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生きる

「生きる」という行為は単なる状態ではない、と私は常々思ってきた。それは本来もっと主体的な、どこか目的と結び付いた、神聖な行為なのではないか、と。神聖●●。うん。しかし実際にはそうなっていない。私自身もそうだし、おそらくはほかの大勢の人たちもまた似たような状態に置かれているのだと思う。要するに「生きる」という行為が、自明の状態と化してしまっているのだ。まったく・・・。


自明性を覆すためには我々は死を見つめなくてはならない。少なくとも私はそう信じて疑わない。なぜなら死だけが意識に有効な風穴を開けるからである。。生命の、終わり。



もっとも私は便宜的に「死」という言葉を使ってはいるけれど、必ずしも死について詳しく知っているわけではない。というか生きている人間にとって、完璧に死を知悉ちしつするという行為は不可能なのではないか? 私はそう考えるのである。



だから私の言う「死」とは単なるイメージに過ぎない。それは黒い穴として想起される。あくまでこれは私の場合は、ということだ。きっとほかの人にとっては、まったく違った形の死が用意されているのだと思う。体質により、性格により、視点により、その形状は様々に変わる。しかし変わらないことだってあるだろう。それは要するに「生の終わりだ」ということである。なにしろそれが一番本質的な死の特質なのだから。



さて、私は今何を語ろうとしているのだろう。。そう、穴のことだ。死が具体的な像を取った、私にとっての風穴。風穴と言うからにはそこからは風が吹いてくる。あるいはどこかからやって来た風がそこに最終的には吸い込まれて消えていく。我々の存在自体、実は似たようなものなのかもしれない、とふと私は思う。どこかからやって来て、どこかへと去っていく。移動。うん。移動●●。記憶はどんどん降り積もっていくが、それも死ねば(おそらくは、だが)どこかに消えていくのだろう。少なくとも私はそう思っている。我々は移動し、移動し、移動する。もし風穴がなかったならば、その動きはひどく窮屈なものになってしまうはずだ。風は行き場を失い、おそらくはそこで・・・死ぬ。奇妙なことだが、死がある場所では風は生き生きと動き、逆に、死のない状況においては風は死ぬのだ。風を「意識」と言い換えてもいいかもしれない。移動し、移動し、移動し続ける、意識。もっとも厳密に言えば死を抱えていない意識なんてものはおそらくは存在しないはずだ。我々は心のどこかでは——たぶん——自分がいつか死ぬ存在であるということをちゃんと知っているのだ。しかし、フィクションを見続ける、ということは可能である。フィクション。うん。



フィクションとは閉じられた四角い箱のことで、死が含まれていない。もちろん含まれているものだってあるのだが、それに関してはまた別の機会に語りたいと思う(それは真実を有効に語るための、善なるフィクションということになるのだと思う)。



私が今ここで言及しているのは「あまり良くない」フィクションのことで、それは人間の精神を固い枠組みに嵌め込んでしまう。固い枠組みの中においては死を忘れることは容易である。数字で測れるものは見て、数字で測れないものは見ない。それによって閉じられた輪は完結する。空気は否応なく淀むことになる・・・。



それは一方では誘惑だが、ある意味では牢獄である。あらゆる中毒が結局のところ「苦しみ」であるのは、やはり生きている魂が牢獄に耐えることができないからなのだと思う。いや、耐えられたところで楽しくないのだ。真の意味においては。



ということで私は真の意味で生きるためには、もっと積極的な何かが必要になるのではないかと感じているのである。周囲の人間と同じことをして、ニコニコと笑って、時間を潰しているだけでは足りないのだ。それはいったい何なんだろう?



私が思うに、まず始めに風穴を開けなければならない。風穴●●。風穴は本当は空いているのだけれど、我々のほとんどがそれを目にせずに生きている。そうすれば瞬間と——現れては消えていく瞬間と——向き合わずに済むからだ。私は目を凝らす。耳を澄ます。どこかにそれが必ずあるはずだ、と信じて・・・。



しかしどの辺にあるのかは、感覚としてはいつも分かっている。要するに「盲点」である。一番近い場所。しかし一番見えにくい場所。盲点。うん。それは実のところ原理的に視覚器官では捉えられない場所にあるのかもしれない。しかし私はそれを捉えようと試みる。どうやって? 作り話を使って、だ。



この方法論は結局のところ個人的なものである。生まれ付きの性質によってやはりやり方は変わっていくだろう。ピカソは絵を描き、ドストエフスキーは小説を書いた。ジョン・レノンは音楽を作った。ジャン=リュック・ゴダールは映画を・・・。「個性」と言えばそれまでなのだが、何がその個性を作るのかまでは私たちは知らない。まあ知らなくたっていいのかもしれないのだが。



いずれにせよ「穴」の存在を感じ、自明性を疑うところから我々の作業は始まる。我々に安定した未来はない。ただ流れ続ける「現在」があるだけである。それは滝の流れのように続き・・・しかし絶対に一定ではない。同じ水は一滴たりとも存在しない。私はそれを見ている視点であるが、その私自身にしてからが動き続けている。おそらくは死ぬまで、ずっと・・・。



何の話をしていたのか忘れてしまった。そう、「作り話」のことだ。私はすぐこうやって脱線してしまうのだが、どうか許してほしい。なぜなら「流れに乗る」というのはつまりはそういったことだからだ。いつも予想していなかったものが、突然、現れてくることになる。私は自由でありながら、自由ではない。何か別のものが、そこでは「私」という意識を動かすことになる。何か別のもの・・・。



