11-1.日蘭追加条約交渉の開始
交渉の土台
1856年8月20日まで戻ります。
この日、クルチウスは長崎奉行と会談したことは前述しました(10-3.堀田正睦と岩瀬忠震)。この会談の内容を詳しく見ていきます。
クルチウスはこの時、自由貿易(当時は緩優交易と訳された)が世界の大勢であることを説き、その実施について、長崎ではオランダ人だけでなく通商条約を結ぶことを望む他国民にもその権利を与え、長崎同様、下田・箱館でもそれを許すべきと提案しています。また、交易の形態として、外国より輸入する商品をまた外国へ転売する「仲介交易」というものがあること挙げ、そこにも一般貿易と同じく、関税を課すべきであると説明しました。
長崎奉行は、クルチウスが提出した条約草案を検討した結果、草案には「自由貿易」に関しての事項、並びに和親条約を拡張することも含まれているので、それは長崎だけでは決められない。したがって、江戸からの回答が来るまでは交渉はできない、それまで半年はかかるであろうとクルチウスに回答したのです。10月のことです。前述したように、江戸は貿易調査の時間も必要だったことから、この回答になったわけです。
しかしクルチウスは、この後12月29日になると、オランダ商館が、長崎に入港する外国商船との間に立って仲買商売をしたい旨を述べ、長崎奉行はそれを許可しました。クルチウスは「外国人よりオランダ商館が品物を買い取ることが許可された時には、従来の『脇荷』のやり方をもって日本人へ売り渡すことも、日本人より外国人へ売り渡すことも可能になる」と述べ、「これが日本人と外国人と直接通商する条約が締結される際の準備となる」ことを説明しています(出所:「日本開国史/石井孝」P176)。
脇荷物と本方荷物(2種類の貿易形態)
ここでいう「脇荷」とは、オランダとの貿易形態の一つで、「本方荷物」と対をなすものです。簡単にいえば、「本方荷物」は幕府の公貿易(この時期輸入するものは、染織品、砂糖、皮革、薬品など、輸出は銅や樟脳だった)、「脇荷物」は、本方荷物以外の禁制品(武器・刀剣など)以外のすべての品物(例えば薬品類、ガラス器、陶磁器、時計など)を扱う私貿易でした。オランダ側からみても、本国(バタヴィア政庁)の会計に記載されるのは本方を対象とするものだけで、脇荷は載りません。つまり双方にとって私貿易でした。しかしオランダにおいては、1855年にはそれまで私貿易扱いだった脇荷も本方同様に会計に記載されるようになりました。
「本方」「脇荷」双方の取引は「長崎会所」でおこなわれたため、「会所貿易」と総称されていますが、取引形態は異なっており、本方荷物は、オランダからの輸入品を長崎会所が一括で買い上げ、それを会所が日本商人に入札で販売する方式、一方の脇荷荷物は、同じく長崎会所において日本商人が直接入札をおこなう方式で、入札額の35%を会所に納めなければなりませんでした。
クルチウスと長崎奉行双方の目論見
クルチウスは、オランダの仲介で外国商船から買った物を「脇荷貿易」の形態で日本に売り渡し、同様に日本人が外国商人へ売ることができると説いたのです。自由貿易の交渉が難しいとみるや、幕府も受け入れるのに抵抗は少ないと考えた、この仲介商法に作戦を転じたのです。
この提案を受けた新任長崎奉行荒尾成允は、これを早速江戸へ上申します。荒尾はこの「オランダが第三国と交渉して、仲介の労を引き受けてくれるだろう」という楽観的な推測の上、この仲介方式なら「自由貿易を開くよりは、その問題点も少なく、さらにこれによる貿易額が増加すれば、従来通り脇荷入札額の35%も増えるわけで、国益ともなる」といった内容でした(出所:「日本開国史/石井孝」P177)。
この「脇荷貿易の拡大」という路線は、諸外国からの自由貿易の要求に対する、当面の対応方式となっていきます。
続く