくて、無我夢中で県境を飛び越えたのだった。もちろんそれだけが理由ではない。僕はもっと広い世界を知りたかったのだ……。
ジャン:なんかすごく近代的ですね。清潔で、パソコンなんかも置いてある。ほら、まずはこの機械を操作するみたいですよ(そう言って入り口付近にある大きな機械の前に行く)。
たべる:どれどれ? ええと……。これだ、選挙に出たい方。ポチッとな。ふむふむ。マイナンバーカードをスキャンして……。え? これで終わり? ああ、あとは供託金ね。カパッとATMみたいに口が開いたぞ! ポール! ポール! 金だ! ギブ・ミー・マネー!
ポール:(カメラを構えたまま、フランクとオットーに目配せする。彼らはスーツケースを開き、分厚い封筒を取り出す。そこには300万円が入っている)そうそう。それを彼に渡して……。フッフ。これはなかなかいいシーンだな。果たしてこの金は戻ってくるのだろうか?
たべる:ええと、有効投票数の十分の一以上獲得できないと、没収ですってさ。まあ大丈夫じゃない? 十分の一くらい。もちろん当選を目指すわけだけど。ええと、OKボタンをポチッとな。あ、口が閉まった。300万円が飲み込まれる……。急に腹が減ってきたな。あれを使えば牛丼何杯食べられたんだろう……。あ、これで終わりって……簡単すぎないか?
ジャン:(画面を覗き込んで)でもそう書いてありますね……。一応あっちで働いている綺麗な女性たちに訊いてみますか? なんか外の光景と釣り合っていないな、ここだけ……。スーツ姿の男たち、そして上品な格好をした女性たち。完璧な空調。高い天井……。ここは本当に小松菜県か?
たべる:市役所の職員というのはだね、一種の貴族みたいなものなんだよ。一般庶民とは違っている。だから庶民は子供の頃から公務員採用試験に向けて死に物狂いの勉強をするんだ。でも結局は賄賂を多く渡した人間が採用される。僕はその実情を知っているがね……。あ! あれは! 僕の同級生のミキちゃんだ! ねえ、ミキちゃん!
ミキ:何か御用でしょうか?
たべる:そんな他人行儀な……。ねえ、僕は今日立候補したよ。県知事選挙だ! ちゃんと300万円も振り込んだからね! ああ、懐かしいな。あのドジョウを一緒にすくった日々……。ほうれん草をズタズタに引きちぎってやったね。橇にも乗ったな。畑の斜面でさ。ああ、なんと楽しかったか……。
ミキ:あなたのことは存じております。もちろん。しかし私は変わりました。公僕となったのです。命をかけて小松菜県に尽くしております。選挙、頑張ってくださいね。おそらく勝ち目はないでしょうけど。ふふふ。
たべる:やる前からそんなこと言って……。まあ相手は強敵だが……。現職の小松菜茂雄はもう50年も知事の職に就いている。最初は良かったんだが、だんだん腐敗してきたんだ……。ねえ、ミキちゃん。まっすぐ僕の目を見てよ。
ミキ:見ておりますが、何か?
たべる:いや、違う。あの頃の君の目じゃない! 君の目は……そう、淀んでいる! こんな綺麗な格好をしているけれど、魂は腐っているんだ! 一般庶民がいかに貧しい生活をしているのを知っているのか? 君はこんな空調の効いた綺麗なオフィスで働いているが、ほとんどの人々は……。
ミキ:その話、長くなりそうですか? 私そろそろ業務に戻らないといけませんので。
たべる:いったいどんな業務なんだい? 具体的には?
ミキ:部外者に説明する義務はありません。
たべる:僕は次期小松菜県知事候補だぞ?
ミキ:あなたは今は東京都民でしょう? 都会に魂を売ったのは誰かしら?
たべる:違うんだ。僕はどうしても外に出る必要が……。
そのとき物々しいサイレンが鳴る。赤いランプが点灯している。何が起こったのかと一行はあたりを見回している。やがて入り口に数台のパトカーが止まり、中から警官たちが出てきた。手錠をかけられた一人の男を連れてきている。男は叫んでいる(40代始めくらい。髪の毛が薄い。ダルダルのグレーのTシャツを着ている)。
男:(手錠をかけられて)ああ! 私は! 自由に、歌を! 歌いたいだけなんだ! ああ!
警察官たち、無表情のままどこかに連れていく。たべるはショックを受けたような顔で見つめている。
たべる:彼は何をしたんだろう?
ミキ:許されていない歌を歌ったんですよ。きっと。人間は不思議な生き物ですね。自由になると何をしたらいいのか分からないくせに、束縛されるとすぐに反発するんですもの。彼は強制収容所送りになります。略式裁判は効率化されたので、5分で終わります。10分後には彼は移送されているはずです。大丈夫ですよ。ああいう人たちは頭を使うよりも身体を動かしている方がずっと幸せなんですから。役に立たなくなったら適当に処分しますが。もちろん。
たべる:処分って……どういうことなんだ?
ミキ:まあいろんな方法があります。詳しくは県のサイトを見てください。くだくだと説明しているような時間はありませんので。ただ一つたしかなことは、どんなに役立たずな人間だったとしても、死んで土に還れば肥料にはなります。ふふふ。これは実は知事の口癖でもあるんです。まず効率化。そしてそこからこぼれた人間は肥料になれってね。
たべる:なんと非人間的な……。
突然どこからか制服を着た警備員たちが出てくる。そして一行を掴んで、入り口から外に出す。
ポール:なんだなんだ? この田舎者たちは?
ジャン:やめろ! その汚い手を離せ!
オットーとフランクは空手技を駆使して戦おうとしている。警備員たちが銃を抜いた!
たべる:(腕を掴まれながら)やめろ! オットー! フランク! そんなことをしたら奴らの思うつぼだ。公務執行妨害とかで逮捕されてしまう。そしたら選挙はどうなる? ここはおとなしく引き下がろう。はいはい、今から出ますよったら。
ミキ:(手を振りながら)ではごきげんよう。
たべる:(振り返りながら)あんな人じゃなかったのに……。
一行は門の外に出される。市役所の奥の敷地から煙が出ている。燃やしているのはゴミだろう、とたべるは思う。そう思いたいと願う。市役所から少し離れたところで5人は立ち止まる。
ジャン:さて、どうするんですか? これから。そもそも演説カーなんてものがここにはあるんだろうか?
たべる:まず僕の実家に行きましょう。僕の両親はまだまともな意識を失っていないはずです。毎年盆踊りのときだけ会っていたんですが、彼らはこっそりとカフカの『審判』を読んでいたんだそうです。そのおかげで腐敗を免れていると。
ジャン:あの本にそんな効果が……。たしかサッカーの審判が試合中に転んで、脛を怪我する話でしたよね。僕は感動して泣いてしまいましたよ。もう一度読もう。帰ったら。
たべる:それはどうも違う気が……。しかしずっと撮影されていると気が散るな。ポール! そろそろいいんじゃないか! 今日のところは?
ポール:(フランス語で)ノン。君は「聖なる間抜け」みたいなものだからな。いつ面白い場面に出くわすか分からないんだよ。その瞬間を逃すわけにはいかない。
ジャン:彼はこう言っています。あなたはとても男前だから、世界中の美女たちのためにどんな小さなチャンスも逃すべきではないのだ、と。
たべる:まあそれも一理あるな。仕方ない、許してやろうか。とりあえずこっちです。結構歩きますよ。ああ、腹減った。でもスクワットが効いているな。まだまだ歩けるぞ。
ジャン:僕はくたびれてきたけど。
オットーとフランク:ワタシハゲンキ! ワタシハゲンキ!
ポール:(周辺の田園風景を撮影している。小松菜畑と田んぼ。果樹園のようなもの。遠くに山。市役所のまわり以外は本当に古き良き田舎の景色だ。牛の鳴き声が聞こえる。木造の家屋。農作業をしている人々がちらほらと見える)ねえ、たべるさん! 彼らは本当に腐敗しているんだろうか? 私には善良そうに見えるが……。
ジャン:彼らは本当に腐敗しているのかって訊いていますよ。
たべる:全員がそうかは分かりません。もちろん。でも僕が帰省するたびに周囲の人々はなんだか生気がなくなっていくんですよ。それに、やっぱり密告が奨励されているせいでみんなビクビクしていましたね。くだらないやつが威張っていたりして。僕の小さい頃のガキ大将が地域のボスになっているんです。私欲を肥やして太っていてね、愛人が三人くらいいるという噂です。あいつもベンツに乗っていたな。おっかないシェバードを飼っていてね……。
ジャン:彼の仕事は何なんですか?
たべる:表向きは小松菜農家ですよ。でも裏では……何をやっているんだろう? 何か怪しいことですよ。薬物とか。あるいは役人とつるんで政府の補助金をネコババしているとか。とにかく奴は現知事に忠誠を誓っているため、保護を受けているんです。選挙のときは奴が監視員としてみんなの用紙が見える位置に陣取っているんです。もし別の人間の名前を書いたりしたら……ブルブル。恐ろしくて想像もできない。きっとあっという間に消されてしまいますよ。あるいは強制収容所か。
ポール:(通訳を聞いて)警察は機能していないのかね?
