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13-18.第8回会談(2月6日)その3
領事裁判権問題など
領事裁判権は第6条、国内旅行の自由権は第7条にありました。領事裁判権については、語句の確認のみで概ね草案通りに決着します。前述したように、日本で法を犯した外国人を日本人同様に日本が裁くことは考えられなかったので、法を犯したアメリカ人をアメリカが自ら裁いてくれることは好都合と考えていたのです。
国内旅行自由権は、第7条に官吏以外の一般のアメリカ人を対象としたもので、ここに全国として京都が含まれることに議論が紛糾したわけですが、ここで議題にあがったのは「罪を犯したアメリカ人は居住地より3里の外へ出てはならない」という規定に対しての疑義で、日本側は「居留地より出てはならない」としたいとしました。
ハリスは、その文言では戸外へ出てはならないとも受け取れるので、草案通りとしたいと返しました。日本側は「里数は、開港場所によって異なるので、3里とはせずに追ってそれぞれの地で定めるとしたらどうか」とし、ハリスもそれに同意しました。
キリスト教問題
次いでキリスト教(第8条)についですが、これも語句の確認の意味合いが多く、議論が紛糾することはありませんでした。草案には、礼拝所の建設の許可、並びに「踏み絵」の禁止も謳われていました。日本側からは、礼拝所は複数建てられるものか、そこで何をするのか、埋葬場所とは違うのかなどの質問がありました。
アメリカ人犯罪者捕縛の日本政府の援助
これは、第9条にありました。日本で罪を犯したアメリカ人の捕縛に対して日本政府が援助することを規定したもので、「アメリカ人の犯罪者は、本来はアメリカ官吏が取り押さえるべきものだが、人数も少ないので、その際は奉行所の協力がほしい」(出所:「近世日本国民史/堀田正睦(四)/徳富蘇峰」Kindle版P401)という内容です。これについては同意され、詳細については別途定めることとなりました。
武器の輸入問題
次いで第10条の武器の輸入問題です。日本側から、武器の輸入は政府並びに武家のみと制限することを言われ、ハリスは承諾、第3条の中に記載されることになりました。
第11条から第14条まで
11条は、アメリカ国内における日本船、並びに日本人への最恵国待遇について、12条は条約の附則として貿易章程を定めること、13条はこれまでアメリカと結んだ条約の内容は、すべて新条約に包含させて以前の条約は廃止すること、第14条は条約の改正規定で、締結後5年経ったのちその1年前に発議することを条件に改正の交渉が可能となるとしたものでした。
ここまでは、日本側からの確認、並びに語句の修正のみですんなり合意しました。この第11条は、あくまでも「アメリカ国内での日本船、日本人」に対しての最恵国待遇であり条約全体へのそれではありません。また、第14条の条約改正については、それが日本の望むように改正できたのは、1911年(明治44年)のことですので、この時から50年以上の時が必要でした。
条約※均霑を謳った15条について
※均霑:平等に利益をえること
ハリスは15条において、この条約をアメリカとだけのものにするのではなく、具体の国名を挙げて、それらへもアメリカと結んだ内容を許すべしということを記載していました。
日本側は、今後外国より貿易を乞われた場合にはこの条約通り許すべしと、国名を除いた文章にしたいと言います。ハリスは「諸外国はみな軍艦を引き連れてやってくるはずで、そうなったらまた日本は余計な手数がかかるであろうから、それを未然に防ぐために、私が記した通りしたほうがよい」(出所:徳富同書P403〜404)と返しました。
これに対して日本側は、「当方においては、条約済みの国に限らず、何方の国人にても、実意を以て請ふ者これ有る節は、譬へ数艘の軍艦を向けて来り請ふをも、一艘の小船にて来り候も、同様此の条約を規則とし、誠実を以て相応じ候つもりにこれ有り候」(徳富同書P404)と見事に返します。
ハリスの物言いに毅然と言い返したように思えます。ハリスは、日本のためと思って加えた条文なので、全文削除をしても何の問題もないと述べ、「他の国々が望んだ場合には、この条約内容を許す」としたらどうかと提案、日本側もそれを受け入れました。
条約発効日並びに批准について
草案最後の16条は、この条約を1859年7月4日から発効するとし、条約の批准についてが記されていました(7月4日としたのはアメリカ独立記念日に合わせたから)。日本側からは「当方から使節を派遣し、ワシントンにて批准をおこないたい」旨が述べられ、ハリスを感激させました。
「彼らは、もし貴下が希望するならば、この目的のために日本の蒸気船に使節をのせて、カリフォルニアを経由してワシントンに派遣することにしてはと提議した!私は、私にとって、これ以上の喜びはないと述べ、合衆国は日本がこれまで条約を結んだ最初の大国であるから、最初の日本使節を合衆国へ送ることは、私の大いに喜びとするところであると彼らに告げた」(「ハリス日本滞在記(下)/坂田精一訳」P155)
ハリスは日記にこう記しています。これを発議したのはおそらく岩瀬でしょう。岩瀬は自らがワシントンへ行くことに期待に胸を膨らませていたと思います。当時の彼には十分にその資格があったことは間違いありません。この条項は、不測の事態によりワシントンでの批准交換がおこなわれなくとも、条約が発効されることを書き加える形で合意を得ました。
岩瀬は、このハリスの驚きと感激がよほど印象的だったと思われる。のちに越前藩主松平慶永(春嶽公)に、「ハリスと応接を始めてから、こちらの言ったことでハリスを驚かせたのはこれだけだった」と笑いながら語ったらしい(出所:「日本近世国民史/堀田正睦(五)/徳富蘇峰」Kindle版P92)。
この日は、貿易章程に関しても具体の関税率についてを除き、一旦は承認されました。冒頭の開港場所で紛糾はしましたが、それ以降はスムーズに各条項の合意がされたことがわかります。
次回は、2月8日。開始時刻は午前8時と決められ、この日の会談は終わりました。
ハリスの日記によれば終了時刻は午後7時でした。日の暮れるのも早い、厳冬のこの時期、今と比べれば満足な暖房もない部屋の一室でのここまでの会談の様子。井上・岩瀬の両名は、罷り間違えば切腹ということもあり得たと思います。わたしは彼らを思いやると、襟を正したくなります。
続く