9-12.海軍伝習所その後の進展
3度の伝習生
少し時間を進めて、伝習所のその後を説明しておきます。1856年になると、最初の伝習生のうち7名が江戸へ呼び戻されます。そのうちの何名かは幕府が新たに創設した講武所(1856年4月に砲術や洋式訓練、他武芸全般の教育機関として築地におかれた)の講師となりました。抜けた補充に新たな生徒が加わり、新たに加わった中には榎本釜二郎(武揚)がいます。彼は聴講生という位置付けでした。最初の入学組は所定の教育を終え、1857年に去っていくと、新たな伝習生が加わります。都合3回にわたって、伝習生が入所することになりました。
咸臨丸とカッテンディーケ
また、1857年には幕府がオランダへ発注していた蒸気軍艦ヤパンが長崎へ回航されてきます。これが日本名「咸臨丸」となった船です。そしてヤパン艦長だったカッテンディーケ大尉を長とする新たな教官団が、ライケン大尉ら初期教官団と交代して長崎に駐在することになります。
ライケン大尉(日本滞在中に中佐に進級)はのちに、海軍少将となり外交顧問兼海軍大臣、カッテンディーケ大尉(同じく中佐に進級)ものちに海軍大臣、外務大臣を務めています。オランダ政府は、第一級の人物を送り込んでくれたことになります。
ポンペ
この第2次教官団の中には、軍医であったポンペがいました。ポンペは日本において「近代西洋医学教育の父」として知られ、長崎奉行所内に設けられた「医学伝習所(長崎大学医学部の前身となる)」でのポンペの初講義日、11月12日(1957年)は、長崎大学医学部の創立記念日となっています。
ポンペは教育の傍らで治療も行い、その数は日本を離れるまでの5年間でおよそ14,000人といわれています(出所:Wikipedia「ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト」)。来日当時28歳でした。
ポンペは、日本での滞在をまとめた手記を「日本における5年間」として、のちに出版しています(日本名「ポンペ日本滞在見聞記/訳:沼田次郎、荒瀬進/雄松堂書店」)。彼はこんな文章を残しています。やや長いですがご紹介します。
「一体ある国が国内政治はすでに十分に調和がとれており、かつ満足しているのに、それにわざわざ割り込んでとやかく何か強要する権利がどの程度あるものであろうか、はなはだ疑問に思う。また産物は十分以上にあって、日常生活に必要なものは何でも手に入る国柄であり、その国民は特に日々の生活を幸福に感じており、確かに名前は一応専制国だとはいわれているものの、事実、政治は公平であり、慈父のごとき温情があり、また自由である国。そのうえ誰も外国人と接触して教えを乞うような気持ちのない国柄。そのような国に対して圧力をかけて通商条約を結ぼうとしたり、その国の政治を混乱に追い込もうとしたり、何百年来の古くかつ尊重すべきその国の法律を破壊し、またその国を血なまぐさい内乱に追い込むような権利があるものだろうか(この懸念はすでに一部現れているようだ)。一言にしていえば、社会組織と国家組織との相互の関係をいっきょに打ち壊すようなことをしてよいものだろうか?」(「ポンペ日本滞在見聞記/訳:沼田次郎、荒瀬進」P44)
外国との交渉にあたった幕府官僚の心情を言語化すれば、このポンペと同じようなことを感じていたのではないかと思います。ポンペの手記は、当時の日本並びに日本人への愛情に満ち溢れています。
カッテンディーケ
同じように、カッテンディーケもまた日本滞在の2年間を手記に著しました(「長崎海軍伝習所の日々/カッテンディーケ/水田信利訳/平凡社」)。ポンペと同様に、彼の手記も日本ならびに日本人に対する深い愛情で満ち溢れています。彼は41歳での来日です。
ちなみに、この頃来日した外国人の手記としてアメリカ、ハリスの「日本滞在記」、イギリス、オールコックの「大君の都」の2冊と、上記オランダ人の2冊を比べると、その「愛情」の差は歴然とみることができます。4名の教養や性格の違いがその差を生み出しのかも知れませんが、ひとつ言えるのは、その4名が日頃接することのできた人の差ではなかったか。ハリスやオールコックは幕府の高級官僚が中心、ポンペやカッテンディーケは、一般庶民を含んだ下級官僚や他国の藩士たちでした。
また長崎における「オランダ人」そのものを見る目と、江戸(下田)において、「アメリカ人」「イギリス人」をみる庶民の目が大きく異なっていたことが原因だったかもしれません。
次回、カッテンディーケの手記についご紹介していきます。
続く
タイトル画像:ポンペ
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