たべる:(通訳を聞いて)さっき見たでしょう? 警察は選りすぐりのロボットたちが勤めているんです。もちろん本物のロボットじゃないですよ。オットーとフランクとはそこが違っている。あいつらは命令されたことは迷わずに実行するんです。そういう教育を受けてきたんですよ。正確には中学校くらいからその適性のある者が選抜され、高い給料と引き換えに魂の自由を売り渡すんです。もちろん警察の上層部はロボットじゃないですがね。上層部はきっと頭を使って私利私欲を肥やしています。正義感なんて存在しない。というか彼らの「正義」というのはつまり「知事に従う」ということなんです。それがどんなに血なまぐさいことであってもね。彼らの思考はそこで止まってしまっています。教師だって似たようなものです。彼らは自分の立場を守ることしか考えていない。より高尚な目的なんかどうでもいいのです。
ポール:(通訳を聞いて)じゃああなたは何のために生きているのですか? 知事のためでもなく、コミュニティーのためでもなく……。
たべる:(通訳を聞いて)それは……(ゴクリと唾を飲み込む)。愛です。愛のためです。でも僕は愛とは何なのかを知らない。そこが問題だ。
ジャン:馬鹿だ……。
ポール:いや、馬鹿だが、純粋だ。だからこそ撮影のし甲斐もある。
オットーとフランク:アラーム! アラーム! イノチノキケン! イノチノキケン!
たべる:(驚いて)なんだって? いったい何が……。
突然上空を小型飛行機が飛び、爆弾を落としていく。爆発! オットーとフランクがものすごいスピードでみんなを引っ張っていく。彼らがいた場所には大きな穴が空いている。
ジャン:本当にこんなことを……。
たべる:戦争だ! 戦争だ! あと二週間生き延びられるのだろうか……。
ポール:(興奮して。でもカメラを離さず)素晴らしい。間一髪。知事は今の攻撃をどう弁解するんだろう? 対立候補を殺してもいいという法律が存在するのかね?
たべる:(ジャンの通訳を聞いて)まさか。でもきっとなんとでも言い逃れはできますよ。訓練の予定が本物が落ちてしまったとか。あれは米軍の飛行機だとか。本土から自衛隊がやって来たんだとか。とにかく閉鎖的な世界ですからね。正義よりも上層部の意志が重要なんです。そして彼らは……フィクションを求めている。
ジャン:フィクション?
たべる:(頷いて)彼らは自分たちが一番偉くて、自分たちが最も正しいというフィクションを見ているんです。でもそんなのは真実じゃありません。だから僕がやって来たんだ。本当は彼らの魂だって自由になりたいはずなんです。そこのところをなんとか説明できれば……。
ジャン:そんなことが可能だと思いますか?
オットーとフランク:アラーム! アラーム!
ポール:今度は何だ?
ジャン:暴走した牛が突っ込んでくる!
たべる:間一髪で避ける。ヤバイ! ふう……。あの角を見たかい? というかまた戻ってきた。僕を狙っているぞ!
オットーとフランク:(猛スピードで牛を追いかける。牛は自分が追いかけられるとは思っていなかったらしく、怯んで逃げていった。彼らはしばらく執拗に追いかけたあと、ヨーデルを歌いながら戻ってきた)ドイツジン、ツヨイ! ドイツジン、ツヨイ!
たべる:彼らは役に立っているな……。
ジャン:なにしろ200万ユーロですからね。
ポール:はした金さ。
たべる:さあ急ぎましょう。命がいくつあっても足りない。ほら! ジャン! 動きが遅い! 鞭が必要かな?
ジャン:(フランス語で)このぉ……。田舎者のジャップめ。調子に乗りやがって……。
ポール:(フランス語で)昨日だいぶ遊びましたからね。
ジャン:(フランス語で)大人の魂は腐っている……。はあはあ。まったく。美味しいクロワッサンが食べたいぜ。
たべる:ほら、この道ですよ。用水路と、黄色い橋。夢によく出てくるんだよなあ。こんなに小さな橋なのにね、夢だと巨大になっている。そしてここにカジキがいるんですよ。僕はそれを釣り上げようとするんだが……いざ水面に上げるとね、白いブリーフになっているんですよ! あれは何を意味していたんだろう……。
オットーとフランク:ブリーフ! ブリーフ!
ジャン:うるさいな。はあはあ。この田舎道、でこぼこして歩きにくいことこの上ないな……。あ、大きな古い家が見えてきた。杉の木に囲まれて……。あれが君の家ですか?
たべる:ウィ。そうでゲス。あれが僕の家でござる。そうそう、この木を見て! ここでよく立ちションをしたなあ。
ジャン:そんなこと教えなくてもいいんですよ。まったく……。
たべる:さて、年老いた両親は元気かな……。ってあれ? 人気がない。誰もいないのかな? ただいま! たったたったただいま!
ポール:いる気配がないな。
たべる:玄関は開いている。というかまあ、こんなクソ田舎だからいつも開いているんだけど。失礼しますよっと。あ、ポール、靴は脱いでね(ジェスチャーで示す)。知っていると思うけど。
ジャン:そんなこと彼は知っていますよ。ねえ。
ポール:(フランス語で)もちろん。ああ、古い家の匂いがするなあ。しかしガランとしている。何かあったのかな。
たべる:(家の奥に入る。居間の低いテーブルの上に書き置きを発見する)。こんなものが! 「たべるへ。いますぐ逃げなさい。私たちのことは忘れて、東京で幸福になりなさい。小松菜県はもう駄目になってしまった。あなたの知っている町ではない。さようなら。あちらの世界で会いましょう。母より」。なんてことだ! 彼らは旅立ってしまったのか!
ジャン:まだ分からないですよ。強制収容所にいるのかもしれないし……逃げているのかもしれない。
たべる:たしかすべての県民にチップを埋め込む法律が施行されて……だからどこに逃げてもすぐに捕まってしまうはずです。ということは……すでに捕まっているか、死んでいるか、どちらかだ。
ポール:(撮影しながら)これはなかなかいい場面だ……。
オットーとフランク:ジュウデン! ジュウデン!
たべる:そうだ。彼らを充電しなければ……。コンセントに差す。あれ? なんということだ! 電気が止まっている。照明も……点かない。
ジャン:弱りましたね。携帯も充電できない。
オットーとフランク、しょぼしょぼと座り込む。完全に動きを止める。
たべる:200万ユーロも電気がなければ何の役にも立たない。
ポール:(フランス語)実はモバイルバッテリーをいっぱい持っているんだが、これはカメラ用だしな……。
ジャン:選挙運動、どうしますか?
たべる:正直なところ、車や電気を貸してくれる人がいるとは思えない。だとしたら……アナログ戦術だ。通りを練り歩き、大声でマニフェストを発表する。それしかあるまい。
ジャン:それが役に立つと?
たべる:やらないよりはマシだろう? ということで、だ。何か食糧を探そう。きっと隠してあるはずだ……(奥に消える)。
ポール:(スーツケースを開き、中から大量のカロリーメイトを取り出す。それをジャンに分ける)彼には内緒にしておいてくれよ。ギリギリまで飢えさせないと狂気が撮れないんでね。死にそうになったらちょっとずつ出してあげよう。
ジャン:おぬしも悪よのう……。
たべる:ほら、あった! 乾燥した椎茸だ! 干し大根もあるぞ! フッフウ! これで三日は生き延びられるぞ! あとはカエルを捕まえて……。
翌朝、ジャンとポールが起き出してくる。素晴らしい天気。たべるは自主的に庭でスクワットをしている。オットーとフランクは縁側に座ったままだ。
たべる:いやあ、おはよう! 素晴らしい朝じゃないか?
ジャン:昨日の薪風呂はとてもよかったですよ。電気がなくても、井戸水と薪があれば生きていける。いやあオフグリットというのはいいものだなあ。トイレはちょっとその……まあなんとかしてほしいけど。
ポール:これは素晴らしい生活だと思うね。私も全財産を投げ打って田舎でこういう生活を始めようかな。
ジャン:本当に? それなら……。
ポール:まあ冗談だけど。
たべる:何をフランス語でつぶやいているんだ! 君たちもスクワットをやったらどうかね? 351、353、358……いやあいい汗をかいている。さあ、今日から選挙運動スタートだ。えっと……戸別訪問は公職選挙法に違反しているんだっけね? たしか?
ジャン:たしか……そうでしたよ。スマホで調べてみよう。うん。そうだ。やっぱりダメだって。
たべる:じゃあやっぱり大声で街頭演説をするしかないか……。オットーとフランクがまともなら手伝ってくれたものを……。
ジャン:電気がなけりゃあね。僕もスマホの電池無駄遣いしないようにしなきゃ。
ポール:ご両親のことはいいのですか?
たべる:ホワット?
ジャン:両親はどうするのかって、訊いてますよ。たしかに探さなくていいんですか? こんなどら息子でもご両親にとっては大事な跡取りでしょう?
たべる:誰がどら焼きだ! 僕はどら焼きではない! まあそんなことはいいとして、そうだな、たしかに心配ではある。たぶんあの途中で見た収容所の中にいると思うんだが……あるいは炭鉱かもしれない。ずっと奥の方にそれがあったはずだ。もしくは……。
ジャン:すでに処分されたか。
たべる:うちの両親は決して現政権に忠実だったわけではないからな。おかげで僕は思考の独立性を保つことができたんだ。実はほうれん草も食べていたし……。
ジャン:それは……犯罪か何かなのですか?
