1-3.西洋との最初の出会い
1543 種子島 ポルトガル
ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えたと歴史で習ったはずです。近年の研究によると、それより前にそれが持ち込まれていた可能性も大いにあるとのことですが、このポルトガル人は、何を目的として遠い異国の地日本まで来たのでしょうか。
それは鉄砲を「伝える」ためではないし、そもそもポルトガルという国からポルトガルの船で来たわけでもありません。また、種子島に偶然漂着した可能性もあり、その目的ははっきりとはわかっていないようです。
種子島へ鉄砲が伝わったことを、後世に遺そうと書かれた「鉄炮記」(1606年)には、そのポルトガル人3名の名前と、その見慣れない大柄な人間たちは商人であると説明を受けたと記されています。これを日本人に説明(筆談。砂浜に杖で文字を書いたらしい)したのは、その船の船主であった王直(おうちょく)という中国人であったといわれています。彼は、当時中国大陸沿岸を根城とする「倭寇(わこう)」の大頭目でした。王直は、のちに中国での拠点を追われると、日本の五島列島に新たな根拠地を築き、自らは平戸に居を構えました。王直ゆかりといわれる遺跡は今も五島市福江町に残っています。
倭寇
「倭寇」。これも歴史で習う言葉です。彼らは、中国沿岸域から東南アジア、そして日本までをテリトリーとした、密貿易をおこなう武装商人でした。その主要因は、中国国内における生産量の増大と海禁政策(後述)の行き詰まりでした。この時期の倭寇は、「倭」という文字があるからと言って日本人だけであったわけではありません。むしろ中国沿海地方(今の浙江省、福建省、広東省)の出身者が多くを占めていました(出所:「東アジア海域に漕ぎだすI ―海から見た歴史/羽田正編」(以降「東アジア/羽田」と記す)P123)。
王直が説明したポルトガル人の来歴
王直はポルトガル人のことを以下のように説明しました。
「これは、はるか西南の方の蛮国の商人たちである。一通りは君臣の間の、守るべきすじみちはわきまえているとは言え、その中にも守らなければならないつつしみや作法を知らない。それ故に飲物を飲むにも杯(さかずき/筆者註)を用いることもなく、喰べるときもそのまま指で喰べ、箸を使うこともない。自分の好きなことにふけり、学問が天地のすじみちをあきらかにすることも知らない。いわばこの商人たちは、何処か利のあるところに行けばそこに腰をすえると言うたぐいである。自分らの持っている物を、無い処に行って売るもので、別段あやしいものではない」(「意訳 鉄砲記」西之表島市立図書館P2)
「つつしみや作法を知らない」「ものを指で喰べる」と軽蔑したような物言いです。また、漢文で王直と意思疎通ができた人間(村長だった)が種子島にいたこと、すなわち、当時の日本の知識水準とその広がりを感じさせます。
ちなみに、この時代のヨーロッパで、食卓でフォークが使われるのは一般的ではなかった。17世紀初頭にヴェネツィアを旅したイギリス人が書いた旅行記には、イタリアで目撃したフォークを使っての食事風景に触発され、それを真似る事は良いことだと思いフォークを買い求め、それを帰国後に広めようとしたことが記されている(出所:「中世の食卓から/石井美樹子」P108〜117)。フィンガーボールという指を洗う道具がテーブルに置かれることがあるが、それは肉でもなんでも指で食べていたヨーロッパ人の食卓に必須のものだった
続く