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8-8.ペリー去る

徳富蘇峰の慨嘆

ペリー艦隊は6月25日に、下田を出航、帰途につきます。林もこの日に役目を終えて江戸へと戻ります。約4ヶ月半にも及んだ、ここまでの道のりでした。

さて、この条約は巷間言われているように、圧倒的な軍事力によって恫喝され、言いなりになって結ばされたものだったかもしれませんが、「戦争をも辞さず」の決意をもつアメリカと、「戦争だけは避けたい」という日本の姿勢では、日本が弱腰になるのは仕方ありません。しかしそれでも、ペリーの論点の矛盾を指摘して、主張すべきは主張した林は立派だったと思います。

前述した林の報告は上司に向けたもので、手前味噌でもありすべてそのまま認めることはできませんが、アメリカの強硬姿勢に対して弱腰にならざるを得なかったことは、現代の日米関係をみるかのごとくです。

徳富蘇峰の「近世日本国民史ー開国日本(3)」には、「神奈川条約の真相」として、以下のような記述があります。

「一番の難題は、交易と近海の測量についてで、いかに手を尽くしてそれを断ろうと思っても、彼らは聞く耳を持たず、もうどうしようもなかった。ただ、表向きは交易という言葉を使うことはできなかったので、彼らが入用の物は、金銭で売り渡すというように、言い換えた。」(出所:「近世日本国民史―開国日本(3)/徳富蘇峰/Kindle版」P220より)

これは、日本の応接担当から島津斉彬が直接聞いた言葉として、同書に載せられています。徳富蘇峰は、林の報告にしても「いずれも巧言飾辞こうげんしょくじにして、ただ世間体を取り繕うたるに過ぎない。しこうして老中らにおいても、恐らくはその内情は内情として、ただ表向きにこれを受け入れたるものであろう(徳富同書P二二一)。」とし、続けて

「おそよそ幕府の痼疾こしつとして、この内外表裏の仕打ちほど、世を害し、国を誤るものはなかった。特に外交関係について、最もはなはだしとする。もし幕府の政治が、今少しく露骨に、真率に、正直に、直截に、明々白々、表裏一体、内外一貫したらんには、わが内治も、外交も、たとい当座は困難であったにせよ、失態はすくなかったであろう(徳富同書P二二一)。」

と、非難しています。彼の非難の矛先は条約の締結そのものではなく、それを結ばざるを得なかった背景や経緯を「露骨に、真率に、正直に、直截に、明々白々、表裏一体、内外一貫」して表明しなかったことに向けられています。まさにその通りだと思います。

とはいえ、「大方針」が決められなかった以上はそれも不可能なことです。

南京条約との比較

日米の条約は、清朝中国がイギリスとの間に結ばされた南京条約とは大きな違いがあります。南京条約は、加藤祐三氏の言葉を借りれば「敗戦条約」です。そうでであったために、領土の割譲、賠償金の支払いということが含まれている屈辱的なものです(ただし、当時の清朝政府はそれを屈辱だとは思っていなかった)。

それと比べれば、彼我の戦力差を冷静に分析し、まずは「避戦」の方針を堅持して交渉に臨んだことは、やむを得ないながらも、正しい選択(というよりそれしか選択肢はなかった)だったと思います。

問題は、幕府の権威の維持だけに汲々とし、それを内外に正直に説明しなかったことにあります。政権運営のトップ、老中阿部正弘は当時三四歳でした。

再び阿部正弘

阿部正弘については、「黒船来航以後、積極果敢に開国に取り組んだ(「幕臣たちの誤算/星亮一」P34)という見方があります。しかし、わたしはそれには同意し得ません。実際は、窮余の策でその場を取り繕っただけだと思われるからです。

7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩」で述べたように、阿部は自らと意を同じくする「同士」を集め、政権運営の後ろ盾にしようとは考えていましたが、ではいかなる「運営」をしようとしていたのかを考えると、基本は「攘夷」です。しかし、それがこの時点ではできないので、当面は外国にしたがうしかなかったのです。しかも、それを公言をすることは当時としては不可能でした。「夷」を「征」する大将軍が「征夷大将軍」で、それが幕府の存在意義だからです。もし、それができないなどと言えば、幕府の権威は吹っ飛んでしまう。だから、その場を取り繕うしかなかったのです。

「伊勢守(筆者注阿部のこと)とても断固たる大識見ありて開国説を採りたるにはあらず、外国と通信はもとより好まざる所なれども、目前軍備不充分にして、戦うも勝算なきを以て、しばらく彼が望に応じて通信を許可するのみ(「幕末政治家/福地桜痴」P32)。」

概ね、これが正しい見方だと思っています。

1854年7月11日

この日、ニューヨークタイムズ紙は、アダムズが日本と締結した条約をもってハワイに到着したことを、条約の内容とともに伝え、長崎で交渉に失敗したロシア艦隊と比べて、ペリーの成功を大きく取りあげていました(出所:日本開国/渡辺惣樹)P226〜228)。

孝明天皇への奏上

アメリカとの条約締結は、幕府にとって祖法(「鎖国」)の破棄を意味したものではなく、これまでの薪水給与令の延長線上にあり、それまでの法制、体制と矛盾するものではないとしました。そう取り繕ったわけですが、この段階では、あくまでも祖法を堅持したというのが同時代人の認識でもありました(「出所:「攘夷の幕末史/町田明弘」P52)。孝明天皇も和親条約締結の翌年にそれが奏上されたとき、その内容を嘉納しています。

この4年後、「日米修好通商条約」を拒絶したのとは反応が大きく異なるのです。

※幕府は、このあとすぐに箱館港並びにその周辺地を松前藩から上知させて直轄地とし、箱館奉行をおく体制を整えた。外国との交渉の矢面にたつオランダ通詞たちは長崎から箱館まで赴任しなければならなくなった。

この章終わり

次回から、新しい章へ変わります。この後も、イギリス、ロシアとも幕府は条約を結ばざるを得なくなっていきますが、それを見ていきます。


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