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9-10.日蘭和親条約その2

スンビン(Soembing)の贈呈

江戸からの返答を待つ間、10月5日にはスンビンの贈呈式が行なわれ、この時初めて「日の丸」のみが日本の国旗としてスンビンのマストに掲げられています。同時期、長崎に来ていたスターリングは、日の丸を掲げた蒸気軍艦に驚いたと思います。

なお9月18日には、江戸から派遣されてきた伝習生が長崎へ到着、22日には新任長崎奉行(川村)も到着しています(以降、荒尾・川村の2名奉行体制)。

進まぬ条約交渉

しかし、条約の交渉は一向に進みません。前述(「9-7」「9-8」)したように、この時期の長崎は、対イギリス問題にかかりきりになっていたからです。クルチウスらは、ファビウスがへデーで離日する時期をタイムリミットとして、条約の締結を急ぐことを考えました。強硬策といっていいでしょう。教官を連れ去ると脅さなければ、条約締結は、ずるずると引き延ばされると懸念したからです。

徳富蘇峰は「されどオランダ側が、日本側に向かって、その気焔を吐いたのは、寛永以来今回がはじめてであったかも知れない。今回は海軍伝習なる大なる交換条件を持っていたから、日本側でも否応なしに、その要求を聴納せねばならぬ次第となったものであろう(「近世日本国民史―開国4/徳富蘇峰kindle版」P445)。」と述べています。

最終手段

クルチウスは、10月中旬に「今月末をもってヘデーは出航する予定である」と通告します。それに対し、奉行からは翌日「出航時期について熟考を賜りたい」という懇願のような文書が届けられました。これを受けて、クルチウスは10月末の期限を一旦は延期することを伝え、「教官が残留し、へデーが条約を携えて離日することを熱望している。この問題の緊急性が両国にとってきわめて重要である」と返答しました(出所:「海国日本の夜明け/フォス・美弥子編」P233)。

江戸からの返事を待ち侘びていたのは、長崎奉行らも同様でした。教官団が帰ってしまったら、せっかく受納したスンビンを動かすことができなくなるからで、幕府海軍創設も潰えてしまうことになりかねません。

仮条約締結の提案

11月に入り、クルチウスは江戸からの返答が届く前に、条約の条項すべてに対して、暫定的に協定を結ぶことを提言し、奉行らの同意を取り付けました。

その中での最大の問題は、第1条の「長崎におけるオランダ人の自由」に関してでした。奉行らはオランダ人の長崎遊歩の緩和には理解を示しつつも、江戸の許可が必須です。奉行らは、それに関してのみクルチウスから文書を提出させます。

クルチウスは、

籠居ろうきょ警護のかど廃し候儀そうろうぎは、和蘭政府において申し立て規定中、最も緊要の个条かじょう御座候ござそうろう(「大日本古文書/幕末関係文書之13」P24、現代かなづかいに改めた)」

と述べ、続けてこの条項は、日本側にとっても「最難事に御座候儀は、私に於いても承知つかまつり居り候」とした文書(11月6日付)としたものです。

第1条が譲歩できない理由

オランダが「最も緊要の个条」とした第1条については、譲歩できない理由がありました。それは、日米和親条約第5条に

「合衆国の漂流民其他の者共、当分下田箱館逗留中、長崎に於て唐和蘭とうおらんだ人同様閉籠窮屈へいろうきゅうくつ取扱無之とりあつかいこれなく下田港内の小島周り七里の内は勝手に徘徊いたし、箱館港の儀は追て取極候事」

と書かれていたからです。

中国人やオランダ人のような不当な扱いを受けたくないと記すこの条項に、オランダ政府は衝撃を受けたのです。したがって、この長崎遊歩の自由を条約に盛り込むことはオランダ政府の名誉にとって必須だったのです(出所:「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」P164〜165)。

江戸への催促と独断

奉行はこの文書とともに、あらためて江戸へ上申書(11月7日付)を送りました。これまでの交渉経緯を記すとともに、これ以上締結を延ばせない、そうしないと派遣隊が帰ってしまうので、長崎奉行独断で締結するという事後承諾の内容でした。特に、第1条の発効日は、他条項よりも早い12月1日以降としていました。松浦玲氏によると、「『取極書(筆者注:仮条約)』の全体を江戸が承認しなくても、この第一条だけは長崎奉行の責任で発効させると念書がいれてあった。」(出所:「徳川の幕末/松浦玲」P45)らしい。

仮条約の締結

そして、11月9日、「日蘭仮条約」が、長崎奉行とクルチウス(ここで初めて「領事」の肩書きが使用された)の間で締結されました。ファビウスは、通詞から聞いた言葉として「新任奉行は今日午前中に窮地に立ち、『それなら、派遣隊が立ち去ってもかまわない』」とまで発言したことを聞いたと日誌に記しています(出所:「海国日本」P259)。奉行所内でも議論が紛糾したことが伺えます。ファビウスは、締結前日の8日に正式に残留する教官団を任命しました。

クルチウスが提出した条約草案のうち、第7条の「オランダ人の宗教生活の自由」だけは完全削除された。奉行は「出島に教会を建てたり、聖職者を招聘したりすることは禁じているが、オランダ人の信仰を妨げない。出島のオランダ人がこれまで自宅での信仰を妨げられたことがあったか。」と逆に聞き返し、それについて「そのような実例をあげることはできない」とクルチウスも回答した。

続けてクルチウスは「この問題に関して奉行の約束がもらえるのは嬉しいが、私は最後までこの規定が条約に取りあげられるように催促し続けるつもりである。」と述べ、この問題はクルチウスが譲歩した(出所:「ドンケル・クルチウス覚え書/フォス・美弥子編」P191)。これに固執していたら、この時点で条約の締結は不可能だったと考えられる。

「名を捨て実を取れ」と求めた奉行にクルチウスが応じた結果です。

続く

タイトル画像:スンビン


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