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13-16.第8回会談(2月6日)

この日の会談では実に多くの問題が俎上にあがりました。順にみていきます。

再び貨幣条項

この日は再び「貨幣条項」から始まりました。日本側は、商売を開いた上は「すべて冗雑じょうざつの手数は相はぶき候つもりにつき、別段金銀引替へ候には及ばず、その国のドルラルにて、直ちに当方の品物を調ととのへ、当方の金銀を以て、其の国の諸物をおぎのひ(筆者注:かけ売り)候儀、互ひに差支へこれ無き様致す可く、つきては是まで鋳滅ちゅうめつ等の為、六分のつぐなひを取り候へども、ドルラル通用の上は、其の儀も相止め申す可く候」(「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P381)と述べ、ハリスを驚かせました。

ハリスは「私が全く驚いたことには、彼らはその六パーセントを放棄して、日本の貨幣の自由な輸出を許し!、また、すべての外国貨幣は日本において自由に通用すべきことを言明したのである」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P152)と書いています。

ただしこのハリスの驚きは、前回の会談における日記(2月4日)にあるので、内々でそのような事が日本側から述べられたのだと思います。この日は、それを改めて言明されたのでしょう。

それに対し、ハリスは懸念を表明します。開港当初の外国人は日本の通貨を保有しておらず、両替できなければ関税も支払えないので、第5条はそのまま残したいと言うのです。

日本側は、外国貨幣通用に関しては、開港場でも徹底させるし、関税も含めて外国貨幣で支払う事になんの不都合もないと返します。

ハリスはさらに続けます。開港後数年経てば問題もなくなるだろうが、開港間もない頃は、日本人もドルの価値を不明であり、必ず不都合が生じるため、第5条はそのままにしたいと繰り返します。

日本側は、草案通りの内容だと、両替は必須であるように誤解されてしまうので、貴下の懸念を考慮するならば、双方の貨幣ともに日本での通用に差し支えなしとすればよいとし、外国通貨の見本として種類ごとに10ずつ差し出してもらいたいと述べました(出所:徳富同書P382〜383)。日本側は、頑なに両替を拒んでいました。

下田協約ですでに決定済みだった交換比率を、この時点でくつがえすことは不可能だったと思われる。この交換比率は、あくまでも自国通貨の含有金銀量を明らかにすることを避けた日本側にとって苦肉の策だった。当時の井上・岡田の両下田奉行は勘定吟味役の出身でもあり、自国通貨の内実を知らなかったわけはない。彼らは、アメリカがすでに日本の金銀通貨の解析を終えていると判断し、ドル金銀に対して純分量が劣る日本通貨の実態を熟知していたからこそ、それが明らかにされることを避けたと考えられる。これは、「金銀の品位が民衆の政治に対する支持をはかる指標とされ、洋金銀よりも劣る貨幣では民心をつなぎとめることはできず、洋金銀が流通するにつれて、やがて外国の政治への評価は高まり、ついには邪教(キリスト教)の国内布教にもつながる」(「日本近世貨幣史の研究/安国良一」P136〜137)と警戒していたからだとされている。下田奉行からの交渉過程の報告を受けた江戸(阿部政権)では、洋銀と一分銀の交換申請があっても、金銀貨は渡さず、その代用紙幣(銀札)を渡せないかと指示を出してもいる。

ハリスは、通貨見本に関しては取り寄せるとして、諸外国の通貨も同様の処置を記した方が良いと述べました。両替が不要になれば、改鋳費は不要となるので、それは条文から除かれることになりました。

また、ハリスは、世界のどこにおいても、その国の通貨に両替することは一般的に行われていることであると述べ、せめて開港後1年間に限り、両替すると記載することはどうかと言います。日本側はそれを了承しました。

結果的にこの取り決めは翌年7月の開港後に日本からの「金の大量流出」という事態を巻き起こしてしまいます。「徳川の幕末/松浦玲」には、こうあります。

「井上はともかく、解っている筈の岩瀬が、銀貨と銀貨を重量で比較するのだと念を押すハリスの言いなりになったのが不思議である。それぞれの貨幣で直接取引と言いながら、開港後一カ年はハリスの主張する比率での一分銀とメキシコドルの交換を付則で認めてしまう。これで金の大量流出が決まった。岩瀬の罪は重い」(「徳川の幕末/松浦玲」P63)

ここにあるように「岩瀬の罪」は重かったのでしょうか(岩瀬だけでなく、井上も正確にわかっていたはず)。

正確に言えば、ハリスの言う交換比率を認めただけでは、金の大量流出は起こりません。日本貨幣の輸出が認められていなかったら、起こらないからです。とはいえ、この日本貨幣の輸出は日本側から申し出たことです。

察するに、この輸出解禁については、前日の「公平でないように思える(原文「一体外国人より金銀を輸入し、自国よりは輸出せずと申すは、公平の儀にこれ無く候間(徳富同書P378)」)と感じたことが、原因かも知れません。

「幕府が金銀貨の輸入容認と平仄ひょうそくを合わせるべく相互主義の原則に基づいて金銀貨の輸出を解禁したとすれば、そうした意思決定は経済の原則を無視した稚拙なものと評価せざるを得ない」(「再考:幕末における金貨の大量流出/鹿野嘉昭」地方金融史研究第53号P14)と、岩瀬というより、海防掛の諸有司の総意だったと思いますが、その罪は確かに重いと言わざるを得ません。この時日本側が申し出た「日本貨幣の輸出容認」がそれを引き起こしてしまうことなるからです。

幕府は、この条項がいかなる事態を引き起こすかについて、正確に認識していた。開港間際には金銀比価を国際標準に近づけた新たな通貨を発行して、開港を待ち構えていたからである。ただし、幕府の考えた通りには進まなかった。これについては後述する。

続く

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