たべる:明文化されてはいないよ。でもこの地域では法律よりも慣習が大事なんだ。ほうれん草は悪魔の食べ物ということになっている。それを親父はこっそり食べさせてくれたんだ……(涙)。あれは美味しかった。小松菜よりも美味しかった。「いいか」と彼は言ったんだ。「悪魔だって悪いわけじゃないんだ。ただ生活のスタイルが違っているだけだ」って。ああそんなものかと思って、僕は善悪の相対性を学んだのです。そして外の世界に出たんだ。いいかい? 人間というのは善だけでできているわけではないし、悪だけでできているわけではないんだ。そんなのは当たり前のことなのに、自分は純粋な「善」であると思い込むと……往々にして問題が起こる。外に悪を探し求めるのさ。
ポール:(ジャンの通訳を聞いて)昔からその構図は変わっていませんね。フランスでもそうだし、ドイツでもそうだ。人間は……おそらくは何かに屈服するべきではないんだろう。たとえそれに「善」という名前が付いていたとしても。
ジャン:僕もそう思いますね。でも実際に悪を受け入れるというのは……結構大変なことですよ。
たべる:簡単なことですよ。愛するんです。人々を。自分を。世界を。動物たちを。小松菜を。ほうれん草を。そうすれば道は開ける。
ポール:(通訳を聞いて)楽観主義者だ。しかし楽観論だってあったっていいのかもしれない。じゃないと世の中はあまりにも暗すぎる。
たべる:またフランス語で何か言ってやがる。そろそろ日本語覚えたら? ほら、レッスンしてやるよ。ワタシハ
ポール:ワタシハ
たべる:オシリガ
ポール:オシリガ
たべる:カユイ
ポール:カユイ(ジャン、クスクス笑う)。
たべる:これが"I love you"ということだよ。好きな人ができたらこう言うんだよ? キャンユーアンダーステエアンド? フレンチマン?
ポール:C'est facile.(簡単ですね)。ワタシハ、オシリガ、カユイ!
たべる:(腹を抱えて笑う)いや、これは最高だ! フッフウ! いやあ、生きているって楽しいなあ。
ジャン:ところで食糧はほかにありましたかね?
たべる:さっき見てみたらだね、ジャジャン! 納屋の奥に米があったよ。いつのか分からんけど、まあ食べれないことはないだろう。このあとで火を起こして井戸水で炊こう。腹一杯食べることだけを夢見てきたからなあ。ウッシッシ。楽しみだなあ。
ジャン:おかずは?
たべる:干し椎茸と干し大根。それだけあれば十分だろう? もちろん小松菜も畑から取ってこよう。たぶん雑草だらけだけど。誰もいなかったから。
ジャン:じゃあ食事をしたあとで選挙運動といきましょう。
たべる:アイアイサー!
一行、食事を終え、家を出る。天気は相変わらずいい。鳥が空を飛んでいる。市役所の方で煙がモクモクと上がっている。とりあえず市役所に近付くのは危険なので、県の端の方に向かうことにする。ポールはカメラを構えている。オットーとフランクがいないので、三人ともリュックを自分で背負っている。とても知事選の立候補者には見えない。たべるはやはり短パンにランニングシャツという格好である。
たべる:(手でメガホンを作って)小松菜たべる! 小松菜たべるでございます。皆様のご要望をなんでも聞きます。小松菜たべるです! 偽善と腐敗に満ちたこの小松菜県を50年ぶりに変えることを決意して、東京都からやって参りました。今この県に必要なのは改革であります。愛に基づいた改革です。もう密告はやめましょう。無批判に上の者に従うのも終わりです。それぞれが個人の自由を尊重し、そして、愛し合う。それは可能なのです! 皆様はそれぞれの人生を生きる。そう、幸福になるために!
ジャン:ちょっと抽象的すぎませんかね?
たべる:そうかなあ。(再び手でメガホンを作って)小松菜たべる、小松菜たべるでございます。お金はないが熱意はある。小松菜たべるでございます! 教科書を廃止します! 市役所のベンツも全部安い車に変えましょう! そうすることで住民税を半分以上減らすことができます。盆踊り大会を日本各地にアピールし、観光客を誘致します! もちろん私が率先して裸で踊りましょう! 一糸纏わぬ姿で! 大丈夫です。そのために鍛えていますからね……。あとは……そう、大事なのは心です。いつだって心なのです!
ポール:しかし誰も寄ってこないなあ……。
ジャン:明らかに警戒されていますね。さっき遠くに人が見えたのに、みんな引っ込んでしまった。これで当選しろというのも無理な話だ……。
たべる:小松菜たべる、小松菜たべるでございます! 皆様の明るい未来を……。あ、車がやって来た。黒いベンツだ! 脇に避けるんだ! 銃撃が来るぞ!
ジャンとポール、慌てて脇の草むらに逃げ込む。ベンツはものすごいスピードでやって来て土埃を上げて止まる。運転しているのは昨日市役所で見たミキちゃんだ。助手席から……タケシが出てくる! たべるの同級生である。高級そうなスーツを着て、葉巻を吸っている。背が高く、肩幅が広い。がっしりしている。髪の毛は短く刈られている。30代には見えない威厳が備わっている。
タケシ:(ニヤニヤ笑いながら)やあ、たべるじゃないか? そんなところで転がって何しているんだい?
たべる:(立ち上がりながら)なんだ、君か……。というかミキちゃんまで。君らは何しに来たんだ? 僕は正当な選挙活動をしに来たんだよ。見ての通りね。
タケシ:選挙活動? これがか? たった三人で練り歩いて、拡声器さえ持たずに大声で騒いでいるのが、かい? 実は我々は住民から通報を受けてやって来たんだ。怪しい余所者がいるってね。まあ君たちだろうとは思っていたが。
ミキ:(運転席から出てくる。彼女もタバコを吸っている。スーツを着ていて、化粧がいささか濃い)まさかこんなにひどいとは思わなかったけどね。哀れなものね。
ジャン:こいつらぶん殴っていいですか? ボス?
たべる:いや、やめろ、ジャン! そしたらこいつらの思うつぼだ。挑発して、暴力を振るわせるのが狙いなんだ。我慢だ、我慢。
ジャン:(拳を握りしめて)僕が本気を出せば……。
タケシ:この小太りのフランス人は何なんだ? ハッハ。ボディーガードにしては身体がダルダルじゃないか? カメラマンもいるときている。この地域の人間は撮影されることを喜ばないんだがね。
たべる:ほっといてくれよ。ジャンはお菓子が大好きな可愛い奴なんだ。そして運動嫌いときている。太るのは仕方ないだろう……。それより……うちの両親を知らないかね? どうも家にいないんだが。
タケシ:なんで俺が知っていると思うんだ?
たべる:どうせ君が密告したんだろう? そのせいできっと強制収容所に……。
タケシ:それは濡れ衣だよ。俺は何も知らない。しかしまあ実際に収容所に送られていくのはろくでなしばかりだ。知事の悪口を言ったりね。仕事をサボったり。女と遊んでいたり。
たべる:君は何をしているんだ? いったい?
タケシ:俺? 俺は農家だよ。君みたいに東京に出て行ったりはしなかったんでね。ハッハ。
たべる:君には狭い世界がお似合いだよ。そこでずっと威張っていたらいい。世界は進歩しているんだぞ? 今では一周回ってオフグリッドが流行っている。贅沢するのはダサいんだぞ?
タケシ:別にダサくてもいいさ。お前みたいになるよりはな。小学生の頃と同じ格好じゃないか? ランニングシャツに、短パンに、サンダルだ。ハッハ。本当に32歳かよ? 昔からお前は馬鹿だったよな……。
たべる:君に言われたくないね。ほら、行こう。こんな人々に費やしている時間はない。選挙運動をしなきゃ。
タケシ:せいぜい頑張れよ。んで、そのカメラマンさ。俺たちを撮っておいて無事に県を出られるとでも思っているのかね?
ポール:(何も知らないふりをして)ワタシハナンニモシリマセーン。クロワッサン、クロワッサン、ボルドー、ブルゴーニュ……。
ミキ:肖像権って知っている?
たべる:表現の自由は憲法で保障されているんだぞ! 腐敗を暴くのであれば、映像は正義だ! ポールに触ってみろ! 暴行罪で起訴してやるからな!
ミキ:まあ怖い。
タケシ:まあ好きなだけやりなよ。ただ事故にだけは気を付けてな。それは俺たちのせいじゃない。君のせいだ。ハッハ。またな。あばよ(二人、ベンツに乗り込む。そしてものすごいスピードでいなくなる)。
ジャン:なんだか気に食わない奴ですね。
たべる:彼もある意味では気の毒なんだ。お父さんがアル中でね……。とっくに収容所に入れられた。最初は「入院」という名目だったけど、そこでわざと暴れさせて、暴行罪か何かで収容所送りだ。そういう手を使うんだよ。彼らは。まあとにかくタケシは最初は父親にいじめられ、そのあとは完全に父性を欠いた状態で生きてきたんだ。誰も彼を止められなかった。だから「モラル」というものを学ぶ機会がなかったんだよ。彼は地獄を生きているようなものさ。この世の快楽に溺れ、精神の自由というものを知らない。気の毒だよ。本当に。
ジャン:あなたは人格者なんですね。そんな格好をしてはいるが。
たべる:というかお金がないだけだよ。さあ、やれるだけのことはやろう。小松菜たべる! 小松菜たべるでございます!
そんな感じで選挙運動は続いていったが、三日後、山道を歩いているときに突然大きな岩が転がってきた! ボールのように丸い岩だった。自然にこんなものができたとは信じられなかったが……。
たべる:あ、危ない! (ひょいと避ける)ジャン! 飛べ! 横っ飛びだ!
ジャン:え? なんだって? ウッヒョイ! 危ない! ポール!
ポール:(どじょうすくいの動きを思い出し、ヌルリと避ける)いやあ危なかった……。あれは人工的なものですよ。絶対。
たべる:タケシがやったのかもしれないな。事故に気を付けろって。あ! イノシシがいる! あいつを捕まえて食べよう! そうすればムキムキになれるぞ! ほら、待てって。
ジャン:行ってしまった。山の奥深くに。僕は足が疲れてしまいましたよ。ポール。
ポール:(懐からカロリーメイトを取り出して、ジャンに渡す)私も疲れてしまった。しかしこの選挙、まったく勝ち目が見えないんだが、君はどう思う?