そう、作り話にはその「何か別のもの」が必要不可欠なのである。少なくとも「生きた」作り話には、ということだが。私は穴の存在を感じる。それは中枢の、さらに底の方に位置している。少なくとも私は今そう感じている。



さて、目を閉じ、耳を澄まし、呼吸をゆっくりと続けているうちに、私にはある光景が見えてくる。ついさっきまでは存在しなかった光景だ。しかし、私がきちんと認識しようと努めれば、そこに現れてくる。私は何かを作ろうとはしない。「作り話」ではあるが、私がやるのは意識を集中することだけである。私は穴の存在を感じ、そして呼吸を続けている。そしてその「呼吸を続けている自分」を少し離れた地点から眺めている。私はある場所にいる。それは・・・荒野だ



荒野。植物のほとんど生えていない褐色の地面。ひどく乾燥している。空にはどんよりとした雲が垂れ込めている。午後三時半くらいだろうか? なんとなくそんな気配がある。左手の奥の方に山脈が見える。しかし緑の木は一本も生えていない。荒野が盛り上がっただけの山脈だ。、と私は一瞬思う。



もっとも死がすべてを支配しているわけではない。たとえば私自身。私はきちんと意識を保ってこの世界にいる。それはかなり重要なことであるように、私には思える。死。たとえば風がある。本当に弱い風だが、確実に今移動を続けている。移動●●。うん。



私は移動する。前方と右手と後方には何もない。平らな——平らに近い——大地が延々と続いているだけである。もちろんどこかには果てというものがあるのだろうが(そこはどうなっているのだろう。ただの無が先に続いているのだろうか? それとも巨大な滝が? あるいは別の種類の荒野が?)、少なくとも今は私には見えない。とりあえずその前方の荒野に向けて歩いてみることにする。一歩一歩、堅実にリズムを刻みながら・・・。



トントントントントンとリズムを刻みながら私は前に進み続ける。景色はほとんど変わらない。風もちょっとしか吹かない。でも構わずに先に進み続ける。トントントントントンとリズムを刻みながら私は先に進み続ける。私は今人間ではない。移動だ。移動の総体に過ぎないのだ。



しばらく経ったところで、突然何かが起こる。私が起こしたわけじゃない。ただ勝手に起こったのである。私は立ち止まる。執拗に続いていた足音が、パタリと止まる。あたりは無音に包まれている・・・。



それは始め影のように見えた。黒くて、地面に貼り付いていたからだ。でもたぶん影ではなかったのだと思う。だってどこにも影を落とす主体がいなかったのだから。



私は今その目の前に立っている。それは直径一メートルほどの円形をしていた。もっとも完璧な円形というわけではない。大体の●●●円形だ。だから影かと思ったのだ。最初の時点では。それはよく見るともぞもぞと動いていた。まるで分裂寸前のアメーバみたいだった。もっともいつまで経っても実際に分裂したりはせず、ただ単純に「もぞもぞ」を続けているだけだった。もぞもぞ●●●●



私はふと上空を見る。するとそこにもまったく同じような形をした「もぞもぞ」があることに気付いた。さっきまではなかった。それはたしかだ。でも今は存在している。私はただ自然な世界の情景として、それを受け入れている。もぞもぞ●●●●




上空の方のものもまた黒かった。そして大体の●●●円形をしている。上の穴と下の穴、と私は思ってそれらを交互に見ている。穴? と私は思う。私は今「穴」と思った。だとすると・・・このもぞもぞたちは、つまり世界の穴だ、ということなのだろうか?



その瞬間もぞもぞが止まった。そう、ピタリと止まったのだ。ついでに風もまた止まった。私自身もまた止まっている。動いているものは何もない。少なくとも私の意識のほかは・・・。



私はふと思い立って地面にあった黒い穴(のようなもの)の上に立つ。幸い落っこちるようなこともなく、私はソリッドな地面の上に立っている。しかしその瞬間、「もぞもぞ」が再開し、私の肉体を動かし始める。風が強く吹いてくる。上の穴もまた、もぞもぞを再開している。私は下の穴のもぞもぞを感じ取り、ほとんど自動的に踊り始める。そう、踊り始めた●●●●●のだ。誰もいない荒野の真ん中において、だ。観客はどこにもいない。自分の意思で踊っているわけですらない。しかし、にもかかわらず、私は自由だった。一瞬の自由ではあったが、自由であることに変わりはない。時が自分から流れ出している、という感覚があったのはたしかだ。私は私でありながら、私ではなかった。私はもぞもぞでありながら、同時に踊りでもあった。生まれてきて良かった、と私は思う。心から●●●思う。そして次の瞬間、光が差し込んでくる。天の、ずっとずっと、高い場所から。



これが「作り話」のあらましである。私はそれを生きて、ついさっきここに帰ってきた。元の世界に、だ。でも正確に言えばここは前と同じ世界ではない。時間と共に地球は少し回転したはずだし、私自身だって変化しているはずだからだ。大事なのはその違いを記憶にきちんと留めることである。違い●●。それはあなたが移動したという証であり、世界が動き続けていることの証明でもある。私は結局のところ退屈したくないのだ。だから長々とこんな話を続けているのだと思う。



さて、今目の前に何が見えるだろうか? そこにあるのは本当にいつもの世界なのだろうか? ほら、よく見るともぞもぞが続いていないだろうか・・・?



そのようにして私は瞬間を生きる。あなたのやり方を是非今度教えてほしいのだが。


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