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5-12.洋式船の建造

怪しい通訳

1849年6月には、神奈川県城ヶ島沖にイギリス軍艦マリナーが姿を現しました。同艦には、乗り込んできた浦賀奉行の与力にむかって、流暢な日本語で話しかけてきた通訳がいました。彼は林阿多リン・アトウと名乗り、長崎にいたことがある父親から日本語を習った中国人と与力に話します。しかし、彼は12年前にモリソン号に乗って、帰国を果たせなかった宝順丸の音吉でした。素性を正直にはいえません。しきりに上陸を求めたり、衣服の交換を望んだりといった彼の言動は、「日本人ではないか」という疑念を幕府に与えます。

海防の強化

マリナーは、1週間程度の停泊で退去していきましたが、この日本人らしき人間が異国船に乗っていたということが大問題となり、あらためて海防の強化令を出しました。阿部正弘の狙いは諸藩の海防強化と農兵の採用を諸藩に決断させることでした。従来の警備方法は、各藩に担当地域を割り当てていたものの、そこでの常備兵力は十分なものではありません。幕府によって、警備兵力の増員が決定、各藩に下令された場合、国元からの増員兵力を移動させるのは時間もかかりますし、航行する異国船によってその兵力の移動も必要になります。その時間的なロスと、各藩の財政負担を考えると、あらかじめ沿岸に農民を主体とした常備兵力を備えておくように考えたことは、合理的な判断でした。

しかし、これを受けて台場(砲台)の整備をおこなった藩はいくつかあるものの、農兵を採用した藩は皆無、幕府自身も農兵の採用はできませんでした(出所:「幕末の海防戦略/上白石実」P185)。

洋式船の建造

しかし、一方でこの年には浦賀奉行から幕府へ対し、「洋式軍艦建造」の上申がだされ、その結果2隻が建造されています。洋船の外観となることに幕府内に異論が出て、マストの数を当初設計の3本から2本とし、帆装も和船の様式となっていた和洋折衷型でした(出所:「幕府海軍/金澤裕之」P27)。軍艦とはいえ、全長は約17メートルしかなく、ペリー艦隊の旗艦サスケハナの約77メートルとは比較になりませんでした。それでも、幕府のもつ船の中では最大の大きさで、戦闘用としてではなく主に警備、連絡用として使われました。

幕府は、大船建造禁止令を1635 年に発令していました(但し 1638年には商船に限り解禁)。大阪市「なにわの海の時空館」にある千石積の商用帆船の実物大の復元模型は、全長約30メートルです。これが当時もっとも一般的なもので、最大は三千石積のものまでありました(出所:Wikipedia「弁財船」)。

音吉、その後

その後音吉について書いておきましょう。彼はその5年後の1854年、イギリス艦隊司令長官スターリングの通訳としても長崎にやってきます(日米和親条約締結直後のこと。このとき、日英和親条約が締結)。1862年にはシンガポールに移住し、そこで、幕府が初めてヨーロッパへ向けて派遣した使節一行にも会っているようです。13歳で漂流し、再び日本の地(長崎)を踏んだのは35歳になってから。長崎においては、イギリス事情を知り、かつ貴重な英語の通訳として、幕臣としてスカウトも受けたが、彼は当時上海のデント商会の社員でもあり、そこでの基盤があるからと断っています。幕府の政策によって自分の人生が翻弄されたことを恨んではいなかっただろうか、知る術もありません。彼は日本に戻ることなく、イギリスに帰化した初の日本人となって、シンガポールで人生を閉じた。四九歳でした。(出所:Wikipedia「音吉」)

タイトル画像は、この時中国人と名乗った音吉を描いたものと考えられる(出所:Wikipedia「音吉」)。

続く。


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