ジャン:(カロリーメイトを齧りながら)同感ですね。住民は誰も聞いていませんよ。近付くことすらできない。昨日小さな地区の集会所でやったときも、みんな逃げてしまったし。シカしか聞いていませんでしたね。
オール:あとは蚊だな。もしかして命を失う前に逃げた方が身のためかもしれない……。
遠くからたべるの声が聞こえる。二人は耳を澄ます。
たべる:おーい! おーい! なんだか不思議なものを発見したぞーい! まったくあいつら何やってんのかな。おーいったら!
ジャン、ポール、急いでそちらに向かう。道なき道を進む。かなり歩きづらい。
ジャン:あ! 蛇が……。僕蛇が苦手なんだよな……。
ポール:どじょうとあまり変わりませんよ。
たべる:ああ、やっと来たか。ほら、これを見ろよ。これは明らかに儀式をやった跡だ。そうに違いない。ここだけ開けていて、ほら、大きな石が円形に置かれている。人間の頭くらいある石だ。円の直径は……3メートルくらいかな。真ん中の部分の土が凹んでいる。ここに何が置かれていたんだろう?
ジャン:本当だ! なんか怪しいですね。でも我々フランス人には何なのか分かりませんよ。ねえ、ポール。
ポール:(撮影しながら)たしかに分からない……。でも何かの本で読んだことがあるな。こういった場所で、先祖の霊と交信するんだよ。大抵は部族のシャーマンがおこなう。私が読んだのは日本ではなかったと思うが……。
ジャン:(今の話を通訳して)たべるさん、今の小松菜県民はどういった宗教を信奉しているのですか? 隠れキリシタンを匿っていたのだから……キリスト教?
たべる:いや、今では独自の発達を遂げて、仏教や神道とも混ざり合い、そして戦後はスパゲッティモンスター教の影響も受けて、かなり独特な宗教観が形成されているんです。近代科学と土着宗教、そしてIT革命の融合というか……。
ジャン:全然想像が付かない……。
たべる:ああ、でもそういえば、子供の頃にシャーマンのような人はいましたよ。よぼよぼの爺さんで、儀式のときだけ呼ばれるんです。たとえば家を新しく建てるときとか、結婚式とか、葬式とか、そういうときにね。わけの分からない古い言葉で呪文を唱えながら、小さな太鼓を叩いて……そんな感じだったな。それ以外のときは大体家でぼおっと野球中継を観ていました。タバコを吸いながらね。
ポール:(ジャンの通訳を聞いて)ふうむ。ねえ、たべるさん。ちょっとこの真ん中に来てみてください。何か感じませんか? あなたはちょっとこう……普通の人とは違う感性を持っているから、何か感じられるかもしれない。
たべる:(通訳を聞いて)え? 僕が? まあ仕方ないな。よいしょっと。うん、全然何も……(そこで突然衝撃を受けたように倒れ込む。白目を剥いている。よだれが垂れている。ジャンが助けに行こうとするが、ポールがそれを止める。彼はただ撮影している)。
ジャン:(円形に置かれた石の外から)何が起こったんだろう? ついさっきまでピンピンしていたのに……。
ポール:精霊の仕業かもしれない。あるいは先祖の霊か……。
たべる:(突然ピクッと動く。目を開く。でも変な色をしている。右目が赤で、左目が青だ。彼はすっくと立ち上がる。あたりをゆっくりと見回す。まるで何かが憑依しているみたいだ。彼は二人に話しかける)久しぶりにこの世にやって来た。小松菜県が酷いことになっているというのは聞いておる。風が教えてくれたんじゃ。君たちは外国人みたいじゃな? 話しておることが分かるか?
ジャン:(緊張しながら)はい、分かります。日本語検定一級を持っていますので。
たべる:なるほど。それなら大丈夫じゃな。私はこの男、たべるのひいひいひい爺さんじゃ。200年前に死んだが、そのあとで森の精霊になった。しかし何かが歪んでおる。ここ50年ほどのことじゃ。今の知事は誰かね?
ジャン:小松菜茂雄という男です。どうも彼が就任してから腐敗が始まったみたいで。
たべる:そうかそうか。その男はわしのライバルだった男の子孫じゃ。奴もわしと同じように先祖と交信する力を持っていたが、その力を悪い方に使ったのじゃ。わしは奴を岩の中に閉じ込めたのじゃが、きっと誰かが解放したのじゃろう。あるいはその知事が。それによって魔の力を手に入れたんじゃ。魔の力を持っている人間は人の心を容易に操ることができる。人の最も弱い部分を突くことができるんじゃ。わしにもできるよ。でもわしはそれを良い方向に使おうとした。でも奴は逆じゃった。きっとその知事の言うことはみんな素直に聞いてしまうんじゃろう?
ジャン:どうもそうみたいです。人々は思考の自立性を失っています。フランス人からしたら考えられないことですが。
たべる:それはきっと魔の力のせいじゃ。ヒトラーもこの力を持っておった。カリスマ性というかな。でも行き着く先は不毛な場所じゃ。君たちは人が死んだあとにどこに行くか知っておるかね?
ジャン:知りません。僕はカトリックの信仰を捨てたのです。宗教的指導者を信じることができなかったからです。
たべる:ホッホ。まあそれはそれで構わない。人々が「宗教」と呼んでおるものは結局は地上のものじゃからのう。人は別の時間の中に移動するんじゃ。それに比べたら地上の人生なんて一瞬みたいなものじゃ。しかし価値がないというわけでもない。それが価値を持つのは風穴を開けたときのみじゃ。分かるか?
ジャン:分かりません。
たべる:風穴を開けると、風が通り抜ける。そのときに別の世界との交信が始まるんじゃ。その中に精神の自由が存在する。いいか? 地上への執着を捨てなければ我々は幸せにはなれん。しかし死ねばいいというものでもない。死ねば肉体がなくなる。肉体がなくなれば、神の意志を実現する意識が消える。神は我々に生きることを望んでおる。しかしそれは「正義」を追求するためでも、私利私欲を満たすためでもない。神は我々を通じて、世界を完成させることを望んでおる。それが何を意味しているのかは……実際にそういう状況にならんと分からんじゃろうな。
ジャン:あなたがおっしゃる神というのは……キリスト教的な、唯一の神ということですか?
たべる:どちらでも構わん。神でも、神々でも。それは一つであり、全部でもある。彼でもあり、彼女でもある。生でもあり、死でもある。すべてを包含している。だからわしにも正直理解できん。
ジャン:たべるさんは知事選挙に立候補したんです。でも命を狙われているし、県民たちは演説に耳を貸そうとしません。完全に洗脳されているんです。このままでは勝ち目はない。何か方法はありませんか?
たべる:ふむ。たしかに勝ち目はなさそうじゃな。しかしわしからすれば選挙なんてどうだっていいというのが本当のところじゃ。より広い視点に立てば、勝ち負けなんてどうでもいいと思えてくる。風の声を聴くことのほうがずっと有益じゃ。フォッフォ。
ジャン:じゃあ僕らのやっていることは無駄だということですか?
たべる:大事なのは何を目指すのかじゃ。大抵の人間の行為は不毛じゃが、すべてが不毛だというわけではない。我々はその間を生きておる。しかし……そうじゃな、あまりにもこの県の空気が淀んでいるというのは事実じゃ。闇が力を持ちすぎておる。人々の魂は硬直化し、解放を求めておる。しかし彼らに自分で自分を救う能力はない。ほとんどの場合はな。だとしたらカリスマ性のある別の人間が実例を示す必要があるかもしれん。
ジャン:それがたべるさんだというわけですか?
たべる:彼はたしかにほかの人間とは違っている。特殊な能力を受け継いておる。本人はたぶん気付いていないがな。フォッフォ。わしのアドバイス。心の声を聴け。風の声を聴け。まあそういうことじゃな。じゃあ、バイバイ。
ジャン:え? ちょっと待って! 具体的にはどうしたら……。
たべる:(目をぱちくりさせている。変だった目の色が元に戻っている。大きく息をつく)ああ、戻ってきた。変な夢を見ていたよ。ゲームセンターでUFOキャッチャーをやっていて、ぬいぐるみだと思っていたのが、本物の死んだウサギで……。ああ、なんだ。ジャン。そんな変な目をして、どうしたんだ?
ジャン:さっきのは本当だったのか……。たべるさん、さっきご先祖様が憑依していたんですよ。あなたに。
たべる:え? 本当に? なんか言っていた?
ジャン:ええと……いろいろ。心の声を聴けって。あとは風の声を。
たべる:えー? それだけ? スクワットは何回やった方がいいとか、タンパク質は一日に何グラムにしろとか、そういう具体的な話はなかったの?
ジャン:ないですね。
たべる:まったく役に立たないな。さっきから蚊に刺されまくっているから、そろそろ脱出しよう。そういえばイノシシを追ってきたんだった。もうどっか行っちゃったな。もう……。
ポール:(独り言)なかなか貴重なものを撮影したぞ。このデータを盗まれないようにしないと……。
ジャン:じゃあ今日は予定通り山奥の集落で演説をやるんですね?
たべる:当然だ! というかほかに何ができる?
ジャン:何かほかに方法がないか考えないとなあ……。
県内のいろんな場所を歩いて演説をしたが、ほとんど成果は得られなかった。遠くに行ったときは、壊れた納屋なんかで野宿をした。寝袋にくるまって眠る。ジャンはぶつぶつ文句を言っていたが、だんだん慣れてきたらしく、一番最初に眠りに就けるようになった。火も起こせるし、魚を釣ることもできる。釣竿はたべるが手作りした。
ジャン:なかなかこの生活も楽しいですね。原始的というか。
たべる:君も成長したなあ。グスン。あ、涙が……。
ポール:(フランス語で)しかしもう投票日は明日ですよ。ほとんど誰も我々の話を聞いていない。命がまだあることは幸いだが……。逆に不気味だ。これだけ音沙汰がないと。
ジャン:たしかにそうですね。あの大きな岩が転がってきてから政権側の干渉はないです。気付いていないところであったのかもしれませんが……。もしかしたら相手にならないと思って、放っておかれているのかも。
たべる:放っておいてくれるのはもちろんありがたいが……。このままだと供託金も没収され、両親も見付けられず、とぼとぼと帰京する、ということになりかねないぞ。さて、どうしよう……。
ポール:(フランス語で)収容所に侵入するというのはどうでしょう?
ジャン:どうやって?
ポール:ええとそれは……まだ分からないが。
ジャン:(たべるに向かって)収容所に行ってみたらどうかとポールが言っていますが。
たべる:もちろん行きたいがね、どうやって中に入る?
ジャン:入ったところですぐに捕まりそうですしね。
ポール:(フランス語で)じゃあこうしよう。実は私のスーツケースの隅の方にモバイルバッテリーが残っていて、それでオットーとフランクを充電できそうなんだ。彼らを充電し、収容所に行かせる。彼らは西側の壁面で暴れ回る。大きな音を出したりして、可能な限り注意を引く。彼らが心配ではあるが、きっと大丈夫だろう。200万ユーロもしたのだから。それでその間に、反対側の東側の壁を梯子で上る。どうかな? この案は?
たべる:(ジャンの通訳を聞いて)完璧だ! それで中に入ったら……両親を探す。でも見つけたところでどうするんだ? きっと法律によって正当化されているんだ。彼らの収容は。
ジャン:感動の再会。ちょっと言葉を交わす。それでいいでしょう?
ポール:内部の様子を撮影し、Youtubeで発表するんですよ。きっと国際的な人権団体が黙ってはいないでしょう。そのような外圧がきっと役に立つはずです。
たべる:(通訳を聞いて)なるほど。それはそうだな。外部の人たちに見てもらうんだ。よし、決まった。それで決行は……?
ポール:(通訳を聞いて)今からですよ。もちろん。歩いて実家に戻り、オットーとフランクを充電しましょう。夕方には決行できるでしょう。
たべる:(通訳を聞いて)それなら急いだ方がいいな。
彼らは移動する。いつもより早いペースで。空は曇り。相変わらず彼らが近寄ると人々は逃げていってしまう。のどかな風景。しかしなんとなく雰囲気はどんよりしている。遠くの方に市役所から立ち上る煙が見える。お昼くらいに実家に着く。火を起こして米を炊く。干し椎茸と干し大根がおかずだ。ポールはオットーとフランクを充電する。
オットーとフランク:(突然起き出して)ゲンキゲンキ! マンタンジャナイケド。
ポール:君たちは電気を使いすぎるんだよ。まあ半分くらいで我慢してくれ。
オットーとフランク:ニンゲン、コロス! ニンゲン、コロス!
たべる:殺さないでくれよ。適度に暴れてくれればいいから。できるだけ誰も傷つけないように。分かった?
オットーとフランク:ワカッタ。Ich verstehe.(理解した)ニンゲン、コロサナイ。キズツケナイ。
たべる:それでいい。じゃあ行きますか?
ジャン・ポール:行きましょう。
収容所近く。門があって、警備員がいる。オットーとフランクを放す。彼らは大声でドイツ語の歌を歌いながら、突進していく。警備員が止めに入るが、するりと抜けていく。警備員が発砲する。当たるが、金属音がするだけで二人は倒れない。そのままどんどん進んでいく。アラームが鳴る。続々とほかの警備員たちが集まってくる。オットーとフランクは踊っている。手を叩いている。やかましいことこの上ない。
たべる:(長い梯子を持ちながら)行きましょう!
ジャン:(一緒に梯子を持ちながら)ここを右に行けばいいんです。そうそう。
ポール:(ヘルメットに小型のカメラを付けて撮影している)これは素晴らしい場面だ。殺されないことを願おう。
三人、見つからないように移動しながら、東側の塀に行き着く。かなり高いが、なんとか上れそうだ。梯子を立てかける。たべる、ジャン、ポールの順に上っていく。塀の先は広場になっている。梯子の先端にはきつくロープが結んであって、それを垂らす。それを伝って、なんとか下に下りる。たべるとジャンは頭に白い手拭いを巻き、鼻の下で止めている。泥棒にしか見えない。
たべる:ドキドキするな。というかここはなんにもないぞ。畑くらいだな。運動場といったところか。
ジャン:アラームが鳴っていますね。オットーとフランク、無事ならいいけど。
ポール:早く行きましょう!
三人、奥のドアの方に行く。白いコンクリートの巨大な建物。運動場に面してたくさんの窓が付いている。建物の中は清潔だ。ごみ一つ落ちていない。そのとき歩いている一人の男を発見する。上下白い服を着て、マスクを着けている。彼は驚いた様子も見せない。なんだかぼんやりしている。たべるは彼を捕まえる。
たべる:なあ、ここに僕の両親が捕まっているはずなんだ。小松菜隆と小松菜郁子だ。知っているかな?
男はコックリと頷き、彼を連れて階段の方に行く。ジャンとポールも一緒に行く。五階まで上り、ある一つのドアの前に辿り着く。男はそこで離れる。たべるはドアをノックする。コンコン。
たべる:ねえ、お父さん! お母さん!
奥から声のようなものが聞こえる。ドアが開く。同じような白い服を着た男性。何が起きているのか理解できていないようだ。
男性:ええと……誰かな? 君は?
たべる:お父さん! どうしちゃったんですか? そんなにぼんやりした目をして? 昔は殺気に満ちていたじゃないですか? ここで何をしているんですか? 何をやられたんですか?
隆:ああそうか。たべるか……。君もここに来たんだな。いやあ良かったよ。私は来るのが遅すぎたくらいだ。ここではいろんなものが清潔で、近代化されている。我々はプログラミングを学んでいるんだよ。もう農業なんて古いね。後ろにいるのはお友達かい? ナイストゥーミーチュー。ハッハ。
たべる:完全に洗脳されているな。こんな生活のどこがいいんですか? ここは人間の住むところじゃないですよ。一緒に逃げましょう!
隆:逃げる? まさか。我々はいたくてここにいるんだよ。三食きちんと食べられるし、自由時間だってある。もっぱら将棋を指しているがね。ハッハ。ところでアメリカでは移民がペットを食べているらしいな。まったく世も末だね。
たべる:それはフェイクニュースですよ。お父さん! お母さんはどこにいるんですか? あ! お母さん! なんか変なポーズでストレッチをしている。お母さん!
郁子:あら、たべる。久しぶりじゃない。あなたも東京なんて住んでないでここに来なさいよ。何もかも完璧なのよ。こうやってヨガも教えてもらえるしね。
たべる:ああ、お母さんも洗脳されている。ここで何をされたんですか?
郁子:何をって……当たり前のことよ。今までの生活から離れ、もっと合理的で近代的な生活に移る教育を受けさせられたの。私たちは政権のことを何も知らなかったから……。本当に素晴らしい人たちなのよ。そういえば今回の選挙には誰か対抗馬が出るって言っていたけれど……。
たべる:それが僕なんですよ! お母さん! 僕は選挙に出ます。そして小松菜県を変えるんです。大事なのは精神の自由ですよ!
郁子:あらそうなの。頑張ってね。でももちろん、今の知事さんの邪魔にならないようにね。何しろあの人がみんなを救ってくださるのだから。あなたは昔から反抗的だったけれど、そろそろ変わらないとね。もう大人なんだから。大人は大人らしく、まともなことをするものよ。いい? 正しいことをするの。誰がなんと言おうとね。
たべる:その「正しさ」こそが問題なんですよ。
隆:それはそうと君たちはどうも臭うな。ちゃんとお風呂に入っているのかい? ここに有害な菌が入ったらどうするんだ? みんな病気になって……死んでしまうぞ。しかも外国人だろう? ほら、待っていなさい。今から徹底的に除菌してやるから(そう言って裏に行く。でかいスプレーを持って戻ってくる。それをプシュプシュやり始める)。
たべる:ああ、お父さん! やめてください! 僕らは自然の中での生活を楽しんでいたんです。ちょっとの雑菌くらい大したことないですよ。やめて、やめてったらもう!
隆:これでも足りないな。ほら、お風呂に来なさい。徹底的に除菌してやるから。全身の毛を剃り落として……。
たべる:そのうちきっと二人の魂を救ってみせますよ。ここは檻のようなものだ。問題はそれが精神の檻だということだ(部屋を出る)。
ジャン:なかなか衝撃的なものを見ましたね。
ポール:しかし虐待がおこなわれているという明確な証拠はない。彼らはあくまで清潔な生活に移行しただけだ。人権団体も何も言えないかもしれないな。
たべる:そろそろ警備員たちも戻ってくるかもしれない。仕方ない。ここは帰りましょう。
ジャン:それがいいかもしれない。
ポール:うーん。想定外の展開だな。
三人、急いで運動場に戻る。ロープを伝って頑張って上る。そして下りる。梯子を持って、門から出る。オットーとフランクはまだ騒いでくれていた。銃声が聞こえる。彼らはするりするりとかわす。
オットーとフランク:ドイツバンザイ! ドイツバンザイ!
三人が実家に戻ったところで、オットーとフランクが戻ってくる。至るところ銃で撃たれた跡があるが、機能に問題はなさそうだった。彼らは帰ってくるとその場でへたり込む。また充電がなくなったのだ。
たべる:さて、これで選挙運動も終わってしまった。両親が生きていたのは幸いだが、完全に洗脳されていることが分かった。勝ち目はあるのだろうか?
ジャン:ごく公平に言わせてもらえれば、一票でも入っていたら奇跡ですよ。
ポール:虐待の痕跡も見当たらなかったしな。精神的なもの以外は。
たべる:とにかくぐっすり眠るしかないみたいだ。
ジャン:そうですね。不幸中の幸いはあまりにも相手にならなくて、命を狙われずに済むということかもしれませんね。
ポール:明日は投票の場面を撮影しよう。
翌朝、たべるは一番に起きて庭でスクワットをしている。そこへベンツが現れ、中からミキちゃんが出てくる。
ミキ:おはよう。たべるさん。今日はいよいよ投票日だけれど、実はその前に知事が会いたいと言ってらっしゃるの。あなた一人でね。フランス人と謎のロボットは抜きで。一緒に乗ってくれるかしら?
たべる:うう……。なかなか危険な申し出だな。でも断ってもどこにも事態は進まない気がする。というか実際にあいつに会ったことないしな。仕方ない。行ってみるか。
ミキ:後ろに乗って。
たべる:はいはい(そしてベンツの後部座席に乗る。ものすごいスピードでミキちゃんは飛ばす。あっという間に市役所に着く。彼らは歩いていく。早朝なので、警備員以外誰もいない。エレベーターに乗って、五階に着く。その奥の部屋に通される)。
ミキ:じゃあ、くれぐれも無礼のないようにね。
たべる:ヘッヘ。僕のマナーはあまりにも完璧なので、誰も理解できないレベルに達しているんだよ。心配するなって。
ミキ:(巨大な豪華なドアを開けて)いらっしゃいました。
知事:(遠くから)どうぞ。
たべる:なんだか緊張しちゃうな……。でも行くしかあるまい。どりゃあ!……と大きなテーブルと椅子のある部屋。一番奥の椅子に老人が座っている。高級そうなスーツ。白髪頭。でもそんなに悪い奴には見えないな。
知事:君の噂は聞いておった。ほら、そこにかけたまえ。
たべる:いや、立ったままでいさせてください。僕はちょっとあなたに言いたいことがあるんです。人々と、そして両親のことです。あなたは彼らに何をしたんですか?
知事:何をって……ごく普通のことだよ。合理的な教育を施してやったに過ぎん。君はあれを虐待と言うのかね? どうも教育センターの中に入ったみたいだが。
たべる:教育センターだって? あれは……収容所じゃないですか? というか知っていたんですか?
知事:バレバレだよ。もちろん。衛星画像によって君たちの行動は逐一見させてもらっていた。ここではプライバシーというものは存在しないのでね。私が――そして私が作った組織が――すべての人々の行動を観察している。もしそれが間違っていたら、正しい方に直してやる。それの何が悪い? いいか? 君だから言うんだがね、ほとんどの人間は自由なんか求めてはいないよ。彼らが求めているのは指針だ。自由になるのが嫌なんだよ。従うべき命令を与えてくれる人。それを彼らは求めている。そして私がその役に就いた。ただそれだけのことだよ。
たべる:あなたは何がおかしいのか知っているはずだ! 人間は隷属するために生まれてきたんじゃない。どうしてフランス革命が起こったと思いますか? 人々は自立性を求めていたんだ。
知事:それは眉唾物だね。歴史が示している通り、大衆は愚かなものだよ。いつの時代もね。彼らは従うか、反抗するか、どちらかだ。そしてそのまま死んでいくのさ。自分に思考の自由があったことも知らずにね。我々は彼らの苦しみを少しでも軽いものにしてやろうと考えている。それだけのことだよ。何が正しいのか教えてやる。反抗的な者は矯正する。矯正し切れない者は……幸せな夢を見てもらう。
たべる:何ですか? その夢ってのは?
知事:それは我々が開発した最新式の装置でね。それにつながれて、眠りに就く。そうすると終わりのない夢を見ることができるんだよ。自分の生きたい世界で、生きたいように生きることができる。もちろんフィクションに過ぎんがな。それは永遠に続いていく。というのもそこにはきちんとした時間が流れていないからだ。その間に我々が肉体を燃やす。この建物の煙突から煙が出ていただろう? あれがその煙だ。人々は肉体を離れ、精神になる。そして一生夢を見続けるんだ。
たべる:それが本当に幸福だと?
知事:ある種の人にとってはな。彼らは夢と現実の区別も付かないんだ。我々は彼らを助けてやっているんだよ。あくまでそれだけだ。そして私が君に望むのは、そのシステムをこれ以上乱さないでほしいということだ。君たちが来ただけで住民たちは怯えている。誰か君の演説を聞いたかい? そういえば?
たべる:いや、ほとんど誰も。イノシシとシカくらいですね。
知事:そうだろう。ハッハ。教育の成果だ。いいか? 君はここの生まれだが、都会に魂を売った。今さら戻ってきてどうする? あちらで不毛な生活を送ったらいい。我々は我々の静かな生活をここで送る。まあ今日の夕方には選挙結果が出るだろう。きっとほぼ私が独占すると思うが。
たべる:正直なところもう選挙なんてどうだっていいんです。供託金だってくれてやります。でも僕が本当に問題にしたいのは……。そう、あなたです。
知事:私が?(ニヤリとする) 私をどうしたいというのかね?
たべる:僕が思うにたぶん僕はあなたに会いにここに来たんです。今気付いたんですが。
知事:私に会って何をしたいんだい?
たべる:あなたの魂が僕を呼んでいたのではないかと僕は考えています。あなたは実は心の奥底では救われたいと願っていた。そしてその願いが風に乗って僕のところにまでやって来たんです。僕は無意識にその願いに従った。そして選挙に立候補した。ここがチャンスです。僕はついにあなたに会うことができた。僕は山の中で儀式の跡を発見しました。石でできた円があったんです。その中心にいるときに、ご先祖様が憑依しました。あなたもあそこで自分の先祖の霊を呼び出したのでは?
知事:だとしたらどうだというんだね? 別に法律に反してはいないぞ。
たべる:あなたはそこで闇の霊に魂を売ったんです。そのおかげで現世的な力を手に入れることができた。たしかヒトラーも同じ力を持っていたはずです。並外れた指導力。言葉の巧みさ。人々の弱みを瞬時に見分ける能力……。しかし問題なのはその方向です。あなたは方向を失っている。だから狭い世界に閉じこもっているんです。実は自分でも袋小路にいると知っているんじゃないですか? このままだと外の県を攻撃しかねない。疑心暗鬼になった独裁者は大抵外に悪を探し出しますからね。人間は純粋な善には耐えられないからです。人間というのはもっと複雑で、動き続けているものなんです。あなたはその「動き」を取り戻したかったのでは?
知事:ハッハ。ご立派な若者だよ。もうさほど若くもないが。わざわざ私を救いに来てくれたというのかね? スーツを買う金もないのに。
たべる:スーツなんかなくてもいいんです。革靴も要らない。ベンツもね。オフグリットでも十分暮らしていけます。あなたは何かを見失っている。心の純粋さです。人生に対する好奇心です。そして謙虚さ……。あなたは怯えているんだ。真実を見るのが怖いんだ。だから演技をしているんですね?
知事:私が何を怖がっているというのかね? 教えてほしいな。
たべる:だから真実です。あなたは夢を見ている。
知事:ここは現実だと思っていたが。
たべる:現実なんかどこにも存在しません。恣意的に切り取られたそれぞれの幻想があるだけです。しかし幻想に本物の穴が開けば、そこに本物の風が通り抜けます。その中に自由は存在している。僕はそう信じています。
知事:じゃあ信じていればいい。私はそろそろ……。
そのとき先祖の霊がたべるに憑依する。突然目の色が変わる。右目が赤で、左目が青だ。知事はすぐにそれを見て取る。彼はガタガタ震え始める。
たべる:お前は知っているはずじゃ。お前は世界のバランスを乱しておる。それは間違ったことじゃ。
知事:あんたは……。
たべる:お前は自分で自分をコントロールできなくなっておる。お前の魂は悲鳴を上げている。わしにはそれを聞き取ることができるぞ。いいか? よく聞け。この先に救いはない。
知事:ハッハ。俺にお説教しようというのかね?(まだ微かに震えながら) 俺は知事だぞ? 分かっているのか?
たべる:知事だろうと何だろうと関係ない。あの世に行けば一緒じゃ。魂は透明だからな。
知事:じゃあ早くあの世に帰ったらどうだ?
たべる:まだ帰るわけにはいかないんじゃ。あんたがわしを呼んでおったからな。
知事:俺が? まさか?
たべる:あんたはこう思っているはずじゃ。この世界は自分の筋書き通りにできると。でもなんでそのあんたを作っている別の存在がいるとは思わないんじゃ? あんたはただのフィクションじゃ。あんたに真の自由はない。少なくとも今のところはな。
知事:ハッハ。なんとでも言えばいいさ。ただの言葉遊びだ。それくらいしか言えないのか? 先祖の霊なのに。
たべる:あんたは分かっておるはずじゃ。あんたは自分で自分をあの「装置」につないんだんじゃ。そして都合の良い夢を見ることを選んだ。あんたは一生ここから抜け出すことはできんよ。というか永遠にじゃ。死も訪れない。それは呪いじゃ。それに耐えられるかな?
知事:嘘だ。俺は自分を装置につないだりはしなかった。そんなことをしたら部下が止めるはずだ。
たべる:いや、あんたの命令なら止めんだろうさ。救われる唯一の方法を教えてやろうか? 踊ることじゃ。歌って踊るんじゃ。盆踊りのときのように。
知事:勘弁してくれよ。俺はあれが大嫌いなんだ。人々の意識の緊張を一時的にでも弛緩するために年に一回は許しているが……俺自身は参加したことがない。子供の頃からな。
たべる:駄目じゃ、踊るんじゃ! いいか? これはあんたのためじゃ。このあたりであんたのことを考えている奴は誰もいないぞ? 偽りの忠誠心とお追従、まあそれくらいじゃろう。あんたは愛が何であるのかも忘れてしまった。生まれたときは可愛い赤ん坊だったのにな。あの頃お前はただ「そのもの」として生きておった。でも今では……腐り切っておる。しかしまだ救いはあるぞ。なにしろ生きているのだからな。踊れ! 踊るんじゃ! さあ、さあ、さあ……。
知事:(胸のポケットから小さな拳銃を取り出す。そして発砲する。パン! たべるの額に穴が開く。血が飛び出し、倒れる。知事は冷静にそれを見ている)俺に逆らったらこうなるのさ。傲慢にも俺に説教しようとするなんてな。ハッハ。おっと!
知事、そこで突然ぐらりと揺れて倒れる。拳銃が転がる。たべるは突然意識を取り戻す。目をぱちくりさせている。自分の額に手をやる。穴が空いている! 彼は驚く。でもすぐに床の拳銃に気付き、それを拾う。知事はうつ伏せに倒れたまま、目を見開いてそれを凝視している。
たべる:いったい何が起きたんだ? 僕は……これで撃たれたのか?
知事:ううぅ、ううぅ……。
たべる:よく分からないぞ。僕が撃たれたのに、知事が倒れている。ああ、額の穴を風が通って気持ち良い! これだ! これが僕の求めていたものだ!
知事:ううぅ、うぅぅ……。
たべる:知事が何か言っているぞ? え? 俺を撃ってほしい? なんかそう言っているみたいに聞こえるぞ? (あたりをキョロキョロと見回す)うん、誰も来ないな。誰も見っていないぞっと。ええと、この引き金を引けばいいんだよな。銃口を知事の額に向けて……。パン! おお、びびった。マジで当たっているぞ。死んだかな。額に穴が……。ああ、なんか突然力が抜けてきた。ヤバい。僕も死ぬのかな。ああ……(倒れる)。
たべる:(ハッと目覚める)あれ? ここはどこだ? 実家じゃないか? 実家の庭だ! 額の穴は……塞がっている! 何があったんだろう? あれは全部夢だったのか?
ジャンとポール、家から出てくる。眠そうに目をこすっている。
ジャン:ああ、たべるさん。今車の音が聞こえたから出てきたんですよ。たぶんあのベンツですよね。何か言われたんですか?
たべる:というか知事に会ってきたんだよ!
ジャン:本当に? (フランス語でポールに教える)
ポール:(悔しそうに)撮影したかったな!
たべる:いろいろと話したけど、僕は最後にご先祖様に憑依されて……そして突然撃たれたんだ。ほら、ここだよ。目と目の間。
ジャン:何もないですね。ニキビのほかは。
ポール:(通訳を聞いて)あなたは夢を見ていたのでは?
たべる:(通訳を聞いて)よく分からないなあ……。最後に僕は知事を――彼は倒れていたんだけど――撃ったんだよ。目と目の間をね、同じように。彼は……死んだのだろうか?
ジャン:もしそれが本当なら警察が捕まえに来ますよ。ポール、一緒に投票所を撮影に行きましょう。たべるさんはちょっと隠れていて。納屋にでも。
たべる:でも日当たりが悪いしなあ。ネズミだっているんだよ。チュウチュウって……。
ジャン:命のためですよ!
たべる:はいはい……。
ジャンとポール、一番近くにある投票所を見に行く。一時間くらいして戻ってくる。ポールが撮った映像を見せてくれる。
ポール:何も変わったことはありませんでした。住民に表情がないこと以外は。粛々と投票は進み、建物から出てきます。それだけです。
ジャン:あなたが死んだとも、知事が死んだとも書いてありませんでした。だからやっぱり夢だったのでは?
たべる:まあそれならそういうことにしておいてやろう。でもすごくリアルな夢だったな。現実よりもリアルだった。
ポール:(通訳を聞いて)現実なんて本当は存在しないのです。きっと。サルトルだってそう言っています。読んでないけど。
ジャン:もしかしてそうかもね。僕らだって誰かが作った登場人物にすぎないかもしれないし。
たべる:本当にそうかもしれない。もしそうだったら僕はそいつの顔をぶん殴ってやるんだけどなあ……。
ジャン:なぜ?
たべる:分かんないけど。なんとなく。
夕方になり、出口調査の結果が出始める。三人は恐る恐る市役所に出向く。しかし警備員に止められることもなく、すんなりと中に入ることができた。ロビーにたくさんの職員が集まっていて、テレビを観ていた。そこには地元のテレビ局が制作したライブの選挙速報が映し出されている。人々は興奮した様子もなく、ただじっと観ている。結果は予想通りだった。ほぼすべての票を知事が獲得しているのだ! しかし一票だけ、なぜかたべるに入っている。奇跡の一票!
ジャン:すごい。誰が入れたんだろう? 命の危険を冒してまで?
たべる:今ふと思ったんだけど、これは知事本人だったりして。
ポール:(通訳を聞いて)Pourquoi?(どうして?)
たべる:いや、なんというか、勘なんだけど。
ミキ:あら? 頑張ったのね。一票入っているじゃない? でもこれじゃあ供託金は没収ね。
たべる:300万なんてはした金さ。僕が残念なのは選挙に負けたことよりも人々に自由の素晴らしさを伝えられなかったことだ。
ジャン:あ、ほら、知事が登場しましたよ。いよいよ勝利の報告会だ!
ポール:(撮影しながら)なんだか目つきが変だなあ。
知事:(マイクの前に立ち)ええ、ゴホン。皆様本日はこのようにお集まり頂き、ありがとうございます。今回13回目の当選が確定いたしまして……。
そのとき突然天井のスピーカーから音楽が流れ始める。これは……「小松菜音頭」だ! いったい誰が流しているのか? 聴衆はざわざわし始める。知事は一度頭を抱える。そしてうずくまる。側近が急いで助けにくる。しかし知事が彼らを突き飛ばす。彼は突然服を脱ぎ始める。上着も、スラックスも、靴下も……。そしてトランクスとネクタイだけという格好になり(なぜかネクタイだけは締め直した)、力強く小松菜音頭を踊り始める。すかさずたべるがステージに走っていき、服を脱ぐ。ボクサーブリーフ一丁になって、彼もまた踊る。人々は頭を抱えてうずくまっている。どうしたらいいのか分からないのだ! ジャンとポールもまたそれに参戦する。服を脱ぎ、本能が赴くまま踊る。一人、また一人と仲間に入ってくる。
そこで突然音楽がハードロックに変わる(誰が選曲しているのだろう?)。たべるがエアギターを掻き鳴らす(ポーズを取る)。知事もまた頭を振り乱し、ギターを弾いているふりをしている。みんなが狂気に満ちたダンスを踊る。カオスだ! カオスがやって来たのだ!
ジャンはぴょんぴょん飛び跳ね、ポールは超高速「どじょうすくい」を披露する。それに負けじと県庁の幹部職員が超超高速「どじょうすくい」を披露する。ポールも負けじと超超超……。
音楽が止まったとき、みんな倒れ込んでいた。誰も意識を保ってはいない。あるいはこれが人々の洗脳を解く助けになったのかもしれない。たべるはいち早く起き上がり、ジャンとポールを突いた。彼らはなんとか意識を取り戻す。三人は急いで実家に向かった。そこでオットーとフランクを担ぐ。そのときまだモバイルバッテリーが残っていることを発見したポールがかろうじて充電に成功する。ただ時間がかかるので途中までは三人で担いで持っていく(ひどく重い)。プラス、リュックやスーツケースを運ばなければならない。夜の闇の中、なんとか田舎道を進んでいく。途中でオットーとフランクが動き始める。彼らが荷物を持ってくれる(「マカセロ! マカセロ!」)。真夜中近くになって、ようやく県境に辿り着いた。
たべる:ふう、ようやくここまで来ましたね。
ジャン:急いで逃げる理由はあったんだろうか?
たべる:社会秩序を乱したとか、そういうことを言われる恐れがあったからね。でももう一つ、僕の魂がここの空気に耐えられないということがある。空気は澄んでいるんだが、雰囲気というのかね……。
ジャン:まあたしかに僕も感じてはいましたよ。人々は気の毒だが……でもあの踊りで何かが変わったのだろうか? 知事も踊っていましたね。意外にも。
ポール:(フランス語で)彼はなかなかのテクニシャンだった。
たべる:うん。なんとなくだけど……ここでできることは終わったかな、という気がするんですよ。もしかして知事も変わるかもしれない。今日のあの踊りを見ていたらそう感じましたね。彼は独裁者でいることに飽きたのかもしれない。
ジャン:トップが変われば、民衆はあっという間に変わるでしょうね、きっと。
たべる:そう願いたいが……。あれ? 道の真ん中に誰かが立っているぞ!
タケシ:やあやあ、みなさん。こんな夜中にコソコソと。
たべる:タケシ! お前は……何をしているんだ?
タケシ:そのフランス人の撮影したデータを頂きたい。全部だ。それを公開されるとちょっとまずいんでね。
たべる:悪いものは映っていない。ただありのままを撮っただけだ。なあ今日の知事を見たかい? 彼は踊っていたよ。踊っていたんだ! あの知事が。
タケシ:そうみたいだな。あの爺さんもそろそろ耄碌してきたからな。もし病気か何かで倒れたら……後継者が必要だろう?
たべる:お前がそれをやるつもりなのか?
タケシ:ほかに誰がいる? ハッハ。とにかくそのデータをよこせば文句は言わないからさ。おとなしく渡せよ。
ポール:(通訳を聞いて)それは法律に違反してはいないのかね?
タケシ:(ジャンの通訳を聞いて)違反してはいないね。特に小松菜県では。体制に不都合なものは持っていてはいけないのさ。
たべる:お前も踊ればよかったんだ。踊ればその邪悪な魂は……。
タケシ:邪悪なのはお前の方じゃないか。外の世界に行って、穢れちまった。今回のこともそうだ。みんな静かに暮らしていたのに、お前らのせいで滅茶苦茶だ。ここから秩序を回復するのにどれくらいかかるか。部外者が興味本位でやって来るような場所じゃないんだよ!
そのときものすごいエンジン音が聞こえて、猛スピードでベンツがやって来る。黒光りするベンツ。土埃を巻き上げ、急ブレーキをかける。運転席からミキが出てくる。派手なサンバ風の衣装を身に付け、踊っている。カーステレオから陽気なブラジル音楽が聞こえてくる。
ミキ:ホウ! ホウ! どうせ死ぬなら踊らにゃソンソン! ホウ! ホウ!
タケシ:どうしたんだ! お前まで洗脳されて……。
ミキ:洗脳されていたのはそっちだヨンヨン! ホウ! ホウ! (一行に向かって、そっとつぶやく)こっちはいいから早く逃げて! なんとかするから!
たべる:これはなかなか驚いたが……早く逃げよう。いいか、タケシには手を出すなよ、オットーとフランク! そんなことをしたら思うつぼだからな。泥棒のように逃げよう……。
ジャン:彼女は美しい……。
ポール:非常に興味深い人々だ……。
オットーとフランク:テハダサナイ、テハダサナイ……。ホウ! ホウ!
ミキ:(無理矢理タケシの腕を掴んで、一緒に踊ろうとする)ほら! 踊りなさいよ! 肉が付いたんじゃないの? 運動不足だからよ!
タケシ:ほら、離せって、この……。
ミキ:ホウ! ホウ!
一行はようやく県境を越える。また同じ納屋が見える。50年ほど前のビールのポスター。(当時の)若い女性が微笑んでいる。彼女も生きていればおばあさんだろう。前にこれを見てからものすごい長い時間が経ったように感じられる。その納屋を越え、もう安心だと思ったところで、どっと疲れが出てくる。
たべる:なんだか疲れましたよ……。
ジャン:タクシーを呼ぼうにも携帯の充電が切れているし……。
ポール:たった今最後のカメラの充電も切れてしまった。いやあしかし……得難い経験をしましたね。
たべる:両親を置いてきたのが心残りだったが……きっと知事が変われば収容所も変わるだろうし。
ジャン:来年の盆踊りの時期に帰ってくるんですか?
たべる:おそらくは……。それまでは供託金の300万を返すためにバイトしなきゃなあ。ハァ……。
ポール:(通訳を聞いて)たべるさん。ため息はまだ早いですよ。僕が動画を編集して、Youtubeにアップします。広告収入は山分けしましょう。きっとたくさん観られますよ。
たべる:(通訳を聞いて)でもそれは正しいことなんだろうか?
ポール:(通訳を聞いて)というと?
たべる:(通訳を聞いて)あそこはそっとしておくのがいいのかもしれないと思ったんです。今は。おそらく知事は今までの知事と一緒じゃないでしょう。あと一年様子を見てみたいと思います。そこで動画のことは判断しましょう。タケシが余計なことをしなければいいが……きっとミキちゃんがうまくやってくれますよ。それまではまあ……noteに文章を上げるくらいにしておいて。
ポール:(通訳を聞いて)もったいないなあ。しかしあなたのそういうところが好きなんです。あなたはあまり金に執着していませんね。
たべる:(通訳を聞いて)まあそうかもしれませんね。金が要らないわけじゃないのですが。
ジャン:僕は金がほしいですよ。彼女も欲しいし……。ああ、もうヘトヘトだ。オットーとフランク! 君たちにはタクシーを呼ぶ機能は備わっていないのか?
オットーとフランク:タケシ、ヨブ! タケシ、ヨブ!
たべる:いや、タケシは呼ばなくていい! あいつは危険だ!
オットーとフランク:タケシ、ヨブ! タケシ、ヨブ!(そして消えてしまう。猛スピードで)
たべる:本当に連れてくるつもりだぞ……。
ジャン:そんなつもりは……。
ポール:データが破壊される……。
オットーとフランク:小松菜県の方から猛スピードで戻ってくる。オットーがタケシを背負っている。タケシは顔色が悪い。なんだかしょんぼりしている。
たべる:やあ、また会ったな。誘拐罪とか言わないでくれよ。
タケシ:(オットーから下ろされて)いや、俺は……いや、参ったな。足がガタガタ震えている。
ジャン:なんだか違う人間みたいですね。生まれたてのプードルみたいだ。
タケシ:俺は小松菜県を出たことがないんだ。ああ、怖い。誰かに会ったらどうしよう? きっと言葉の訛りのせいで笑われるぞ……。ああ、どうしよう。怖い怖い。
たべる:なんと内弁慶な奴なんだ。ハッハ。でも分かるよ。僕も最初はそうだった。あまりにも居心地がいいからさ、外に出るのが怖いんだよ。でも大丈夫。外の世界にだって良い人はいる。もちろん悪い人もいる。ほとんどはそのハイブリット型だが。
ジャン:まあ当然ですが。
タケシ:(ガタガタ震えながら)帰りたいよう。
たべる:この際一緒に東京に行かないか? 君もそこで悪知恵を発揮したらいい。
タケシ:嫌だ。俺は帰る(猛ダッシュで小松菜県の方に帰る)
オットーとフランク:タケシ、ヨブ! タケシ、ヨブ!(追いかけようとする)
たべる:いや、いいから。ストップ! ストップ!
オットーとフランク、突然止まる。また充電が切れたみたいだった。三人は頑張って担いで戻ってくる。
ポール:いささか困ったロボットですな。
ジャン:もともと悪かったのか。地獄谷先生が悪いのか……。
たべる:今日は野宿みたいですね。寝袋はあるから、あそこのチェーン着脱場で一夜を明かしましょう。でもさほどきついとも思わないな。慣れというのはすごい。
ジャン:実にね。
ポール:しかし億万長者になってから一番の面白い旅だったなあ。もう一度やりたい。
ジャン:僕は御免ですが。
たべる:あ! シカがいる! あれを捕まえて夕飯にしよう!(山奥に入る)
夜が更け、時間はゆっくりと過ぎていく。小松菜県にもほかの県にも等しく夜明けがやって来る。三人は野宿に慣れてしまっていて、完全にぐっすりと眠り込んでいる。優しい風が吹いて、通り抜けていく。虫たちが飛んでいる。鳥が鳴いている。遠くの方でバイクの音が聞こえる。新しい一日がやって来たのだ。
たべる:(一番先に起き出して)ああ、新しい朝がやって来た。希望の朝だ。スクワットをやろう。1、3、7、12……200と。ふう、あっという間だな。金はなくなって、知事にもなれなかったが、なんだか清々しい気持ちだ。現実というのは実に奇妙だ。希望と絶望が混じり合っている。決してどちらかだけに満たされるということがない。
ジャンとポール、もぞもぞと起き出す。
ジャン:今日も良い天気ですね。たべるさんから今回の給料をもらったら、僕は旅に出ることにしましたよ。ずっと考えていたんです。
たべる:いったいどこへ?
ジャン:風の吹くまま気の向くまま。
ポール:(フランス語で)私はもう少したべるさんを撮影したいんだが。バイト先で怒られているシーンがどうしても欲しいのでね。
たべる:なんて言っているんだ? 彼は?
ジャン:パイナップルが……食べたいん……だなあ、だそうです。
たべる:(ポールに手を差し出して)君は最高だ!
ポール:(フランス語で)私も同感だよ(そして握手をする)
ジャン:しかしまずは充電できる地点までこいつらを運ばないといけませんね。すごく重いんだよなあ。
たべる:僕は鍛えているから大丈夫ですよ。ほら(スクワットをやり始める)、201、203、207……。
ジャン:ちょっと数え方おかしくないですかね。まあいいや……。
三人は頑張って荷物とロボット二体を運んでいく。シカとイノシシとクマが森の影からそれをそっと見守っている。そのようにして地球は新しい一日を迎える……。
……ということで、以上、小松菜通信でした! この後の小松菜県はどうなるのか? 目が離せませんが、なかなか情報が入ってこないのです。細かい情報は来年の盆踊り大会まで待つことにしましょう。たべる君がレポートを忘れなければ、ですが。果たして知事は変わったのか? 小松菜県において、踊りはどのような価値を持つようになったのか? タケシは悪だくみを続けるのか? ミキちゃんはサンバダンサーに鞍替えするのか? たべるの両親は人間性を取り戻せるのか? 小松菜は豊作なのか? それとも……。興味は尽きませんがそろそろお別れしたいと思います。なにしろ時間は貴重ですからね。え? うるさい? じゃあ黙ります。
以上、現地からレポートでした!